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2011年6月24日 (金)

遠野物語に自己実現のヒントを見た三島由紀夫?

 現実とは関係なくても共同性は成り立つ現実は無関係でも小説は可能だ…そこでの現実(との関係)は書く人そのもの=作家=三島自身(だけ)である…ある意味で現実感が希薄だったと思われる三島由紀夫遠野物語の幽霊譚・怪異譚=他界譚を激賞する理由は簡単かもしれません…。吉本隆明が常民の生きていく強度を見出し神話や国家のカラクリを知りえたもの、その究極である他界の在り方…に、三島は自己実現の可能性を見出そうとしたのではないでしょうか。そこには鉄(武器)と言葉(法)で自らを護ろうとする国家さえ雲散霧消させる力動が蠢いています。マルクスが怪物と呼んだものもそこから生まれたものであり、歴史のほとんどは常民=パンピーの強度が支えているものに過ぎないからです。その非決定の領域が神話化されるだけのことでしょう。

 ある日、自決直前にバルコニーから演説する三島由紀夫への自衛隊員からの罵倒がTVで公開されました。Vを観ていると自分が決起を期待したパンピーからの罵倒を聞いても三島の顔には失意の色は浮かんで来ません。冷静であるというより最初から分かりきっていた三島がそこにいる気がします。彼は自分の自己実現のために<決起の呼びかけ>を利用したのであって、決起を呼びかけることが自己実現だったのではないのでしょう。

 本当に死を演じるには本当に死ななければならないと考えていた三島由紀夫。
 美輪明宏氏に華奢だと揶揄された三島は、その半年後に鍛錬した肉体を身につけ、やがてそのマッチョさをバルコニーの上からパンピーに向かって誇示することになります。
 生=命をかける相手として男性ではなく自衛隊やパンピーを選んだ三島は巫女だった…といえるのが共同幻想論による立場?になるのかもしれません。勁草書房の吉本隆明全集の帯には「性的興奮を覚える」と三島にとって最高の賛辞が寄せられています。男性とはマザーシップだよという太宰の言葉とともに文芸における両極が明らかになるヒントがあるのかもしれない一言でしょう。

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 クーデター未遂の事件の時に三島の馘首のデスマスクを採るために現場を訪れたという人に会ったことがあります。アート関係のページ制作のためにあるアーティストを取材したら「昔ね、三島のデスマスクを採りに行ったんだ…」とその人が話してくれたのです。『限りなく透明に近いブルー』の舞台となったローカルでアーティストをしていた人で、その静かな視線にミメーシスしてしまった人もいます。デスマスクやドクロが趣味?のアーティストはオープンカーで横田基地周辺を駆け、米軍ハウスで制作にいそしんでいたそうです。 

 三島の割腹が単独者独特のものであるのは自衛隊の現場でも、あるいは篠山紀信による写真撮影用に演じたものでも、同じです。遠野物語・幽霊譚の炭入れの竹かごになるべく演説し割腹してみせた三島は巫女(行為からするとシャーマン的だが)として何を体現していたのか? 共同幻想論を駆使してそれを語れるものかどうか…試みる気概もなく、ただ身近に感じる三島の存在があります。片手では数えられない少なくない自死した友人たちは、誰も、どこか少し三島的でした。知り合いだった民族派右翼の幹部が、社会主義国の大使館に突入を繰り返した青春を語る時の落ち着いた語り口が思い出されるような、日頃の感覚のなかに友人や三島はいます。吉本が三島については語らないスタンスをフォローしながら、言葉以外の感覚を忘れえない暑い夏が、今年もきました。

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2011年6月 8日 (水)

『共同幻想論』・母制論から考える

 「母制論」は人類が必然的に通過してきた<母系>社会の本質を追究しています。対幻想(の関係意識)が空間的に拡大(遠隔化)し共同幻想と同致するところに<母系>制社会が生じることが説明されます。

 経済学から文化人類学までをフォローする原点として社会科学の必読書だったモルガン『家族、私有財産及び国家の起源』を鋭く読解。根本的な批判を加えながら展開する理論は批評の極限ともいう趣があります。モルガン-エンゲルス(つまり欧米的な認識)の対局にあるかのような『古事記』のスサノオとアマテラスの挿話などを含め、典型例の両極を裁定しオリジナルな理論を導いていく弁証法的展開がここにあります。

 対幻想(親和的関係)と共同幻想(公的関係)が同致した以降の展開は『ドイツ・イデオロギー』などマルクスによるシステマティックな探究がありますが、『経済学・哲学草稿』で提起された問題がこの『共同幻想論』では解答されており、「母制論」はその詳細で具体的な解析だといえるかもしれません。

 いちばんラジカルなヒントである兄弟と姉妹の関係の確認ではヘーゲルが参照されています。ヘーゲルの動物概念を援用しようとする東浩紀さんの主張など最先端?の理論も、その原点からヘーゲルやマルクスそして『共同幻想論』などを照応させながらの読解があれば何か成果を得られる可能性があるかもしれません。

 追放されたスサノオが新たな共同体の象徴となる過程は、普遍的な正義からジャッジされた者がどうなるか?と類推したときの予期をも可能にします。つまり共同幻想論や母系論を入り口とする吉本理論にはサンデルコミュニタリアンの限界をブレークスルーするものがあるともいえるワケです。

