『「正義」について論じます THINKING O 第8号』…<近接性>とは?
『「正義」について論じます THINKING O 第8号』は吉本理論へのバランスのいい理解を示したことがある大澤真幸さんと、予期理論の<了解>(最近では近接性による了解の変化)を重んじる宮台真司さんの対談です。『日本の難点』をはじめ“わかりにくい!”と書評(ホリエモン的には“読んでないヤツによる悪口”というタイプかも?)されることも多い宮台理論の根源が語られています。
『日本の難点』の「はじめに」で触れられている丸山眞男が提起した日本の根源的な問題――「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」がいかに決定的(な要因)であるかがここでは説明されています。フーコーが美学として意識したそれは具体的にはギリシャのポリスの頽廃に見出されるその理由であり、権力と美学が交錯する一点の表象です。
フーコーよりはるか以前、プラトンがどのようにそれらを問題視し、いかにダイアローグによってそれを打ち破ろうとしたか…それは現代へもハーバーマス、サンデルと不可視?に継承されてきた問題なのでしょう。
社会学的?なタームで宮台真司さんが鋭く語っていることは、より多くの人が自分で何かを理解するときの有用なツールになるもの。もっと簡明に説明することができれば応用が効くようになりそうです。
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P23,24
サンデル「白熱教室」が帰結主義批判からはじまるのは象徴的です。
…
神経生物学者や進化生物学者も倫理学者も、
この件について一貫した説明図式を用意できません。
だからサンデルも答えを言わない。
我々が言えるのは、ハウザーが整理したように、
かかる判断は「理性的というより情動的だ」といところまで。
正確には「理性(帰結主義的合理性)では越えられない情動の壁が在る」。
「越えられない壁」はカント的義務観念では説明できない回答の偏差を含みます。
ここには「規定不可能な意志」があるというほかない。
その意味で右翼思想の根幹に通じます。
P24
「越えられない壁」が「規定不可能」だ…
…ここには計算可能性にも宗教的超越性にも還元できない
「個人にとっての『越えられない壁』を構成する他者性の契機」があります。
卓越者であれば越えられる程度の壁だから、「弱い超越性」です。
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「この件」や「ここ」は共同体と個人の関係のことで、特に共同体(へ)の再帰性をめぐる問題として取り上げられています。
大胆にいえば「この件」は“コーディネーションの失敗”や“合成の誤謬”に置き換えてもOK。むしろその方が応用しやすくなるかもしれません。
「この件」の解や答えは<偶有性>に任せるしかないという流行?の言い分もありかもしれませんが、それでは偶有性が万能の言い訳になってしまう。そういう危険性は分子生物学者福岡伸一さんのように慎重に避けなければいけないでしょう。
論理(学)的には「越えられない壁」というのは、触れられことも知ることもできない領域。いかなる価値判断も捨象したところに有る、論理的には推論可能だが自己言及できない領域のこと。問題は、領域があることは推論できてもその内容=質が定義不能であることです。
こういう「規定不可能」で(自意識が)把握できない<根源的脱自態>(『構造と力』)的な領域(や社会であれば<脱社会的存在>)は、人間がもっている防衛機制的な、動的平衡によって解決します。仮に何かを代入して仮措定し、領域を安定させるわけです。これで定義不能で不安定な領域はなくなり、安定した領域が仮構されます。(これは領域が入れ子構造であることの証明でもある)
●論理から<了解>へ
『権力の予期理論』でアローの社会選択理論などに触れながらも、そういった論理(学)的な設定を重要視しないのは、同書のサブタイトルのように「了解を媒介にした作動形式」が問題だからです。つまり了解(の仕方)が変われば選択理論などが無効になりうるからです。理論や数式どおりの現実など無いことは観るまでもないこと。それより宮台さんはこの選択理論=顕示選好を変えてしまう現実として「近接性」にフォーカスしています。つまり、公的関係が依存する構造を変えてしまう親和的な関係…です。吉本隆明さんなら共同幻想を変えてしまう対幻想の在り方。
「どんな人間同士でも、2人が出会えばそこには必ずといっていいほど権力関係の萌芽を見出せる」と親和的関係(対幻想)に権力の契機を見出したのが『権力の予期理論』の2年後にでた社会学の論文『権力/何が東欧改革を可能にしたか』。そこでは「了解」についての考察から近接性による予期が権力の萌芽としてフォーカスされています。つまり親和的関係による予期から遠隔化して公的関係(権力関係)が生成する…ということです。
「ミメーシス(感染的模倣)」は転移(精神分析的に)に他ならず、そのトリガーを抽出しようと試みた論は少なくありません。恋愛論はもちろん誘惑論や化粧論、あるいはファッション論というもの、あるいはデザイン論、審美論…現在の雑誌のありがちな特集まで、古今東西に程度の差はあれあふれています。問題はほとんどがミメーシスや転移の契機を抽出出来ていないこと。もちろん精神分析には大きな成果があっただろうし、マルクスにとってもそれは大きなテーマであり、それは社会の自然史過程=経済としては資本論で抽出されています。しかし個人レベルのアディクティッドとしては、むしろ現在のオタク論やカルチャーをめぐる論議に興味深いものや可能性があるのも確かです。
美学論も政策論も自在にさぐれる宮台さんと吉本さんのハイイメージ論は遠くはないハズですが、また他には類するテキストが無い現実というものが突きつけるものはキビシイものかもしれません。
●「理性」「情動」の定義へ
ここからはじめるならば必要なのは「理性」や「情動」の解析と定義。理性や感性、悟性を恣意的な定義で使う哲学も、いまだに情動や感動の定義もできない心理学も必要はないし、ここではイメージや視覚情報、概念や想像の峻別も無しに使っている認識論や神経理論さえ意味はないでしょう。マルクスの資本論を評して“唯物論が足りない”と言い放ったフロイトのようなクールさはどこでも前提であってほしいものです。
それに応答するかのように未完の大著『心的現象論本論』があります。
モノクロの模様がプリズムのような色彩として見える事実などを指摘しながら、ヘーゲルと現象学を解体しつつ進む論考は日本語の起源などを解析しながら中途で終わっています。しかし、うつ病やパラノイアなど精神疾患のサンプル集かと思われるような多くのページから<関係(意識)>を解き、理論物理学者などが解く精神現象なども取り上げ、LSDの実験レポートなどからも身体=神経=精神を考察し、「障害感」といったリアルな難問をも解剖しながら展開されていきます。熱帯の色彩が本当はシンプルであることなどとその意味なども考察されています。結局は経済から政治、美学まで、人間個体の判断(関係意識)によるものであることを達観?したゆえの著書として『共同幻想論』から40年経た『心的現象論本論』は総括として執筆され続けたのでしょう。
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「特定の他者」というのは<親和的関係>の対象となる他者のことで、吉本理論式にいえば対幻想の対象となりうる他者のこと。
「近接性」とはその親和的関係性のこと。
「近接性が弱順序空間を変質させる」というのは「親和的関係が公的関係の度合いを変える」という意味。たとえば、ダイレクトには「恋愛は相手との距離を変える」ということ。
「自己包絡の範囲が、特定の他者たちとの近接性によって変わる」というのは親和的関係をもった他者(対象としての相手)は自己の属する共同体の範疇になる、というようなこと。
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大澤真幸THINKING「O」第8号
著:宮台 真司 , 他
参考価格:¥1,050 価格:¥1,050 |
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