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2011年3月25日 (金)

『共同幻想論』・祭儀論から考える

 「祭儀論」は共同幻想(公的関係)と対幻想(親和的関係)のラジカルな関係と、共同幻想があらゆる観念(性)を表象し、あらゆる観念から表象するものであることの論考です。また下部構造(経済構造)の自然史的な過程に対してどのように上部構造(共同幻想)が形成され変化するかが考察されています。

 自己幻想(自己関係)内で個体の心的現象として幻想の3つの位相を追究するのが心的現象論『序説』『本論』ですが、『共同幻想論』では共同幻想(公的関係)を基点として3つの幻想が説明され、ここ(「祭儀論」)でも他ではない原理的な定義があり、心的現象論そのものを補足するものにもなっています。

 現実の諸関係を代理し、象徴化し、執り行なわれるのが祭儀。祭儀の形態と形式はそのTPOにおける共同幻想を表象するものとなります。またそこにある作為には公的関係における意図、権力の意志が表象します。

 ここでフォーカスされている『古事記』の<死後>譚と<生誕>譚などへの考察から農耕社会での共同幻想の在り方と、農耕祭儀として天皇の世襲大嘗祭の分析と大陸の遊牧騎馬民族の儀礼との類似性への『日本書紀』などにおける作為が指摘されます。
 祭儀が抽象化された時空間性を経て規範力と化していくのは国家と法の端緒であり、そのトリガーやブースターとしての共同体の利害(経済関係)はマルクスが、規範(力)の相互の関係はヘーゲルが、それぞれ追究しているもので『ヘーゲル法哲学批判』や『ドイツ・イデオロギー』に類するものがここにあります。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【祭儀論】

P136
原理的にだけいえば、ある個体の自己幻想は、
その個体が生活している社会の共同幻想にたいして
<逆立>するはずである。

しかしこの<逆立>の形式は、
けっしてあらわな眼にみえる形であらわれるとかぎっていない。
むしろある個体にとって共同幻想は、
自己幻想に<同調>するものにみえる。
またべつの個体にとって共同幻想は
<欠如>として了解されたりする。
またべつの個体のとっては、共同幻想は
<虚偽>としても感じられる。

 共同幻想が自己幻想に対して<同調>するか<欠如>になるか<虚偽>として感じられるか…という定義?はそのまま象徴界の支配を受けた結果としての精神分析的な区分けのパターンと類似していて、『ハイ・エディプス論』などでラカンを評価している理由の一つに通じるものでもあるかもしれません。
 自己幻想における<同調><欠如><虚偽>…といった共同幻想の発現(の仕方)は自己幻想そのものを規定し人格や行為を決定していく要因となるもの。このレベルや質が公的なレベルや質と同致するか、どれだけ差異があるかということだけが病気や健常であることの第一義的な根拠だと考えられます。

 有名?な“対幻想と共同幻想は逆立する”といわれる定義は、より深いレベルで考察されています。それは<生誕>と<死>をめぐるものであり、未開の時代ではこの両者がほぼ等価であったことが説明されます。この詳細は20年後に出版される『アフリカ的段階について』でもメインとなっており、現在進行形でも有効な認識です。未開時代に殺生与奪権を独占し自由に行使できる王がいて、豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知している民衆がいるのですが、不作や疫病で民衆が苦しめば王は民衆に殺されてしまいます(民衆は王を殺します)。そこでは歴史上最初の政治性あるいは権力のあり方として<アフリカ的段階>が考察されています。私見ですが、ここに<抽象化>された空間性と時間性としての<生贄>を入れて考えると以下(『アフリカ的段階について』ヘーゲルを解剖学した世界観? ヘーゲルを解剖学でフォローしたフーコー的世界観?)のような考察が可能です。

   生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の
   世界がそこにはある。民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価
   なのだ。現代も残る生贄はその形式的な継承だといえるだろう。生贄が
   小さくなった分だけ世界は進歩したワケだ。(『アフリカ的段階について』ヘーゲルを解剖学した世界観?

