『共同幻想論』・罪責論から2
「罪責論」は<神話>に表出する「罪」(倫理の問題)についての考察で、神話の表出の仕方(共同幻想の語られれ方)から原理的な考察がされています。共同幻想論としては共同体とその構成員の関係としての「罪」になります。
一方個人の心的現象としての「罪」(の意識)としては『心的現象論序説』での原理的な考察があります。そこではフロイトを援用しながらエスと自我の二重性である原形意識を想定され、エスから離脱しようとする自我の問題として<罪>と<道徳>が説明されています。<エス→自我>というベクトルは自我を主体にすれば罪に、エスを主体にすれば道徳になる志向性として把握されています。
また罪の意識が受動的(受苦的)であることには人間の原理として決定的であることが表出しています。精神病理から社会一般の関係まで、この意識が基礎になっていることが最重要なポイントでしょう。被害妄想から作為の契機まで人間の意識(関係意識)が受動性ベースなのはナゼか?という問題は、心的現象の原理であるとともに、そこから遠隔化するあらゆる関係性(極点としの共同幻想)の基礎にもなっています。宗教が主張する原罪的なものから近代国家が法化した国家反逆罪まで、個が負わされる(という認識をもつ)という共通点があります。それはナゼか?
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【罪責論】
P214
あらゆる政治的な統一権力が存在する社会を、
いちばんプリミティヴな形態までさかのぼれば、
そこでの<倫理>は一対の男女の<性>的な関係の
あいだに発生の起源をもとめるほかはない。
『経済学・哲学草稿』で提起された人間は個人でしかないのになぜ人類が成り立つのか?などの問題のもっともダイレクトな解答にもなる認識で、「人間の人間にたいする直接的で自然的で必然的な関係とは、男の女にたいする関係である」というマルクスの言葉を踏まえたものでしょう。また「どんな人間同士でも、2人が出会えばそこには必ずといっていいほど権力関係の萌芽を見出せる」と権力の予期理論の基礎を説明した宮台真司さんと吉本とのラジカルな共通認識が見いだせるかもしれません。
P214~215
<父>はじぶんが自然的に衰えることでしか
<子>の<家族>内での独立性をみとめられない。
また<子>は<父>が衰えることでしか
<性>的にじぶんを成熟させることができない。
こういった<父>と<子>の関係は、
絶対に相容れない<対幻想>をむすぶほかありえないのである。
ルソーからフロイトまで欧米思想に散見するエディプス・コンプレックスの解と(も)なる認識でしょう。
「絶対に相容れない<対幻想>」の設定が吉本理論らしい原理と圧倒的な何かを示しています。{相容れない<度合い>}(あるいは{相互に肯定される(ハズの)<度合い>})をバリアブルなものとして設定すれば遠隔化の度合いを示すものとなり、その究極に共同幻想の極点が想定できます。
この父子相伝の西欧的に表象しがちな関係ですが、神話からアニメまで多くの物語がベタにこの構造をそのまま展開させています。またリアルな権力(者)のヒエラルカルな構造(関係)も同様なものとして考えることが可能かもしれません。
P216
…もともと<家族>内の<対幻想>の問題であるはずのものが、
部族国家の<共同幻想>内のあつれきにのりうつったとき
<倫理>の本質があらわれる。
マイケル・サンデル的にいえば「家族への忠誠」か「普遍的な正義」か?という問題です。殺人を犯した弟を、姉はどうするか?という設定でサンデル教授は問いましたが、そこには「議論を続けよう」という暫定的な解しかありませんでした。安寿と厨子王のように姉が弟を守れる(という)のは夢想的な空間か封建制以前の社会であり、近代国家では法(普遍的な正義?)がすべてをジャッジします。
<対幻想>の問題が<共同幻想>内の出来事として表出するときに<倫理>が問われますが、多くの物語の悲劇というものがこれに属するものでしょう。個人の心的現象として作為に対して受動態としてしか表象しないという事実から、物語の究極が悲劇であるのは論理的な帰結でしかありません。マルクスがそれを笑うことを奨めたのは諦念以外の何ものでもないのかもしれません。
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