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2010年11月 5日 (金)

『日本の難点』…作為の契機の不在とは?

『「正義」について論じます THINKING O 第8号』…<近接性>とは?

 丸山眞男や宮台真司さんが指摘する日本の根本的な難点が{<作為の契機>の不在}。(『日本の難点』以外では『日本経済復活 一番かんたんな方法』宮崎哲弥さんが{<作為の契機>の不在}について触れています。)<作為の契機>とそれに対する否定性の認識でもあるのが<不可避体験>。<作為体験>と<不可避体験>は<関係妄想>として心的現象の基本構造を形成しています。
 根源的な日本の難点であり特徴は『共同幻想論』で指摘されているように「共同観念に属するすべてのものに、大規模で複合された<観念の運河>を掘りすすめざるをえなかった」ところ。約束→掟→法と自己関係→親和的関係→公的関係と(規範からの)規制は遠隔していきますが、これらの全レベルの<関係(性)>そのものに刻印がなされてきたことが日本の特徴だということです。
 『日本の難点』ではハーバーマスルーマン問題がカップリングされ、だからこそ「あえて…」というスタンスが解として示されています。『日本の難点』そのものは現時点での知見に基づいたファンクショナルな解が用意されていて実効性が高いもの。
 ここでは丸山眞男や宮台真司さんが指摘し、吉本理論ではその根源をなしている<作為の契機>と<不可避体験>について(だけ)触れます。
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日本の難点 (幻冬舎新書)

著:宮台 真司
参考価格:¥840
価格:¥840

   


丸山(眞男)や宮台が指摘する日本の難点とは?

 数行で一つの知見が込められ次のセンテンスとの関連は行間が飛んでるように感じる。柄谷行人のような観念的な行間の飛び方ではなく内容のシフトがあり展開が速すぎるために分かりにくくなっている。宮台の私塾用のテキストがベースのようなので仕方無いかもしれないが、もっと読み安くしてほしかったとはいえる。講義ならば豊富な話題と知見、スピーディーな展開で毎回面白く聞いてられるハズだ。
 内容的には宮台理論の全容が抽象から政策まで、哲学からポリティカルな面まで知ることができるので宮台の研究家?や論破したい人は読破してみるといい。個人的には「はじめに」の10頁分だけでそのポテンシャルが確認できたのが幸いだった。ある意味宮台理論の可能性とそしてはじめて限界(も)が把握できた気がしたからだ。
 丸山眞男が提起した日本の根源的な問題が「はじめに」で示されているが、それは宮台個人の実存の問題(そして多くの日本人の問題)でもあり、吉本隆明だけが理論化してきた問題でもある。その点だけにフォーカスしてみた。

●「日本人が浸されている特別な事情」
 ここでは、日本人が浸されている特別な事情についてだけ述べておきましょう。
 丸山眞男が述べた「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」がヒントです。
(P9,10)

 宮台は本書のはじめに「日本人が浸されている特別な事情」を明らかにしている。それは丸山眞男が指摘したという「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」である。この指摘は宮台の認識の基礎となる重要なもので、『吉本隆明のDNA』で宮台が自ら語っている「不可避体験」と対?をなす認識(概念)なのだ。

 「作為の契機」とはカンタンにいえば<他人が(何か)した(する)コト>であり、他人を認識するときの前提でもある。誰でも、この他人の<したコト(するコト)>をとおして他人を認識している。逆にいえば、この<したコト(するコト)>以外をとおして他人を認識することは出来ない。(これは本来、関係のマテリアルであり、唯物論の論拠であるべきもので、マルクスでは生産諸関係等となる。広松哲学ならば他人の行為の物象化だ)

