「母制論」は人類が必然的に通過してきた<母系>社会の本質を追究しています。対幻想(の関係意識)が空間的に拡大(遠隔化)し共同幻想と同致するところに<母系>制社会が生じることが説明されます。
経済学から文化人類学までをフォローする原点として社会科学の必読書だったモルガンの『家族、私有財産及び国家の起源』を鋭く読解。根本的な批判を加えながら展開する理論は批評の極限ともいう趣があります。モルガン-エンゲルス(つまり欧米的な認識)の対局にあるかのような『古事記』のスサノオとアマテラスの挿話などを含め、典型例の両極を裁定しオリジナルな理論を導いていく弁証法的展開がここにあります。
対幻想(親和的関係)と共同幻想(公的関係)が同致した以降の展開は『ドイツ・イデオロギー』などマルクスによるシステマティックな探究がありますが、『経済学・哲学草稿』で提起された問題がこの『共同幻想論』では解答されており、「母制論」はその詳細で具体的な解析だといえるかもしれません。
いちばんラジカルなヒントである兄弟と姉妹の関係の確認ではヘーゲルが参照されています。ヘーゲルの動物概念を援用しようとする東浩紀さんの主張など最先端?の理論も、その原点からヘーゲルやマルクスそして『共同幻想論』などを照応させながらの読解があれば何か成果を得られる可能性があるかもしれません。
追放されたスサノオが新たな共同体の象徴となる過程は、普遍的な正義からジャッジされた者がどうなるか?と類推したときの予期をも可能にします。つまり共同幻想論や母系論を入り口とする吉本理論にはサンデルやコミュニタリアンの限界をブレークスルーするものがあるともいえるワケです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)
1 禁制論
2 憑人論
3 巫覡論
4 巫女論
5 他界論
6 祭儀論
7 母制論
8 対幻想論
9 罪責論
10 規範論
11 起源論
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【母制論】
P173
スサノオは追放されて土着種族系の共同体の象徴的な始祖に転化する。
けれどもかれは妣の国への崇拝を失うことは共同規範として許されないのだ。
追放されるスサノオ…このエピソードはNHKの番組「マイケル・サンデル 白熱教室を語る」でサンデルが唯一苛立った問題を想起させます。殺人を犯した弟をめぐる「家族への忠誠」か「普遍的な正義」か?という問題です。サンデルは「普遍的な正義」からのジャッジを考えました。ここではそれは親和的関係からの追放であり、それは必然的に次のまたは別の公的関係(共同幻想)の生成なり想起なりを予期させるものになります。
弟が殺人を犯して追放される(家族から縁を切られる。公的には逮捕される)としても、弟はかつての家族との関係を否認することは出来ません。かつての家族を否定する根拠はカンタンには生成しません。つまりかつて属した共同体への「崇拝を失うことは共同規範として許されない」のです。許されない根拠を「共同規範」に求めているところに大きなラジカルなヒントがあり、そこではシステムの全域にわたる根拠が根本から問われます。法的には憲法の(生成の)問題でもあり、政治行為としては革命(的な)の問題です。『ドイツ・イデオロギー』などが明らかにした社会の基本的な構造の問題がここにあります。
「共同規範として許されない」理由は何でしょうか?
許されない根拠を共同規範そのものに求めているのはナゼでしょうか?
このタイプのラジカルな問題は、ラジカルゆえに予想外のシンプルな解をもっています。
問いの中に解があるという、問いそのものに何も付加しない、わざわざ外部へ出ることもない…問いの現実そのものに解が見出せる問題、弁証法的な問題です。相手の言葉の中に相手を内破させる言葉そのもの=自己矛盾を見出し続けたソクラテスのダイアローグ=弁証法と同じアプローチがポイントです。
「共同規範として許されない」ことから弁証法的に類推できる可能性は2つ。
1つめは「共同規範として許されない」ならば{<共同規範>でなければ<許される>}のではないか?ということ。
2つめは「共同規範として許されない」ということは{<許されない>ことを<共同規範>とした}のではないか?ということです。
1つめは意味の空間的な反転(反義語)として、2つめは意味の時間的な反転(逆順)として考えられます。
論理(学)的には、単なる形式論理においても(だからこそ)最大の問題である自己言及の不可能な領域の問題です。言及できないために定義不可能な領域は仮構され仮定され(続け)ます。あるいは何かが代入され続けます。これが共同幻想の代同物でありそのものです。
P171
わが列島における原始的な<母系>制では
<姉妹>が神権を掌握したときは
<兄弟>が政権を掌握するという古形態であった。
<兄弟>と<姉妹>のあいだの<対なる幻想>は、
自然的な<性>行為に基づかないからゆるくはあるが、
逆にいえばかえって永続する<対幻想>だともいえる。
そしてこの永続するという意味を空間的に疎外すれば
<共同幻想>との同致を想定できる。
古代の天皇をはじめクレオパトラなどに代表される古代の王政に見られる兄妹(姉弟)が結婚する例。これは一族で神権と王権を把握するという形態ですが、なによりも対幻想と共同幻想が同致し並列する例ではないでしょうか。
P162
ヘーゲルが鋭く洞察しているように家族の<対なる幻想>のうち
<空間>的な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである。
兄と妹、姉と弟の関係だけは<空間>的にどれほど隔たっても
ほとんど無傷で<対なる幻想>としての本質を保つことができる。
それは<兄弟>と<姉妹>が自然的な<性>行為をともなわずに、
男性または女性としての人間の関係でありうるからである。
いいかえれば<性>としての人間の関係が、
そのまま人間としての人間の関係でありうるからである。
それだから
<母系>制社会のほんとうの基礎は集団婚にあったのではなく、
兄弟と姉妹の<対なる幻想>が部落の<共同幻想>と同致するまでに
<空間>的に拡大したことのなかにあったとかんがえることができる。
彼女をめぐって決闘したこともあるマルクスはよりリアルに、そして現実経験がある分だけシンプルに真理を指し示しています。
(『経済学・哲学草稿』から)
人間の人間にたいする直接的で自然的で必然的な関係とは、男の女にたいする関係である。この自然的な類関係においては、人間の自然にたいする関係がそのまま人間の人間にたいする関係でもあれば、人間の人間にたいする関係がそのまま人間の自然にたいする関係、つまり、人間の自然的な規定でもある。したがって、この関係においては、人間にとって人間的本質がどの程度まで自然になっているか、あるいは、自然がどの程度まで人間の人間的本質になっているかが、感性的なかたちで、つまり、ひとつの直観可能な事実にまで還元されたかたちであらわれてくる。そうだとすれば、この関係にもとづいて、人間の文化段階全体を判断することができる。
- - -
対幻想をある意味でその典型であり極限である<恋愛>に象徴させると、とてもわかりやすく、そしてさらにより深く考えうることができる可能性もあります。*人間のすべてが語られる『超恋愛論』
最近のコメント