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2010年12月26日 (日)

『「正義」について論じます THINKING O 第8号』…<近接性>とは?

『日本の難点』…作為の契機の不在とは?

 『「正義」について論じます THINKING O 第8号』吉本理論へのバランスのいい理解を示したことがある大澤真幸さんと、予期理論の<了解>(最近では近接性による了解の変化)を重んじる宮台真司さんの対談です。『日本の難点』をはじめ“わかりにくい!”と書評(ホリエモン的には“読んでないヤツによる悪口”というタイプかも?)されることも多い宮台理論の根源が語られています。

 『日本の難点』「はじめに」で触れられている丸山眞男が提起した日本の根源的な問題――「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」がいかに決定的(な要因)であるかがここでは説明されています。フーコーが美学として意識したそれは具体的にはギリシャのポリスの頽廃に見出されるその理由であり、権力と美学が交錯する一点の表象です。

 フーコーよりはるか以前、プラトンがどのようにそれらを問題視し、いかにダイアローグによってそれを打ち破ろうとしたか…それは現代へもハーバーマス、サンデルと不可視?に継承されてきた問題なのでしょう。

 社会学的?なタームで宮台真司さんが鋭く語っていることは、より多くの人が自分で何かを理解するときの有用なツールになるもの。もっと簡明に説明することができれば応用が効くようになりそうです。

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P23,24
サンデル「白熱教室」が帰結主義批判からはじまるのは象徴的です。

神経生物学者や進化生物学者も倫理学者も、
この件について一貫した説明図式を用意できません。
だからサンデルも答えを言わない。
我々が言えるのは、ハウザーが整理したように、
かかる判断は「理性的というより情動的だ」といところまで。

正確には「理性(帰結主義的合理性)では越えられない情動の壁が在る」。
「越えられない壁」はカント的義務観念では説明できない回答の偏差を含みます。
ここには「規定不可能な意志」があるというほかない。
その意味で右翼思想の根幹に通じます。

P24
「越えられない壁」が「規定不可能」だ…

…ここには計算可能性にも宗教的超越性にも還元できない
「個人にとっての『越えられない壁』を構成する他者性の契機」があります。
卓越者であれば越えられる程度の壁だから、「弱い超越性」です。

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 「この件」や「ここ」は共同体と個人の関係のことで、特に共同体(へ)の再帰性をめぐる問題として取り上げられています。

 大胆にいえば「この件」は“コーディネーションの失敗”や“合成の誤謬”に置き換えてもOK。むしろその方が応用しやすくなるかもしれません。
 「この件」の解や答えは<偶有性>に任せるしかないという流行?の言い分もありかもしれませんが、それでは偶有性が万能の言い訳になってしまう。そういう危険性は分子生物学者福岡伸一さんのように慎重に避けなければいけないでしょう。

 論理(学)的には「越えられない壁」というのは、触れられことも知ることもできない領域。いかなる価値判断も捨象したところに有る、論理的には推論可能だが自己言及できない領域のこと。問題は、領域があることは推論できてもその内容=質が定義不能であることです。
 こういう「規定不可能」で(自意識が)把握できない<根源的脱自態>(『構造と力』)的な領域(や社会であれば<脱社会的存在>)は、人間がもっている防衛機制的な、動的平衡によって解決します。仮に何かを代入して仮措定し、領域を安定させるわけです。これで定義不能で不安定な領域はなくなり、安定した領域が仮構されます。(これは領域が入れ子構造であることの証明でもある)

●論理から<了解>へ

 『権力の予期理論』でアローの社会選択理論などに触れながらも、そういった論理(学)的な設定を重要視しないのは、同書のサブタイトルのように「了解を媒介にした作動形式」が問題だからです。つまり了解(の仕方)が変われば選択理論などが無効になりうるからです。理論や数式どおりの現実など無いことは観るまでもないこと。それより宮台さんはこの選択理論=顕示選好を変えてしまう現実として「近接性」にフォーカスしています。つまり、公的関係が依存する構造を変えてしまう親和的な関係…です。吉本隆明さんなら共同幻想を変えてしまう対幻想の在り方。

 「どんな人間同士でも、2人が出会えばそこには必ずといっていいほど権力関係の萌芽を見出せる」と親和的関係(対幻想)に権力の契機を見出したのが『権力の予期理論』の2年後にでた社会学の論文『権力/何が東欧改革を可能にしたか』そこでは「了解」についての考察から近接性による予期が権力の萌芽としてフォーカスされています。つまり親和的関係による予期から遠隔化して公的関係(権力関係)が生成する…ということです。

 「ミメーシス(感染的模倣)」は転移(精神分析的に)に他ならず、そのトリガーを抽出しようと試みた論は少なくありません。恋愛論はもちろん誘惑論や化粧論、あるいはファッション論というもの、あるいはデザイン論、審美論…現在の雑誌のありがちな特集まで、古今東西に程度の差はあれあふれています。問題はほとんどがミメーシスや転移の契機を抽出出来ていないこと。もちろん精神分析には大きな成果があっただろうし、マルクスにとってもそれは大きなテーマであり、それは社会の自然史過程=経済としては資本論で抽出されています。しかし個人レベルのアディクティッドとしては、むしろ現在のオタク論やカルチャーをめぐる論議に興味深いものや可能性があるのも確かです。
 美学論も政策論も自在にさぐれる宮台さんと吉本さんのハイイメージ論は遠くはないハズですが、また他には類するテキストが無い現実というものが突きつけるものはキビシイものかもしれません。

