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2011年10月27日 (木)

『共同幻想論』・起源論から

 「起源論」ダイレクトに国家の起源を解き明かす論考です。国家の生成の要件を“血縁からの離脱”とシンプルに指摘した考察は共同幻想論を代表するものとなりました。国家の機能を分析したものにはレーニン『国家と革命』があり、吉本はファンクショナルなものとしてはこれを高く評価しています。国家間の関係については、個人と個人の関係が互いに表出されるファンクショナルな要件(表情、言葉、行動、約束など)に左右されるように、幻想性より物的要件(の機能へ)の把握が第一義となります。もちろん機能分析をいくら行なっても認識=心的現象の解明がなければ国家の起源は不明のままでしょう。

 命名の仕方には場所や形、機能を表すなどいくつか基本形(正確には段階)があり、アメリカンネイティヴの名=呼称ならば“小さな谷に住む人”“大きな熊”“鷲のような手の男”などというものがあるでしょう。公家の名前が職能を表しているように、文字どおり名は体を表します。起源論では初期天皇の名が諸国の大官(専門職)の名であるところから邪馬台国の歴史的な段階や規模が特定される可能性が示されています。

 「天つ罪」と「国つ罪」が混成する古代日本の共同性のレベル。そこには背理などではなく重層的非決定というべき構成のイメージがあります。この「共同幻想の<アジア>的特性」とされるものを解明しようとする方法論こそ、マルクスやニーチェが欧米語の外に見いだそうとし、ヨーロッパ諸学の危機を超えられる可能性となるものでしょう。

 マルクスが一つの商品から資本主義のすべてを鋭く洞察し、小林秀雄が一つの言葉から文学を探究しようとしたように、この『共同幻想論』も『遠野物語』『古事記』という限られた資料から論がすすめられています。それはデータの多寡ではなく思考能力がものをいう正統な考察の典型といえるでしょう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【起源論】

P239
はじめに<国家>とよびうるプリミティヴな形態は、
村落社会の<共同幻想>がどんな意味でも、
血縁的な共同性から独立にあらわれたものをさしている。

この条件がみたされたら村落社会の<共同幻想>ははじめて、
家族あるいは親族体系の共同性から分離してあらわれる。

そのとき<共同幻想>は家族形態と親族体系の地平を離脱して、
それ自体で独自な水準を確定するようになる。

P240
<国家>の本質は<共同幻想>であり、
どんな物的な構成体でもない…

論理的にかんがえられるかぎりでは、
同母の<兄弟>と<姉妹>のあいだの婚姻が、
最初に禁制になった村落社会では
<国家>は存在する可能性をもったということができる。

 いちばんシンプルでラジカルな絶対的な国家の定義がここにあります。「物的な構成体」への分析は一般的な経済学から政治学をはじめさまざまなものがありますが、国家の起源を問えたものは極めて少ないと思われます。萱野稔人のようなポストモダン批判を意図した丁寧?な国家論(『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』『国家とはなにか』)もありますが、それは現代思想そのままにファンクショナルなもの。国家の機能や現状への分析は必要ですが、それだけでは国家の起源を問うたことにはなりません。

P262
初期天皇群につけられた<ヒコ><ミミ><タマ><ワケ>などが、
いずれも邪馬台的な段階と規模の<国家>群での
諸国家の大官の呼称だという事実は、ここでとりあげるに価する。

 邪馬台国と同レベルの諸国家のテクノクラートの官名?が天皇の名だった…という事実から推測できることは少なくありません。最近の埼玉古墳群などの大規模な遺跡の発見や多くの鉄器の出土のように、畿内より大きく進歩した文明の証左は今後も続くでしょう。邪馬台国や天皇が絶対的な存在でも権力でもなく、その規模も100余りある国家の一つだったことそのものが、系統だった神話を必要としたのだと考えられます。アジア的な大規模な潅漑や土木ではなく、観念に持ち込まれた大工事であり大改造のサンプルが古事記や日本書紀なのです。「物的な構成体」の貧弱さを観念に大工事を持ち込むことでクリアしていったことが推論できます。

