『共同幻想論』・他界論から考える
「他界論」は他の共同幻想論とは異質で、現実の共同利害を前提にしていない幻想をテーマにしています。つまり、現実と無関係の共同幻想についての論考です。共同幻想=公的関係がマルクスの上部構造を示すとおり、そこにはマテリアルな基礎となる(下部)構造((生産諸関係)関係性)があります。その現実的な関係性と直接には対応しない幻想として<他界>というものが考察されていきます。
<夢>を感覚が受容する環界からの刺激とは無関係な心的現象として定義したのが『心的現象論序説』のⅥ章「心的現象としての夢」 でした。その<夢>と<他界>との相同相異を考えると新たな発見があるかもしれません。
現象学的あるいはハイデガーのデコレートを瞬時に超え、居住の形態(家の在り方)、生産様式の変化から他界についての論が展開されます。共同幻想の消滅という課題?にリアリティを与える可能性の端緒を見出すことができます。
「他界論」は何のマテリアルな規範も介在しない(起点となるもの以外に何も前提がない)観念(そのもの)の冪乗化したものを論じるために、ある意味でとても根源的で自由な(ゆえに理解しにくい?)ものになっています。
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『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)
1 禁制論
2 憑人論
3 巫覡論
4 巫女論
5 他界論
6 祭儀論
7 母制論
8 対幻想論
9 罪責論
10 規範論
11 起源論
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【他界論】
P118
社会的な共同利害と
まったくつながっていない共同幻想はかんがえられるものだろうか?
…
こう問うことは、自己幻想や対幻想のなかに<侵入>してくる共同幻想は
どういう構造かと問うことと同義である。
「社会的な共同利害」とは下部構造的(経済的)な利害など現実的な利害のことです。それらとは関係のない共同幻想がココではフォーカスされます。巫女が代理となり象徴した共同体の利害ではなく、現実には根拠をもたない…という他界の共同幻想です。
<他界>の共同幻想は現実(の利害)とは無関係であるために、観念がはじめから冪乗化した再帰的なものだといえます。つまり{<現実と無関係>という関係}であるために起点からして既に一次的に冪乗化した観念が<他界>の共同幻想(公的関係)なのです。
「自己幻想や対幻想のなかに<侵入>してくる共同幻想」というのは視点を変えると、共同幻想が<侵入>する自己幻想や対幻想の領域…とはどんな領域なのか?ということです。(ここではレヴィ・ストロースの方法(論)のように数理的な問題が問われているともいえる。)
この領域についての直接の言及は『心的現象論序説』の最終章である「心像論」にあります。それは{対象に<投射>された自己妄想}です。個人の認識では、認識対象への志向性そのものが対象認識において不可避のものとして表出します。例えると、鏡を見たときにそこに写っている(鏡を見ている)自分の姿…ともいうべきもの。それは絶対に消し去ることができないために<不可避体験>の起点となっています。またそれが何であるか理解できないために何らかの空間性を代入して仮に措定されます。この仮措定は心的な世界と現実の世界を媒介する認識のフレームとして機能し、基本的に入れ子構造であるために安定しています。これが<共同観念の世界の代同物>( 『心的現象論序説』Ⅶ章「心像論」)であり、共同幻想(関係性)そのものとして個体の世界(観)を形成していきます。
P121
人間にとって<死>に特異さがあるとすれば、
生理的にはいつも個体の<死>としてしかあらわれないのに、
心的にはいつも関係についての幻想の<死>としてしかあらわれない
点にもとめられる。
マルクスの『経済哲学草稿』の“人間は個別的現存でしかないのに、なぜ(人)類が成り立つのか?”と同じテーマが<死>をモチーフにしてクローズアップされています。
“<死>は生理的には個体の<死>なのに、心的には関係の<死>である”であるというのは<個(人)>と<(人)類>を架橋する(連関を説明する)数少ない論理のひとつでしょう。
P125
ここで注意しなければならないのは、
自己幻想がじぶんにたいして<作為>された関係幻想として
あらわれる<死>では、<他界>は<時間>性としてしか存在しえないことである。
ここでは、現象学を引用しながらブレークスルーすることが多いスタイルを念頭におくと、現象に即するとしながら言語世界(観)でしかない現象学がその衒学ゆえに内破していることがこの文の背理として含意されています。それは「<他界>は<時間>性としてしか存在しえない」こと(を論じること)が現象学的な臨界点であると同時に、それが空間性に還元できないという限界点でもあることの証明です。個体の死を共同体のための死に包含しようとするような見解がひとつの病でしかないことの証明でもあるでしょう。
単なる個体の死を、関係性(共同性)から読みとるところには詩的なもの(文芸の原点)がありますが、それは個体の死が共同性に従属することを意味するものではありません。
誤謬は(ハイデガーのように)美文?であっても免罪はされません。最後の未完の大著『心的現象論本論』まで要処で現象学の遁走を指摘し続ける論考は思索者の自問自答としては必然。自愛ゆえに詩作へ遁走したハイデガーと、詩作から論考へダイブした吉本理論の決定的な差は何か?という問いがあるとすれば、その解に出会ったことはまだないとかしかいえないかもしれませんが、それこそは読者の課題であるでしょう。一見センチメンタルなキルケゴールが時制について鋭い考察をしているのと比べると現象学一般の限界はある意味で稚拙でさえあり、問題はその稚拙さが流通してしまう欧米のロジックであることは著者がフーコーと共有しえたコアな認識でもあるかもしれません。
P135
真に<他界>が消滅するためには、
共同幻想の呪力が、自己幻想と対幻想のなかで心的に追放されなければならない。
そして共同幻想が自己幻想と対幻想のなかで追放されることは、
共同幻想の<彼岸>に描かれる共同幻想が死滅することを意味している。
…共同幻想の<彼岸>に描かれる共同幻想が、
すべて消滅せねばならぬという課題は、
共同幻想自体が消滅しなければならぬという課題といっしょに、
現在でもなお、人間の存在にとってラジカルな本質的課題である。
自己幻想と対幻想のなかから共同幻想を追放する…という問題はムズカシく、しかも、解は簡単です。共同幻想を追放しよう…とし続けることです。
時間性の中にしか存在しえない共同幻想は、時間性においてでしか解決しません。それは共同幻想を解消しようとし続けることです。認識から行為への移行とその(常同)反復…。
論理的には、認識が再帰しながら把握し確定できない自らの認識(の志向性)そのもの、自己言及できない領域としての自己関係のエリアを自らの観念でありながら外部(対象)として措定するしかないところ…に共同幻想(公的関係)として仮構するしかないものがあります。これが共同幻想であり公的関係の構成体?そのものです。
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