●「理性」「情動」の定義へ

 ここからはじめるならば必要なのは「理性」や「情動」の解析と定義。理性や感性、悟性を恣意的な定義で使う哲学も、いまだに情動や感動の定義もできない心理学も必要はないし、ここではイメージや視覚情報、概念や想像の峻別も無しに使っている認識論や神経理論さえ意味はないでしょう。マルクスの資本論を評して“唯物論が足りない”と言い放ったフロイトのようなクールさはどこでも前提であってほしいものです。

 それに応答するかのように未完の大著『心的現象論本論』があります。
 モノクロの模様がプリズムのような色彩として見える事実などを指摘しながら、ヘーゲルと現象学を解体しつつ進む論考は日本語の起源などを解析しながら中途で終わっています。しかし、うつ病やパラノイアなど精神疾患のサンプル集かと思われるような多くのページから<関係(意識)>を解き、理論物理学者などが解く精神現象なども取り上げ、LSDの実験レポートなどからも身体=神経=精神を考察し、「障害感」といったリアルな難問をも解剖しながら展開されていきます。熱帯の色彩が本当はシンプルであることなどとその意味なども考察されています。結局は経済から政治、美学まで、人間個体の判断(関係意識)によるものであることを達観?したゆえの著書として『共同幻想論』から40年経た『心的現象論本論』は総括として執筆され続けたのでしょう。

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 「特定の他者」というのは<親和的関係>の対象となる他者のことで、吉本理論式にいえば対幻想の対象となりうる他者のこと。
 「近接性」とはその親和的関係性のこと。

 「近接性が弱順序空間を変質させる」というのは「親和的関係が公的関係の度合いを変える」という意味。たとえば、ダイレクトには「恋愛は相手との距離を変える」ということ。

 「自己包絡の範囲が、特定の他者たちとの近接性によって変わる」というのは親和的関係をもった他者(対象としての相手)は自己の属する共同体の範疇になる、というようなこと。

           
大澤真幸THINKING「O」第8号

著:宮台 真司 , 他
参考価格:¥1,050
価格:¥1,050

   

2010年12月 1日 (水)

『共同幻想論』・他界論から2

 社会的な利害と無関係、あるいは現実とは無関係である関係意識(共同幻想・公的関係の心的現象論上の呼び方)={<現実と無関係>という関係}から生成する<他界>の観念。別の言い方をすれば空間性に還元できない観念ということになります。他界は言葉という概念に刻印できても現実には存在しません。存在しない世界についての観念=関係意識であり、起点となる根拠はその関係意識そのものにしかありません。

 同じように認識(関係意識)の根拠が認識(の構造)そのものにしかない心的現象として<夢>があります。『心的現象論序説』のⅥ章「心的現象としての夢」では夢について〝対象が<身体>の外部に実在しない〟から〝無定形な空間化度にすぎなくなる〟というシンプルでストレートな定義がされています。
 ここには〝対象が<身体>の外部に実在しない〟場合の共同幻想=他界との共通点や他界を考えるときの大きなヒントがあります。

 関係意識そのものにしか根拠をもたない<他界>への論考は現象学や実存哲学のようにラジカルですが、デコレートされることも恣意的なテキストであることもありません。
 自己同一(自己抽象)性と自己関係(自己対象)性を同致する根源としての現存性の意識の探究。自己同一(自己抽象)性と自己関係(自己対象)性が<いま・ここ>の現存性の意識によって同致されて成立している<わたし・だれ>という自己幻想(自己意識)へのラジカルなアプローチがそこにあります。

   対象が<身体>の外部に実在しないことから、
   心的な受容の空間化度は、
   それぞれの感官に固有な水準と境界をもちえないで、

   無定形な空間化度にすぎなくなる…
                (『心的現象論序説』【Ⅵ心的現象としての夢】P188)

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【他界論】

 <他界>は現実(の共同利害)と無関係の共同幻想であり、「<他界>は<時間>性としてしか存在しえない」のですが、「<死>が…対幻想の<作為>された対象として関係づけられたとき」は空間化します。つまり{<現実と無関係>という関係}から生成する共同幻想としての<他界>が、ある時間を経て対幻想の作為の対象と化せば空間性として表象する、ということです。共同幻想の対幻想化です。

 共同幻想は対幻想から遠隔(対称)化したものとして生成しますが、共同幻想の対幻想化は近隔化といえるかもしれません。(<近隔化>は『心的現象論序説』に登場する概念。)

 死というものは自ら体験できないために、(他人の)死は認識の対象としてしか認知できません。つまり関係意識(の認識対象)としてしか認識できません。しかし自らの対幻想に作為として対象化すると空間性として表象します。
 たとえば<他界>を表象するものとして、この空間性を対象とした現実的な行為が土葬(埋め墓にすること)であり、時間性としての認識(行為)を表象するものが詣で墓(墓参り)であることが説明されています。つまり個人が現実に行為する対象としての他界…対幻想化した共同幻想の象徴としての形態とその形式の表象です。

 古墳時代の<他界>観念を埋葬形式から論じた大場磐雄の論考を参照しながら、<他界>の観念が、古墳時代前期には共同幻想から<時間>的に疎外された観念として存在し、中期、後期には<空間>的に疎外された観念として存在したとし…そこから観念の変遷ではなくマルクスのように生産様式の変化が読み取られています。(観念(だけ)の変化とその階程としては『心的現象論序説』がフォローする領域のテーマです。)

 下部構造(生産緒関係)の自然過程に対して、上部構造=共同幻想・公的関係がどのように作為的に構造化するか? この一点の典型として<他界>の観念形成が探究されています。それは個体幻想から宗教や国家までを射程としたマルクスの論考と照応しますが、共同幻想論のターゲットである巨大で複雑で細密な「共同幻想の<アジア>的特性」(よりプリミティブなのがアフリカ的段階)は現在もハイイメージとして進行形です。

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