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『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

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【母制論】

P173
スサノオは追放されて土着種族系の共同体の象徴的な始祖に転化する。
けれどもかれは妣の国への崇拝を失うことは共同規範として許されないのだ。

 追放されるスサノオ…このエピソードはNHKの番組「マイケル・サンデル 白熱教室を語る」でサンデルが唯一苛立った問題を想起させます。殺人を犯した弟をめぐる「家族への忠誠」か「普遍的な正義」か?という問題です。サンデルは「普遍的な正義」からのジャッジを考えました。ここではそれは親和的関係からの追放であり、それは必然的に次のまたは別の公的関係(共同幻想)の生成なり想起なりを予期させるものになります。

 弟が殺人を犯して追放される(家族から縁を切られる。公的には逮捕される)としても、弟はかつての家族との関係を否認することは出来ません。かつての家族を否定する根拠はカンタンには生成しません。つまりかつて属した共同体への「崇拝を失うことは共同規範として許されない」のです。許されない根拠を「共同規範」に求めているところに大きなラジカルなヒントがあり、そこではシステムの全域にわたる根拠が根本から問われます。法的には憲法の(生成の)問題でもあり、政治行為としては革命(的な)の問題です。『ドイツ・イデオロギー』などが明らかにした社会の基本的な構造の問題がここにあります。


 「共同規範として許されない」理由は何でしょうか?
 許されない根拠を共同規範そのものに求めているのはナゼでしょうか?

 このタイプのラジカルな問題は、ラジカルゆえに予想外のシンプルな解をもっています。
 問いの中に解があるという、問いそのものに何も付加しない、わざわざ外部へ出ることもない…問いの現実そのものに解が見出せる問題、弁証法的な問題です。相手の言葉の中に相手を内破させる言葉そのもの=自己矛盾を見出し続けたソクラテスのダイアローグ=弁証法と同じアプローチがポイントです。

 「共同規範として許されない」ことから弁証法的に類推できる可能性は2つ。
 1つめは「共同規範として許されない」ならば{<共同規範>でなければ<許される>}のではないか?ということ。
 2つめは「共同規範として許されない」ということは{<許されない>ことを<共同規範>とした}のではないか?ということです。

 1つめは意味の空間的な反転(反義語)として、2つめは意味の時間的な反転(逆順)として考えられます。

 論理(学)的には、単なる形式論理においても(だからこそ)最大の問題である自己言及の不可能な領域の問題です。言及できないために定義不可能な領域は仮構され仮定され(続け)ます。あるいは何かが代入され続けます。これが共同幻想の代同物でありそのものです。


P171
わが列島における原始的な<母系>制では
<姉妹>が神権を掌握したときは
<兄弟>が政権を掌握するという古形態であった。

<兄弟>と<姉妹>のあいだの<対なる幻想>は、
自然的な<性>行為に基づかないからゆるくはあるが、
逆にいえばかえって永続する<対幻想>だともいえる。
そしてこの永続するという意味を空間的に疎外すれば
<共同幻想>との同致を想定できる。

 古代の天皇をはじめクレオパトラなどに代表される古代の王政に見られる兄妹(姉弟)が結婚する例。これは一族で神権と王権を把握するという形態ですが、なによりも対幻想と共同幻想が同致し並列する例ではないでしょうか。

P162
ヘーゲルが鋭く洞察しているように家族の<対なる幻想>のうち
<空間>的な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである。
兄と妹、姉と弟の関係だけは<空間>的にどれほど隔たっても
ほとんど無傷で<対なる幻想>としての本質を保つことができる。
それは<兄弟>と<姉妹>が自然的な<性>行為をともなわずに、
男性または女性としての人間の関係でありうるからである。
いいかえれば<性>としての人間の関係が、
そのまま人間としての人間の関係でありうるからである。
それだから
<母系>制社会のほんとうの基礎は集団婚にあったのではなく、
兄弟と姉妹の<対なる幻想>が部落の<共同幻想>と同致するまでに
<空間>的に拡大したことのなかにあった
とかんがえることができる。


 彼女をめぐって決闘したこともあるマルクスはよりリアルに、そして現実経験がある分だけシンプルに真理を指し示しています。

(『経済学・哲学草稿』から)
人間の人間にたいする直接的で自然的で必然的な関係とは、男の女にたいする関係である。この自然的な類関係においては、人間の自然にたいする関係がそのまま人間の人間にたいする関係でもあれば、人間の人間にたいする関係がそのまま人間の自然にたいする関係、つまり、人間の自然的な規定でもある。したがって、この関係においては、人間にとって人間的本質がどの程度まで自然になっているか、あるいは、自然がどの程度まで人間の人間的本質になっているかが、感性的なかたちで、つまり、ひとつの直観可能な事実にまで還元されたかたちであらわれてくる。そうだとすれば、この関係にもとづいて、人間の文化段階全体を判断することができる。

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 対幻想をある意味でその典型であり極限である<恋愛>に象徴させると、とてもわかりやすく、そしてさらにより深く考えうることができる可能性もあります。*人間のすべてが語られる『超恋愛論』

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