P262~263
太古における農耕法的な<法>概念は<アマ>氏の名を冠せられ(天つ罪)、
もっと層が旧いとかんがえられる婚姻法的な<法>概念は、
土着的な古勢力のものになぞらえられている(国つ罪)。
この矛盾は太古のプリミティヴな<国家>の
<共同幻想>の構成を理解するのに混乱と不明瞭さをあたえている。
これは幾重にも重層化されて混血されたとみられる
わが民族の起源の解明を困難にしている。

 同じ行為が天つ罪になりながらも国つ罪にならない、あるはその逆であるなどの事実から罪を認識するスタンスが少なくとも2系統あることを見出し、そこから思索が展開されていきます。少なくとも全く異なる2つ以上の系統の人間(部族、氏族)が一緒に共同体を形成していったことが解き明かさてれていきます。<高天が原>と<出雲>の両方を象徴するスサノオの存在がその代表的なひとつです。

2011年10月25日 (火)

『共同幻想論』・規範論から2

 「規範論」は古代日本において約束や掟、法というさまざまなレベルの<決まり>が<規範>と化す過程を追いながら、宗教や法、国家の生成を解き明かしていきます。

 天つ国、国つ罪の2つのレベルの法がキメラな国家の法を形成していく過程から2つの共同性の並列と混在が探究されます。

 宗教権力と政治権力の並列、神権的な勢力と農耕的な勢力の混在、祭と政…。狩猟と農耕…。それらにトーナリティをもたせていくもの。マルクスが示唆したアジア的なものとはまた別の「共同幻想の<アジア>的特性」 が考察されていきます。

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【規範論】

P234
人間のあらゆる共同性が、家族の<性>的な共同性から社会の共同性まで
すべて<醜悪な戯れ>だとかんがえられたとしたら、未開の種族にとって、
それは<自然>から離れたという畏怖に発祥している。人間は<自然>の
部分であるのに対他的な関係にはいりこんでしか生存が保てない。

 「<自然>から離れた」という認識は自然が対象化されたことを意味します。マルクスでは「組み込み」とか「埋め込み」といわれる概念で、<人間>は<労働>を媒介にして<自然>を<組み込>んでいく…というように考察されています。
 <醜悪な戯れ>を生みだした自然からの乖離とはどのようなものだったのでしょうか。マルクスが労働を媒介とするもの(その全般的な構造が下部構造)と考えたそれは、ここでは共同幻想(上部構造)として考察されています。

 「離れた」相当量が原生的疎外であり、そこからベクトル変容した観念から生成するのが「畏怖」です。心的現象論的には自我のエスからの離脱志向を自我を主体にすれば罪にエスを主体にすれば道徳になるもの。エスを人間個体にとっての自然とすれば、「<自然>から離れたという畏怖」というのはエスから離れた自我の罪(の意識)になるでしょう。
罪の意識が対象に投影されて畏怖として認識されるわけです。

P227
『古事記』のスサノオが二重に象徴している<高天が原>と<出雲>の両方での
<法>的な概念は、この解釈では大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接点を
意味している。それは同時に<天つ罪>の概念と<国つ罪>の概念との接続点を
意味していることになる。

 ローマ・カトリックがゲルマンのアニミズムを禁止し、やがてゲルマン側は神聖ローマの冠を戴いたように宗教と政治、権力のあり方は錯綜します。ユダヤ人の扱われ方から社会のレベルを解析したマルクスのように、社会(共同体)を時間性・空間性に解体しつつ不可逆な変遷(時間)と空間性の可換・不可換、時空間の変換を考察するというアプローチで古代日本の神話から日本という国家の成り立ちが明かされていきます。ルフェーブルが時空間性から都市問題を解析し、資本論をアルチュセールが時空間性で再読しようとしたように、それ以上の微分不可能なラジカルな概念装置による原理論は時空間概念を駆使したものです。

