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2011年2月18日 (金)

「私としての私」・「我々としての私」

『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』P25から

 功利主義は、…
 自分の前に特定の他者たちが出現した場合、選好構造が変わってしまう。
 …功利主義が意味を失う。

 社会学の言葉でいえば自己包絡の範囲が、
 特定の他者たちとの近接性によって変わるのです。
 廣松渉的に言えば「私としての私」と、
 特定の他者たちに関する「我々としての私」が異なる選好を持つ。

●3つの位相の異なる判断

 「自己包絡の範囲が、特定の他者たちとの近接性によって変わる」…吉本理論に転移?しているこのblog的に結論をいうと共同性(に関する意識の)の(3つの)それぞれの次元(位相)で選好構造は違うということ。つまり、公的関係と親和的関係、自己関係ではそれぞれ判断が違うということです。たとえば合成の誤謬とはこのそれぞれ異なる次元をひとつの基準でジャッジするために起こるコーディネーションの失敗であって、単一の価値基準(の設定)こそが間違いだといえます。 

 他者の自己への近接(の度合い)によって、その他者の意味が変わります。
 胎児期の自己とシンクロ率100%である母(体)は他者性ゼロ。
この自他不可分の状態から母(体)が分離してこれが対象化され、やがて自己にとっての自己も対象化されて認識構造が完成します。それまでの段階ごとに異なる認識構造があり、それぞれは3つの位相のいずれかに収斂できる構造をもっていると考えられます。少なくともその3つの位相の錯合がある特定の認識そのものであるワケです。

●自他不可分から自己対象化まで

 「私としての私」は自意識(対自認識)よるものですが、もう一次元の微分が可能です。
受胎以降の自他不可分(母体あるいは環界と自己が分離していない)な自意識は自己を対象化するという段階を経ないと完全なものになりません。認識は対象(具象)を抽象化して成立するものなので抽象化の度合いが問われます。自己抽象化と自己対象化(自己関係化)に分岐した認識構造の成立が認識の正常な展開の前提となります。四肢構造による「私としての私」「我々としての私」のより微分した解析が必要だということです。

 「我々としての私」はいうまでもなく共同性(共同体のなか)の観念における自分であり、共同幻想内における自己、公的関係の中での自己の位置づけを通した認識です。そこでは「私としての私」と「我々としての私」は並列しシーソーのようにバランスしていると考えられます。このバランスのためにも前段で触れた自己意識の完成(自己の抽象化と対象化)が前提となります。

●「我々」という構造のバリエーション

 この「私」や「我々」の属性を把握し定義ができないと、その上に展開する認識(意識)は偏差が大きくなりアヤフヤになってしまいます。これらの前提となる自意識が確定的でないと自閉症や統合失調症にみられるような人称による大きな差異や、環境や他者に対するレスポンスの分析が困難になります。なによりも作為への認識とスタンスを確定したうえでないとブレのない認識ができません。

 特に公的関係(共同幻想、「我々」…)を前提とした認識は観念の冪乗化した基本構造(その具現化した典型例が<他界>認識の構造)という共通点以外はすべて現象ごと現象の数だけ想定できます。そのため、この場合は逆に環界のマテリアルな構造を把握するほうが(認識構造へ)フォーカスしやすくなり、マテリアルな構造の科学(たとえば『資本論』)として論理がクローズアップされます。

 「我々」(という認識構造)の瓦解は「悲劇」ですが、「悲劇の共有」こそが作為の最強の形態?である近代と国家への認識であることを宮台真司さんは繰り返し主張しています。歴史から文芸、昼メロまでありきたりの「悲劇」。音韻と韻律が解離しメロディと歌詞が分離するように、すべての指示表出(とその自己表出)の細分化・微分化が歴史とともに全領域にわたるなかで悲劇の共有はますます困難になっているでしょう。現在では楽しいコトの共有こそが大衆社会の表層をリードし覆っています。楽しいコトの共有を現代の共同性の根源に見出したのがオタキングの『ぼくたちの洗脳社会』で、発刊当時は全く新しい社会学として提示されたようです。

●<死>という最強の作為?

 もっとも強い作為あるいは最も強度のあるアプローチ?は自己への否定です。その代表は<死>。他者によってもたらされる死(殺される)から、自らの死(自然死、病死、自死)まで。
 <死>は最も個体に変成(変性)をもたらすものと考えられます。特に他者によってもたらされる<死>は、最強度の作為といえるでしょう(最強の作為である国家が戦争と死刑を権利として行使できる理由はこれを行使できるということそのものにあります)。
 あらゆる物語はその死に対するレスポンスとその集積であり、逆にいえば死(へ)の(レスポンスの)考察はあらゆる物語の考察でもあり、空間的には世界を知ることでもあるでしょう。共同性のレベルでは歴史といわれるものです。

 この<死>に対する調査と考察ではキューブラー・ロスのものが量質ともに充実しているといえそうです。それは多くの臨死の患者への膨大なインタビューであり、そこから人間の死に対する反応が類型化できるまでサンプリングされ調査されています。

