ポリス・遠野物語・国家
*白熱教室・トロッコ・ミメーシス
ポリス、遠野物語、国家からそれぞれ共同体の属性を読み取ろうとした論考があります。ギリシャのポリスからは宮台真司さんが、遠野物語からは吉本隆明さんが、国家からはマルクスが、それぞれ読み取ったものとその読み取り方…。ここから学べるものはたくさんありそうです。
ポリス・・・
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大澤真幸THINKING「O」第8号
著:宮台 真司 , 他
参考価格:¥1,050 価格:¥1,050 |
ギリシャのポリス、スパルタの戦士がたった300名だけでペルシャの大軍を迎え撃つ物語・映画「スリー・ハンドレッド」では集団密集戦法を観ることができます。自分たちに向かって雨のように降り注ぐ弓矢を見て笑い出す防御の構えのスパルタの戦士たち。戦場でのトランス状態、響きわたるハイになった戦士たちの豪快な笑い。彼らが形成する亀の甲羅のような密集した集団の盾は、個々が互いに隣の戦士を防護するように構えられて隙がありません。自分の盾が隣の戦士を守るという行為の連鎖がこのポリスの集団密集戦法を成立させています。利他的な行為こそが共同体を守るという象徴的な戦術がここにあります。大きな盾を操る筋力、隣人をカバーできる腕の長さと身長…。状況に応じて変化する構え。これらを可能にする身体と呼吸と察知、そしてなにより自らの命で隣の戦士を守る精神…このような行為を瞬時に可能にし、それへ至るすべてに至高の価値を見出すポリスの審美眼がポリス=都市国家=共同体を支える共同性だったことを宮台さんは重視します。やがてこの身体行為を要とする価値観=美学は文字の登場で弱体化し、ポリスはそこから頽廃し没落していきます。
唱和と舞踏という身体的な運動=行為で意味や価値を伝承伝達してきたポリス社会の共同体が文字の普及のよって変質します。プラトンはもやは説得力を失った詩人に変わって哲人の存在を求めて尊び、そこで真理ではない文字や言葉を見抜き打ち破る能力も必須とし、そのための方法として対話(ダイヤローグ)=弁証法が重視されていきます。
ギリシャのポリスの没落に共同体が依存する構造の変遷を見てとり、さらには哲人と比して詩人を貶めるプラトンのスタンスに、宮台さんは大きなヒントを得ているようです。
つまり文字が拡がるにつれて「朗誦と舞踊」が「廃れた」ポリスでは身体性に依拠したミメーシスは起こるはずがなく人々はフラットになっていく…。このためのポリスの頽廃に対して文字=言葉を駆使できるものを待望したプラトンは必然的にその極北にあるイデアを掲げるようになる…
遠野物語・・・
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遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)
著:柳田 国男
参考価格:¥500 価格:¥500 |
これを語りて平地人を戦慄せしめよ。
遠野物語の序文のこの文章が意味するものは何か?
「平地人を戦慄せしめよ」…ずいぶん過激なようですが、平地人が当たり前のことだと疑いもなく信じているものが木端微塵に解体されてしまう…という意味ではないでしょうか。パンピーが当たり前だと思っている国家や社会の姿が、山人の奇譚から明らかにされていく…そういう意味がありそうに思えます。
遠野物語には語り手である佐々木鏡石本人に関係する物語が多く出てきます。三島が絶賛した老婆の死の幽霊譚、馬に想いを寄せた娘が神になったオシラサマ、また毒キノコに当たり少女一人を残して1日で20数名が絶えてしまった家(佐々木家本家?)…これらの物語の女性は同一人物で佐々木の親戚であるともいわれています。そして不本意ながら村長として村の借金を負わされて家族が離散したらしい佐々木本人の現実…。
マルクスが一つの商品から資本主義を解明し小林秀雄が単語から作品を分析するように、佐々木鏡石独りの物語だとしても、遠野物語から遠野という山野に存在する社会を解析することは可能でしょう。問題はそれが他者にとってどのような意味(価値)があるかということ。国家が個人(の物語)など歯牙にもかけないという現実に対して、個人の物語から国家を解体する経路を探究したのが『共同幻想論』だとすれば、そこには(文芸)批評に国家や宗教を解体しうる可能性や契機があるといえるワケです。
『共同幻想論』の「憑人論」は遠野物語研究の周辺からも共同幻想を国家論と考えるスタンスからも違和感があると考えられます。「憑人論」は柳田と佐々木の親和的関係を考察し、それを演繹して<共同幻想>をみるもの、語るもの、伝えるものの関係を解き、それ自体が個人の観念が伝播し遠隔化していく過程のファクターと構造を探ったものだと考えられます。別のいい方をすれば作家論的なアプローチとその作品がメディアとして生成していく過程をフォーカスしたともいえます。ファンクショナルには巫女もシャーマンもメディアであり、その変遷は時代(社会構造)の変遷を意味するものだからです。
国家・・・
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ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫)
翻訳:城塚 登
参考価格:¥630 価格:¥630 |
近代国家の成立をその精神(価値観)の外化である法(疎外態)と形態の精緻な構造として描いたヘーゲル。このヘーゲルの『法哲学』を徹底的に読み込んで、その形態から形式(国家)と力動(市民社会)の二重性を読み出し、歴史はそこからどう動くかを推論したのがマルクスの『ヘーゲル法哲学批判』です。
社会の疎外態である法という論理の展開から経済という自然(史)過程と照応する構造を読み取り、そこでは法の権化である国家と自然史過程を担う市民社会との関係が解析されていきます。
同じように『遠野物語』に描かれている物語の形態と内容と当時の経済の状態との関連から物語の形態を(も)形成した(する)意識を読み取ろうとするのが『共同幻想論』。経済という自然史過程とそれに照応する民譚が示す社会の構造を読み取り、そこにおける民衆の心性から生成する観念と公的関係との関連や、ベースにある親和的関係と共同的なものがバランスしながら移行する関係を共同幻想論は描いています。
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