 <不可避体験>とは、この他人による<作為>への認識が亢進した状態を呼ぶ。自分が他人に何かされる(された)、他人が自分に何かする(した)という認識だ。そこには<ワザとやった>というニュアンスで他人の意志がでっち上げられている。他人の意志を無理やりにでも見出すところが病的であり、関係の本質の一端でもある。それが周囲との論理的な整合性がなくなった状態が精神病=関係妄想なのだ。ただし人間(生物)の特徴としてこの<関係の病>は捨象出来ない。正常な閾値の範囲内ではそれは<受動性>として発現する<愛>の受容態でもあるからだ。フロイトはこの受容態の歪みを精神分析の根源としたが、そこから遠隔化した様態と、そこに不可逆で不可換な位相があることを考察しなかった。これがフロイトの限界なのだ。

 宮台はフーコーがこれらの問題を先取りしていたことを示唆しているが、そのフーコーの限界も同じところにある。フーコーと吉本隆明の対談で、すでに自らの『言葉と物』などの方法論の限界を表明していたフーコーは吉本に対して次のように語っている。

  国家の成立に関しては、
  …
  どうにもわからない大きな愛というか
  意志みたいなものがあったとしか
  いいようがないのです。
(『世界認識の方法』P48)

 このフーコーの言葉は半分当たっていて半分外れている。「どうにもわからない」というのはそのとおりなのだ。ラカンはこのどうにもわからないものを象徴界と呼んだ。だが、それは「大きな愛」でもないし「意志みたいなもの」でもない。
 「国家」という共同幻想を成立せしめているのは、<愛>から遠隔化する構造そのものであって、<愛>や<意志>の変形ではないし、必ずしもそこから生成するものでもないからだ。ただそこには何でも代入できるために愛も変態もファシズムも可能になるだけだ。そしてそれに基づく関係性はDVから資本主義までさまざまだ、ということに過ぎない。(この認識に立った言説が『ハイ・イメージ論』

●<する><される>という関係
 ところで「作為の契機」や「不可避体験」で表出する(他人を認知するための具体的な条件である)<する><される>は主体と客体の関係の基礎であり、関係そのものだ。
 それは「主体と対象の<あいだ>」であり「<関係>それ自体」のことである。あの吉本理論で有名な<関係の絶対性>のことであり、宮台は吉本(理論)の特に『心的現象論序説』から影響されたことを認めている。

 統合失調症やうつ病をはじめとする心的現象の根源にある<不可避体験>という関係妄想は周囲の環界との整合性がある限りは常態(正常・健常?)の認識に過ぎない。<病的>や<異常>という定義の根拠は他者や環界との論理的整合の是非とその程度(水準)にしかないからだ。この論理的整合性が非整合に傾いていく過程は『異形の心的現象』『統合失調症―精神分裂病を解く』(森山公夫・ちくま新書)などに詳しい。

 ニューアカのポスモダ論議でさんざんドゥルーズガタリ周辺を引用しスキゾ(分裂症)だなんだといわれながら、こういった主張や指摘はなかった。
 たとえば欧米家族の範囲内しかも欧米理論の枠組でしかない『ミル・プラトー』よりも吉沢明歩の『ポリネシアン・セックス』の方が<いきっぱなし(ミル・プラトーとはこの状態を表現した言葉)>という快楽と抑制がまともな象徴界を形成し、まともな人格を育んでいくリアルワールドを知ることができるのは当然だろう。そこには文字通りの<する>と<される>の関係だけだはなく、<せき立て>をコントロールして<待機>する…という静かなしかし強力な去勢があるからだ。
 ベイトソンもドゥルーズ=ガタリもこの<待機>を躾けるポリネシアの慣習に興味をもちフォーカスしているのだ。ポテンシャルを育むということは去勢の中でも高度なものではないか? パフォーマティブな<割礼>ではなく、羊水のなかでの微睡みのような<育み>がそこにある。それはポリネシアンのルーツを持つ日本人には比較的に馴染みのあるものでもあるかもしれない。

 宮台が期待する利他的な存在というのは、確かにチェ・ゲバラのような人間だが、それはミル・プラトーとメタフォーされる<いきっぱなし>な状態を提供してくれたり保証してくれる存在でもあるだろう。革命のために待機し続けたゲバラの生きざまが人を魅了するのは当たり前かもしれない。

(2010/01/02,2010/11/05)
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