P229
氏族(前氏族)制の内部から部族的な共同性が形成されていくにつれて、
しだいに<天つ罪>のカテゴリーに属する農耕社会法を
<共同幻想>として抽出するにいたった…

このような段階では<法>はどんな意味でも垂直性(法権力)をもたず、
ただ<国つ罪>に属するものに、いくらかの農耕法的な要素を混入させた
習慣法あるいは禁制として、村落の共同性を堅持するものにすぎなかった。

 「垂直性(法権力)」をもたない法のあり方とは何か? 上から?見れば宗教的道徳的な、下から?みれば日常的な、(まだ)権力ではない法が治める状態つまり政治未然の法治というものが示されています。逆にいえば法治主義が絶対だと思わせる現況の社会がある種の異常でありうる可能性さえ演繹できる観点があります。ゲームや形式論理においてルール(法)は絶対ですが、リアル(現実)はゲームでも形式(論理)でもないからです。ルールはルールの設定者の最大利益に最適化されている、ルールの尊守はルール外への対応を不可能にする…この2つは、コンプライアンスが尊ばれる現況では隠蔽されています。それが法権力(法治)のリアルであることは宮台が指摘するとおりでしょう。
 マルクスはマテリアルな関係が社会を規定しそれが法を形成することを当初から見抜いていましたが、吉本はその関係を意識の問題=関係性として抽出しました。法権力の行使をともなわない法の錯綜した集積が古代の社会であることは、法権力(ルール・ワク組など)が絶対化しつつある現代社会の歪や異常性を可視化してくれる可能性があり、『アフリカ的段階について』はこの法が権力化する過程をフォローしています。それは共同体の構成を維持するためのトレードオフを象徴する生贄はどのように変遷していくのか?…というような認識へのトリガーともなるものです。
 2つ以上の共同性が錯綜する社会の状態で対立や緊張を回避しつつ百余りの国家を統一していったスキーム?がここにあります。アメリカの合衆国憲法がネイティブの各部族が共存するためにつくり上げた掟や約束をベースにしているように、重層的非決定ともいうべき様相の共同性は、現在にどう作用しているのか? たぶんこういった問いが吉本のハイイメージ論を可能にしたのでしょう。

2011年10月 4日 (火)

『共同幻想論』・規範論から考える

 「規範論」は宗教からはじまって法や国家に至るまで貫かれている<規範>の特定の位相についての考察です。約束から掟、法とさまざまなレベルの<決まり>がありますが、その決まりが生成する理由や意味への探究だともいえます。物象化の過程をフォローしたものともいえるかもしれません。

 別のいい方をすると、人間が自身をも含めて<自然>そのものを<疎外>していゆく過程への考察です。外化であり表出である<疎外>は、人間が産出するとともに人間を束縛し規定するもの。疎外論をベースとするマルクスの認識(方法)そのものがここにあるともいえます。共同性としては『ドイツ・イデオロギー』などで市民社会という動態から法という固定した社会の疎外態が生成する論理的な機序が描かれています。

 共同幻想は前段階の共同幻想を対幻想的なものへと抑圧することによって疎外することが指摘されます。社会の進歩(変遷)にともなう疎外態の変化を、あるいは疎外態の変化を社会の変化や進歩とみなすマルクスの鋭い洞察がありますが、ここではそれが古事記や日本書紀による日本の国家(像)の変化(共同幻想の変化)としてディテールへ踏み込んで論証されていきます。共同幻想が疎外されて家族(集団)的な幻想と化すというかたちで対幻想がフォーカスされる過程は吉本理論のオリジナルな成果でしょう。

 イザナギの物語の変遷が日本の共同幻想=国家(像)の変遷そのものを象徴していることの論証は、日本の国家論や訓詁学的なあらゆる検討のラジカルな解体を意味するものです。古事記や日本書紀の物語を編纂した古代の知識人のレベルや能力まで明らかにされ、知見の範囲までが特定されてしまう考察は吉本理論の破壊的な射程の深さを現しています。