 自己に対する否定的な作為はすべて価値観の変性を触発します。変性意識とは自己否定の意識に他ならず、否定された自己を変性(変成)することによって否定された状況を超えようとする何かでもあるでしょう。

2011年2月12日 (土)

<国家>へのジャンプと作為

●<民族>→<国家>へのジャンプ

   家族→親族→部族→民族→国家という
   対幻想の遠隔化(観念化)していく過程こそが
   国家生成の過程そのものです。

 家族から国家までの過程のうち「民族」と「国家」の間には大きなギャップがあります。 これは「家族」と「親族」や「部族」と「民族」の間にあるものより大きな差異で、「民族」から「国家」にいたる場合のジャンプは家族が親族に遠隔化(拡張)する場合や部族が民族に遠隔化(拡張)する場合のジャンプより大きなものです。

 家族→親族や部族→民族という展開はその根拠を現実に見つけ出すことができますが、民族→国家の展開の根拠は観念のなかにあり(言語として表象されますが)何らかの現実には還元できません。現実に還元できないものが国家の根拠であるということになります。

 {<現実と無関係>という関係意識}が<他界>であるとすれば、国家もまた現実とは無関係のものであり、根拠のない関係意識が国家だといえることになります。国家は作為そのものだといえる可能性があります。宮台さんが援用する丸山眞男が指摘した「作為の契機の不在」という日本(人)の欠点?とは、具体的には、作為そのものである国家を意識できない事態…を示しているということになります。

●作為される国家・国民

 国家や国民の属性は作為として成立した(させた)ものであり、国家の構成員である国民の属性そのものが恣意的です。家族から民族までは遺伝子や言語など共通項となるものが抽出可能で、科学的に立証可能な現実に還元できるものが根拠となっています。しかし国家の成立要件と国民の属性は作為的です。フランスの領土で生まれればフランス人であったり、ユダヤ教を信仰していればイスラエル人であったり、旧ユーゴラスビアのように申請すればユーゴ人になれる(ボスニア、セルビア、クロアチア人などいずれの民族からでも申請できた)というものもあります。

 現実的要件に還元可能な<民族>と現実的要件が作為である<国家>との間には連続性はなく、そこには大きな観念的なジャンプがあるといえます。資本主義の深化と拡張が可能にした近代国家(民族国家の上位互換として)は観念(性)によって成立し得たものだといえるワケです。観念そのものが根拠なので、それは自由の体現でもあり、論理的には論理の限界(が自由の限界)で(も)あり、それは自己言及の不可能性として表象します。具体的には、その不可能性ゆえに、国民が国家を意識できないあるいは国家の責を問うことをしないという状況です。

●市民社会は自由な言語

 通貨が経済的範囲を、言語が民族の範囲を、それぞれ示していますが、領土が示しているのは何でしょうか? 領土は確かに国家の範囲(国家・政治・権力の空間性)を示していますが、領土の境界線の設定が作為的であることはいまや誰でも知っていることでしょう。もともと自然環境の違いや生態系的な差異を領土の境界にしていたと考えられる世界の民族は、近代国家という作為の集合態の登場で錯合した空間性を受け入れることになりました。宗教のように(純粋に)当初から価値観の違いを境界にしているものはありますが、それは非実在神あるいは非実在な理想郷を頂いているための必然です。その非実在性にリアリティをもたせるために各種の宗教的な演出がされているワケで、戒律はその規範性をとおして宗教の実効性を示し、立派な教会も見事な宗教画も聖歌もリアリティを与えようとするものです。宗教は純粋に作為でありリアリティを演出するためにさまざまな装置を必要としているといえます。

 市民社会は個人の自由を究極の目的とします。個人が互いの作為の自由を目的とするワケです。自由な言語が規範となり、そのリアリティ(と実効性)のために法(不自由)が設定されます。この疎外論(外化・表象論)的な見解は社会的な契約のために法が設定されるというトートロジカル?な見解とは異なり、マテリアルとテクノロジーへの経路が開かれています。

●根拠が不可視な国家の作為

 国家(共同体)は作為の根拠が不可視になりがちです。

 不可視な根拠を可視化しようとする巫女やシャーマンは、架空の根拠を仮構するために場所(土地、地域、自然などの場所的限定=TPO)にアンカーします。そのためにその地を象徴する氏神や共同体に関与することになります。あるいはそもそも特定の共同体の利害を代理象徴する(だけでしかない)巫女やシャーマンが、それなりのリアリティ?や説得力をもつために宗教的または神秘的様相を纏うのは当然なことなのでしょう。

 巫女やシャーマンが変性意識下(トランス状態)で見解を述べるのがその役割であるのは、共同体(国家)の変成にともなうものとして必然。変性意識の状態=夢幻様や入眠状態において感得した物語を収集したのが『遠野物語』であり、その変性状態の様態からリアルな関係性(現実世界)を読み取ろうとするのが『共同幻想論』です。

2011年2月 8日 (火)

『「正義」について論じます THINKIG O 第8号』…その可能性

『「正義」について論じます THINKING O 第8号』…<近接性>とは?

