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2011年8月29日 (月)

『共同幻想論』・罪責論から考える

 

 「罪責論」<神話>に表出する「罪」(倫理の問題)についての考察です。とても原理的で神話や物語、歴史の解釈の基本としての認識でもあり、現象学や実存哲学がもっともベースに据えている「罪」(倫理の問題)をキーに読解し、共同幻想の展開との関連が示されます。

 大前提となっているのは共同幻想の構成(ゲシュタルト)。あらゆる神話から普遍的な共通性をとりだせるとしたら、それが共同幻想の構成だ、という結論を前提にしています。 逆に、共同幻想の構成以外はすべて恣意的でありうるという指摘が、この共同幻想論の根幹を支える認識であることを(も)示しています。

 『古事記』のスサノオとアマテラスのエピソードをもっともプリミティヴだとする視点から日本の社会の発展段階がサンプルとして示されていきます。どのような歴史分析とも哲学とも史学とも違う、圧倒的で原理的な認識手法がここにあります。また対幻想の変遷や自己幻想の表出という問題へと経路をもったテーマは、吉本理論の驚異的なトーナリティを示しています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【罪責論】

P200
…<神話>はその種族の<共同幻想>の構成を語る…

そして<共同幻想>の構成を語っている点をのぞけば、
どんなことも<神話>では恣意的だといえる。

 乱暴にいえば、共同幻想の語り方そのもの以外は恣意的だ…という可能性を示しています。これは『心的現象論序説』における<夢>への考察(『心的現象論序説』のⅥ章「心的現象としての夢」)を想起させるものです。

 

 「夢では〝対象が<身体>の外部に実在しない〟」ために「夢はいきなり〝了解する〟ところ(対象外・意識外のもの)からはじまる」と説明したように、神話では(現時点でそれを読解する者にとっては)あらゆる対象が実在ではないために、神話の語られ方そのものだけがマテリアルである、ということになります。
 サルトルなどが「方法の問題」とした問題意識がクローズアップしたものも同じような面にフォーカスしています。歴史だけではなくさまざまな事象が世界レベルで表出する現在、あるいは個人にとってもあらゆる関係性が世界レベルに拡張しつつある現在、直接に個人が認知できるものは対象への認識方法そのもの(だけ)だからです。対象を知覚をとおして直接認識する機会や、対象の属性を構成する要因を直接に知る可能性は無くなってきています。そこではまず認識の方法そのものが問われるわけです。同じように神話では、神話の語られ方そのものが問われるということです。西欧外の認識方法や分類方法に興味をもったフーコーは同じことに気がつきつつあったのでしょう。

P200~201
<神話>を解釈するばあい、いちばんおちいりやすい誤解は、
それがある<事実>や<事件>の象徴だとかんがえることだ。
そして空間的な場所や時間的な年代を現実にさがして
<神話>との対応をみつけだそうとする。
しかし、
<神話>に登場する空間や時間は、
ただ<共同幻想>の構成に関するかぎりでしか、
現実の象徴にならないといえよう。

 壮大な神話からネタとしての都市伝説まで、その根拠の正当性?が木っ端微塵になるのはいうまでもなく、観念から表出するあらゆる論理の展開の仕方そのものが問われてもいるのでしょう。この「象徴だとかんがえる」ことや「対応をみつけだそうとする」ことをラジカルに批判する観点はあらゆる方面で行使されている吉本隆明の思索と批評の基本となるスタンスを示しています。すべての解釈が恣意的だとすれば認識を再構築するために必要なのは作為への自覚マテリアルな認識であるはずです。

P212
サホ姫は<兄>に殉じながら、じぶんの生んだ子供を<夫>にゆだねる。
母系的、氏族的、農耕的な<共同幻想>はここで、
部族的な統一社会の<共同幻想>に飛躍する。
その断層のあいだの軋みが<倫理>の問題としてあらわれる。

 

 家族から国家までの発展段階の途中でもっとも重要で直接的な血縁(家族)からの離脱のシーンが、母系社会から部族的な統一社会への飛躍として抽出されます。空間的にはたとえば奈良盆地内の豪族が盆地外の豪族との婚姻を始めたような事態(『ハイ・イメージ論』など参照)を指しています。

 たとえば姉が犠牲になり弟を助ける“安寿と厨子王”の物語。死んだ安寿は守護霊として厨子王を守っていきます。厨子王は盲目の母と再会をはたし、母は再び目を開きます…。この物語もサホ姫の物語と同じで女性が犠牲になりつつ現世で男性が力を行使していきます。そして一度は犠牲になった女性=母が快復するという展開が示しているものは何でしょうか? 前段の実効力であった母や姉は他界化するとともに象徴や規範として現実に関与していくと考えることができそうです。(他界化したものはやがて神化(宗教化)する可能性もあります。社会でいえば市民社会という実効力が国家(法治社会)という象徴と規範にカバーされていく事態。ただし市民社会からのフィードバック(無制限の言論の自由と民主主義)なしには国家がまたたく間に絶対化し官僚が支配階層化する過程はマルクスで探究されています。)

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