 

P151
…共同社会にける共同利害に関与する祭儀は、
それが共同利害に関与するかぎり、
かならず規範力に転化する契機をもっている…

…この契機がじっさいに規範力にうつってゆくためには、
祭儀の空間と時間は<抽象化>された空間性と時間性に転化しなければならない。

 たとえば、いまや「目出度い席には“鯛のお頭つき”をだす」という儀礼?としての意味だけのような(かつては生贄だった)“鯛のお頭つき”ですが、“肉を食べて精進落しをして現実に戻る”という意味の片鱗は象徴として残っています。祭儀から離れて現実に戻るというのは、同じ意味をもつ塩をまいたり塩を積むしきたりが多く残っていることでもわかるように規範(力)があり、決まりとなり現実化しているものです。つまり人(の行為)を規定(規制)する力をもっています。

 

P139
…<死>では、ただ喪失の過程であらわれるにすぎなかった対幻想の問題が、
<生誕>では、本質的な意味で登場してくる。
ここでは<共同幻想>が、社会の共同幻想と<家族>の対幻想という
ふたつの意味でとわれなければならない。

 ここに対幻想と共同幻想が逆立する契機があります。
 <生誕>をめぐる村落の共同幻想(公的関係)と対幻想(親和的関係)は相互に移行可能であることが指摘されています。家族は親族や部族に遠隔化しやがて民族や国家まで至る可能性もあるとともに、一対の男女はそのすべての起源たりうるからです。
 他方<死>をめぐる共同幻想(公的関係)は「社会の共同幻想」であり、死は他者(社会)にしか認知されない(当然本人には認知できない)ということ。このことは<死>をめぐる共同幻想が<他界>の観念との経路であることも示しています。また「社会の共同幻想」には<死>の当事者としての生者がいません。<死>(の当事者としての生者)そのものは存在せず(存在の)論としてしか発現しません。ここにはその事実性ではなくデコレートされた(文芸としての)現象学や個人が(死を媒介にして)民族や国家に属するという転倒?した認識が生じる契機があります。歴史的事実としては、いまだに人類は続いており、国家(や共同体)は滅びるということが繰り返されている…というのが現実です。
 単純化すると、社会(家族を内包する。対幻想を内包する共同幻想)は存続するが国家(他界的な共同幻想)は滅びる…ともいえます。たとえば宮台真司さんの社会や国家に対する認識はここ(両者の差異)に可能性を見出しているものかもしれません。公的な作為(政策)は両者の均衡を求めつつ経済状態(財源など)に規定されるものであり、このパレート改善を追究するのが政治(哲学)だろうと考えられます。マイケル・サンデルなどもこのラインで把握されるべきでしょうが、コミュニケーションし続けることを均衡の代理価値ともするような彼のスタイルは、パレート改善の不達成を予めヘッジするもので(も)あり、認識から行為への移行を最後のパラドキシカル・ジャンプと考えること(マルクスやジャック・アタリ)との距離はヘーゲル左派とマルクスのような違いかもしれません。

 

P142
男のほうが<死>の場面でも<生誕>の場面でも、
場面の総体からまったくはじきだされる度合いは、
女が<性>を基盤にした本来的な対幻想の対象から、
共同幻想の表象へと変容する度合いに対応している。

 『古事記』の伊邪那岐と伊邪那美の物語などから、「巫女論」などで定義されたように女性の対象としての<男性>は<共同幻想>とシーソーのように均衡する遠隔対称性にあることが説明されています。

 経済と政治の2点から絶えず<性>(対幻想)はクローズアップされますが、それは顕在的ではありません。たとえば、生産様式(経済)としては農耕社会の初期に女性の死が(逆立して遠隔化され)豊穣の象徴とされ、王権(政治)としては規範力とその掌握{世襲化=(近隔化=対幻想化)}がなされます。

P150
…大嘗祭の祭儀は空間的にも時間的にも<抽象化>されている…
…<神>とじぶんを異性<神>に擬定した天皇との<性>行為によって、
対幻想を<最高>の共同幻想と同致させ、天皇がじぶん自身の人身に、
世襲的な規範力を導入しようとする模範行為を意味するとかんがえられる。

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