 『「正義」について論じます THINKING O 第8号』の大澤真幸さんと宮台真司さんの対談は、社会学という水準で展開されるだけではもったいない?内容にあふれていて、サンデルのような政治哲学から変性意識までノンジャンルでつらぬく強度は他(?)を圧倒するものがありそうです。対幻想(と共同幻想との関連)や女性の定義だけで何冊も本を書ける斎藤環さんも才気にあふれてますが、宮台さんの言説もどの方面にも展開できる開かれた可能性は繰り返し読んでも楽しいもので、想像力を刺激してくれますね。

●ミメーシスを起こすものは?

P54
あり得ないほど共同体的な存在がミメーシス(感染的模倣)を起こすのと同様、
あり得ないほど脱共同体的な存在もミメーシスを起こすのです。

 共同体(スパルタとペロポンネソス同盟)のために死ぬレオニダスも、親和的関係(頼朝)から否定され共同体(国)から追放される(殺される)義経も、脱藩する坂本龍馬も魅力的です。
 共同体への強い志向も、逆に共同体を脱するスタンスも、それぞれ人びとを魅了する何かがあります。

 この点で宮台さんの上記の指摘はズバリと当たっています。共同体に対する是非はともかく共同体との関係性で「あり得ないほど」の強度があれば、いずれもそれは人を魅了するということでしょう。
 問題は共同体への是非、好き嫌いのような価値判断ではなく、共同体との<関係性>そのものが重要なのだ、ということです。

 まず共同体への是非つまり肯定と否定の価値判断が等価であることはわかります。どちらでもミメーシスを起こすならそれは等価なのだということです。そしてミメーシスを起こすのは「あり得ないほど」の共同体への(強い)関係性そののであるとすれば、それは何を示しているのでしょうか?

●共同体への<関係性>とは?

 共同体への<関係性>とは、<関係意識>そのものに他なりません。そもそも共同体そのものが関係意識なしには成り立たないものです。

 恋愛を典型とする親和的関係(対幻想)であれば、対象(恋人愛人)は意識だけではなく身体的な関係(性)の対象であり、意識(関係意識)しなくても成立しています。親和的関係のうち親族や部族も意識がなくても血縁や遺伝という共通項ゆえに成立します。民族であれば意識がなくても言語や文化という共通項があります。
 逆に価値観以外に共通項がない関係もあります。同じ神を信じることを前提とする宗教や価値観を共有するイデオロギーなどです。また音楽のように観念的な価値観ではなく身体性による共感や共有を前提としたものもあります。

 宮台さんが丸山真男を援用して強調する<作為の契機>の究極はこの関係意識のことです。この作為の契機が亢進した常態では原理的なあるいは病的な関係意識がクローズアップされ(てき)ます。(対象認識時の関係意識の亢進の一例として“クオリア”がある)

 <関係意識>の2つのファクターは<作為体験>と<不可避体験>。この2つが心的現象の基本構造を形成する関係意識そのものを形成しています。

●ミメーシスの対象が存在しない現在

 ミメーシス可能な対象が激減したのも現代の特徴かもしれません。国内最大級のある精神病院では田中角栄首相を最後にミメーシスの対象となる人がいないという調査がありました。かつては「朕は明治天皇である!」とミメーシス?する患者が少なくなかったようですが、「私は田中角栄だ!」を最後に感染模倣する患者はいないという報告があるワケです。

 一般的な若者論に関する言説でも「ロールモデルが無い」という指摘は説得力があります。サブカル的にもヒーローがいないというのも当たり前の認識になっています。AKB48でセンター経験がいちばん長い前田敦子でさえ、センターで歌うよりまわりで踊っていたいとコメントするほど。AKBに憧れてもセンターというポジションには興味がないファンも多いのでしょう。誰しも誰にも転移しないし、転移させるほどの対象がない…というのが現在のリアル。
 この転移(対象)の無さ、転移のし難さ…という状況や人間を分析するには個人=個別的現存への突っ込んだ探究が必要です。それが心の解明であるはずです。また大きな転移=ミメーシスはないかわりに趣味的なアディクティッド(嗜好)が無数にあるのが現代の特徴でしょう。その典型がサブカルやオタクの世界であり、パンピーのレベルでもすでに常識となったペットやガーデニング、世界的?なレベルでも(マテリアルな根拠が希薄な)エコ関連などいくらでもあります。

 ミメーシスの対象が存在しない、ロールモデルがない…しかし、この状況こそパンピーがフォーカスされ、大衆がクローズアップされる契機であるのも確か。その反映そのものであるかのようなメディアであるネットの可能性はどこまであるのか? それは予期できるものなのか? 楽しい探究はつきないですね。

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