 心的現象論において感覚から<形態>と<概念>が形成される過程は、この共同幻想論において<法>と<宗教>が形成される過程とパラレルでアナロジカルなイメージがあります。また、個体発生は系統発生を繰り返すという三木成夫の解剖学的な見地は三木を読む前から方法論的に吉本においても基礎的な認識として当然のものだったのかもしれません。

 ある行為が繰り返されるようになると、それを形態化(して把握する)する(ようになる)という合理的同調圧があります。常同反復行為はすぐに規範化します。社会においても市民社会で繰り返されたモノゴトに関してそれを形態化して把握するというのは法化のラジカルな哲学?でもあるでしょう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

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【規範論】

P231
経済社会的な構成が、
前農耕的な段階から農耕的な段階へ次第に移行していったとき、
<共同幻想>としての<法>的な規範は、
ただ前段階にある<共同幻想>を、
個々の家族的あるいは家族集団的な
<掟><伝習><習俗><家内信仰>的なものに蹴落とし、
封じこめることで、
はじめて農耕法的な<共同規範>を生みだした…

<共同幻想>の移行は一般的にたんに<移行>ではなくて、
同時に<飛躍>をともなう<共同幻想>それ自体の疎外を意味する…

 「前段階にある<共同幻想>」を「封じこめる」ことで発展する…歴史の進行?というものが簡明に描かれています。ある意味で世界の進展と歴史の真理が簡明に描かれていることそのものが驚異的だと思わせます。
 「個々の家族的あるいは家族集団的」というのはそのまま<対幻想(的)>ということであり、「前段階にある<共同幻想>」が対幻想化されていくという過程が説明されています。驚異的なのはそれこそが歴史だという事実でしょう。世界の変遷とは共同幻想の変遷ですが、それは、いかなる共同幻想がいかに対幻想化されたかという視点から捉えることができるというこの宣言の射程と破壊力は凄まじいものがあります。

P231
『古事記』の神話で<法>的な共同規範としてもうひとつ問題なのは、
清祓行為の意味である。

…清祓行為は<共同幻想>が、
宗教から<法>へと転化する過渡にあるものとみなされる…

 <清祓行為>とカップリングされているのは<醜悪な戯れ>。こういうアプローチそのものがユニークであり興味深いものですが、その方法そのものが唯一のものである可能性が吉本のスゴサそのものを現しているといえそうです。
 <醜悪な戯れ>と<清祓行為>をアナロジカルに心的現象論の<原生的疎外>とその打ち消しとしての<生そのもの>(エロス・タナトス)の関係として考えると思索の可能性が拡がります。
 必然で常同的な観念が行為化し何らかの象徴性をまとっていく過程の分析はマルクスによる市民社会の分析とパラレルです。

P234
あらゆる対他的な関係がはじまるとすぐに、
人間は<醜悪な戯れ>を<法>または<宗教>として疎外する。


 日常の常同反復される行為はその度に新たに意識される必要がないために疎外態と化します。意識されない行為、自然に常同反復される行為がもっとも遠隔化された共同幻想として法や宗教となるわけです。“終わりなき日常”はこうして絶えず新たな法や宗教を生みつつあるのでしょう。<醜悪な戯れ>の理由を考えることは、ほとんどすべてのことを対象に探究することであり、ハイイメージ論はその現在の展開になります。

P238
<福祉>には<物質的生活>が対応するが
<共同幻想>としての<法>に対応するのは、
いぜんとしてその下にいる人間の<幻想>のさまざまな形態である。

 ニーチェの指摘にマルクスで返答しながら吉本自らの問題意識が提示されています。「その下にいる人間」と大衆を示唆し、「<幻想>のさまざまな形態」に戯れていこうとする密かな決意を読み取りたくさせる吉本ならではのテキストでしょう。“世界を凍らせる”という言葉の根源となる認識の一つのがここにあります。

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