OnePush!お願いしまーす!

無料ブログはココログ
2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

とれまがブログランキング

« 『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』…その可能性 | トップページ | 「私としての私」・「我々としての私」 »

2011年2月12日 (土)

<国家>へのジャンプと作為

●<民族>→<国家>へのジャンプ

   家族→親族→部族→民族→国家という
   対幻想の遠隔化(観念化)していく過程こそが
   国家生成の過程そのものです。

 家族から国家までの過程のうち「民族」と「国家」の間には大きなギャップがあります。 これは「家族」と「親族」や「部族」と「民族」の間にあるものより大きな差異で、「民族」から「国家」にいたる場合のジャンプは家族が親族に遠隔化(拡張)する場合や部族が民族に遠隔化(拡張)する場合のジャンプより大きなものです。

 家族→親族や部族→民族という展開はその根拠を現実に見つけ出すことができますが、民族→国家の展開の根拠は観念のなかにあり(言語として表象されますが)何らかの現実には還元できません。現実に還元できないものが国家の根拠であるということになります。

 {<現実と無関係>という関係意識}が<他界>であるとすれば、国家もまた現実とは無関係のものであり、根拠のない関係意識が国家だといえることになります。国家は作為そのものだといえる可能性があります。宮台さんが援用する丸山眞男が指摘した「作為の契機の不在」という日本(人)の欠点?とは、具体的には、作為そのものである国家を意識できない事態…を示しているということになります。

●作為される国家・国民

 国家や国民の属性は作為として成立した(させた)ものであり、国家の構成員である国民の属性そのものが恣意的です。家族から民族までは遺伝子や言語など共通項となるものが抽出可能で、科学的に立証可能な現実に還元できるものが根拠となっています。しかし国家の成立要件と国民の属性は作為的です。フランスの領土で生まれればフランス人であったり、ユダヤ教を信仰していればイスラエル人であったり、旧ユーゴラスビアのように申請すればユーゴ人になれる(ボスニア、セルビア、クロアチア人などいずれの民族からでも申請できた)というものもあります。

 現実的要件に還元可能な<民族>と現実的要件が作為である<国家>との間には連続性はなく、そこには大きな観念的なジャンプがあるといえます。資本主義の深化と拡張が可能にした近代国家(民族国家の上位互換として)は観念(性)によって成立し得たものだといえるワケです。観念そのものが根拠なので、それは自由の体現でもあり、論理的には論理の限界(が自由の限界)で(も)あり、それは自己言及の不可能性として表象します。具体的には、その不可能性ゆえに、国民が国家を意識できないあるいは国家の責を問うことをしないという状況です。

●市民社会は自由な言語

 通貨が経済的範囲を、言語が民族の範囲を、それぞれ示していますが、領土が示しているのは何でしょうか? 領土は確かに国家の範囲(国家・政治・権力の空間性)を示していますが、領土の境界線の設定が作為的であることはいまや誰でも知っていることでしょう。もともと自然環境の違いや生態系的な差異を領土の境界にしていたと考えられる世界の民族は、近代国家という作為の集合態の登場で錯合した空間性を受け入れることになりました。宗教のように(純粋に)当初から価値観の違いを境界にしているものはありますが、それは非実在神あるいは非実在な理想郷を頂いているための必然です。その非実在性にリアリティをもたせるために各種の宗教的な演出がされているワケで、戒律はその規範性をとおして宗教の実効性を示し、立派な教会も見事な宗教画も聖歌もリアリティを与えようとするものです。宗教は純粋に作為でありリアリティを演出するためにさまざまな装置を必要としているといえます。

 市民社会は個人の自由を究極の目的とします。個人が互いの作為の自由を目的とするワケです。自由な言語が規範となり、そのリアリティ(と実効性)のために法(不自由)が設定されます。この疎外論(外化・表象論)的な見解は社会的な契約のために法が設定されるというトートロジカル?な見解とは異なり、マテリアルとテクノロジーへの経路が開かれています。

●根拠が不可視な国家の作為

 国家(共同体)は作為の根拠が不可視になりがちです。

 不可視な根拠を可視化しようとする巫女やシャーマンは、架空の根拠を仮構するために場所(土地、地域、自然などの場所的限定=TPO)にアンカーします。そのためにその地を象徴する氏神や共同体に関与することになります。あるいはそもそも特定の共同体の利害を代理象徴する(だけでしかない)巫女やシャーマンが、それなりのリアリティ?や説得力をもつために宗教的または神秘的様相を纏うのは当然なことなのでしょう。

 巫女やシャーマンが変性意識下(トランス状態)で見解を述べるのがその役割であるのは、共同体(国家)の変成にともなうものとして必然。変性意識の状態=夢幻様や入眠状態において感得した物語を収集したのが『遠野物語』であり、その変性状態の様態からリアルな関係性(現実世界)を読み取ろうとするのが『共同幻想論』です。

« 『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』…その可能性 | トップページ | 「私としての私」・「我々としての私」 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/24896/50853451

この記事へのトラックバック一覧です: <国家>へのジャンプと作為:

« 『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』…その可能性 | トップページ | 「私としての私」・「我々としての私」 »

にほんブログ村

ネタ本 アザーコア

オススメ DOYO