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2011年2月 8日 (火)

『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』…その可能性

『「正義」について論じます THINKING O 第8号』…<近接性>とは?

 『「正義」について論じます THINKING O 第8号』の大澤真幸さんと宮台真司さんの対談は、社会学という水準で展開されるだけではもったいない?内容にあふれていて、サンデルのような政治哲学から変性意識までノンジャンルでつらぬく強度は他(?)を圧倒するものがありそうです。対幻想(と共同幻想との関連)や女性の定義だけで何冊も本を書ける斎藤環さんも才気にあふれてますが、宮台さんの言説もどの方面にも展開できる開かれた可能性は繰り返し読んでも楽しいもので、想像力を刺激してくれますね。

●ミメーシスを起こすものは?

P54
あり得ないほど共同体的な存在がミメーシス(感染的模倣)を起こすのと同様、
あり得ないほど脱共同体的な存在もミメーシスを起こすのです。

 共同体(スパルタとペロポンネソス同盟)のために死ぬレオニダスも、親和的関係(頼朝)から否定され共同体(国)から追放される(殺される)義経も、脱藩する坂本龍馬も魅力的です。
 共同体への強い志向も、逆に共同体を脱するスタンスも、それぞれ人びとを魅了する何かがあります。

 この点で宮台さんの上記の指摘はズバリと当たっています。共同体に対する是非はともかく共同体との関係性で「あり得ないほど」の強度があれば、いずれもそれは人を魅了するということでしょう。
 問題は共同体への是非、好き嫌いのような価値判断ではなく、共同体との<関係性>そのものが重要なのだ、ということです。

 まず共同体への是非つまり肯定と否定の価値判断が等価であることはわかります。どちらでもミメーシスを起こすならそれは等価なのだということです。そしてミメーシスを起こすのは「あり得ないほど」の共同体への(強い)関係性そののであるとすれば、それは何を示しているのでしょうか?

●共同体への<関係性>とは?

 共同体への<関係性>とは、<関係意識>そのものに他なりません。そもそも共同体そのものが関係意識なしには成り立たないものです。

 恋愛を典型とする親和的関係(対幻想)であれば、対象(恋人愛人)は意識だけではなく身体的な関係(性)の対象であり、意識(関係意識)しなくても成立しています。親和的関係のうち親族や部族も意識がなくても血縁や遺伝という共通項ゆえに成立します。民族であれば意識がなくても言語や文化という共通項があります。
 逆に価値観以外に共通項がない関係もあります。同じ神を信じることを前提とする宗教や価値観を共有するイデオロギーなどです。また音楽のように観念的な価値観ではなく身体性による共感や共有を前提としたものもあります。

 宮台さんが丸山真男を援用して強調する<作為の契機>の究極はこの関係意識のことです。この作為の契機が亢進した常態では原理的なあるいは病的な関係意識がクローズアップされ(てき)ます。(対象認識時の関係意識の亢進の一例として“クオリア”がある)

 <関係意識>の2つのファクターは<作為体験>と<不可避体験>。この2つが心的現象の基本構造を形成する関係意識そのものを形成しています。

●ミメーシスの対象が存在しない現在

 ミメーシス可能な対象が激減したのも現代の特徴かもしれません。国内最大級のある精神病院では田中角栄首相を最後にミメーシスの対象となる人がいないという調査がありました。かつては「朕は明治天皇である!」とミメーシス?する患者が少なくなかったようですが、「私は田中角栄だ!」を最後に感染模倣する患者はいないという報告があるワケです。

 一般的な若者論に関する言説でも「ロールモデルが無い」という指摘は説得力があります。サブカル的にもヒーローがいないというのも当たり前の認識になっています。AKB48でセンター経験がいちばん長い前田敦子でさえ、センターで歌うよりまわりで踊っていたいとコメントするほど。AKBに憧れてもセンターというポジションには興味がないファンも多いのでしょう。誰しも誰にも転移しないし、転移させるほどの対象がない…というのが現在のリアル。
 この転移(対象)の無さ、転移のし難さ…という状況や人間を分析するには個人=個別的現存への突っ込んだ探究が必要です。それが心の解明であるはずです。また大きな転移=ミメーシスはないかわりに趣味的なアディクティッド(嗜好)が無数にあるのが現代の特徴でしょう。その典型がサブカルやオタクの世界であり、パンピーのレベルでもすでに常識となったペットやガーデニング、世界的?なレベルでも(マテリアルな根拠が希薄な)エコ関連などいくらでもあります。

 ミメーシスの対象が存在しない、ロールモデルがない…しかし、この状況こそパンピーがフォーカスされ、大衆がクローズアップされる契機であるのも確か。その反映そのものであるかのようなメディアであるネットの可能性はどこまであるのか? それは予期できるものなのか? 楽しい探究はつきないですね。

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