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2010年11月 9日 (火)

『共同幻想論』・他界論から考える

 「他界論」は他の共同幻想論とは異質で、現実の共同利害を前提にしていない幻想をテーマにしています。つまり、現実と無関係の共同幻想についての論考です。共同幻想=公的関係がマルクスの上部構造を示すとおり、そこにはマテリアルな基礎となる(下部)構造((生産諸関係)関係性)があります。その現実的な関係性と直接には対応しない幻想として<他界>というものが考察されていきます。
 <夢>を感覚が受容する環界からの刺激とは無関係な心的現象として定義したのが『心的現象論序説』のⅥ章「心的現象としての夢」 でした。その<夢>と<他界>との相同相異を考えると新たな発見があるかもしれません。
 現象学的あるいはハイデガーのデコレートを瞬時に超え、居住の形態(家の在り方)、生産様式の変化から他界についての論が展開されます。共同幻想の消滅という課題?にリアリティを与える可能性の端緒を見出すことができます。

 「他界論」は何のマテリアルな規範も介在しない(起点となるもの以外に何も前提がない)観念(そのもの)の冪乗化したものを論じるために、ある意味でとても根源的で自由な(ゆえに理解しにくい?)ものになっています。

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『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【他界論】

P118
社会的な共同利害と
まったくつながっていない共同幻想はかんがえられるものだろうか?

こう問うことは、自己幻想や対幻想のなかに<侵入>してくる共同幻想は
どういう構造かと問うことと同義である。

 「社会的な共同利害」とは下部構造的(経済的)な利害など現実的な利害のことです。それらとは関係のない共同幻想がココではフォーカスされます。巫女が代理となり象徴した共同体の利害ではなく、現実には根拠をもたない…という他界の共同幻想です。

 <他界>の共同幻想は現実(の利害)とは無関係であるために、観念がはじめから冪乗化した再帰的なものだといえます。つまり{<現実と無関係>という関係}であるために起点からして既に一次的に冪乗化した観念が<他界>の共同幻想(公的関係)なのです。

 「自己幻想や対幻想のなかに<侵入>してくる共同幻想」というのは視点を変えると、共同幻想が<侵入>する自己幻想や対幻想の領域…とはどんな領域なのか?ということです。(ここではレヴィ・ストロースの方法(論)のように数理的な問題が問われているともいえる。)
 この領域についての直接の言及は『心的現象論序説』の最終章である「心像論」にあります。それは{対象に<投射>された自己妄想}です。個人の認識では、認識対象への志向性そのものが対象認識において不可避のものとして表出します。例えると、鏡を見たときにそこに写っている(鏡を見ている)自分の姿…ともいうべきもの。それは絶対に消し去ることができないために<不可避体験>の起点となっています。またそれが何であるか理解できないために何らかの空間性を代入して仮に措定されます。この仮措定は心的な世界と現実の世界を媒介する認識のフレームとして機能し、基本的に入れ子構造であるために安定しています。これが<共同観念の世界の代同物>( 『心的現象論序説』Ⅶ章「心像論」)であり、共同幻想(関係性)そのものとして個体の世界(観)を形成していきます。


P121
人間にとって<死>に特異さがあるとすれば、
生理的にはいつも個体の<死>としてしかあらわれないのに、
心的にはいつも関係についての幻想の<死>としてしかあらわれない
点にもとめられる。

 マルクスの『経済哲学草稿』の“人間は個別的現存でしかないのに、なぜ(人)類が成り立つのか?”と同じテーマが<死>をモチーフにしてクローズアップされています。

 “<死>は生理的には個体の<死>なのに、心的には関係の<死>である”であるというのは<個(人)>と<(人)類>を架橋する(連関を説明する)数少ない論理のひとつでしょう。


P125
ここで注意しなければならないのは、
自己幻想がじぶんにたいして<作為>された関係幻想として
あらわれる<死>では、<他界>は<時間>性としてしか存在しえないことである。

 ここでは、現象学を引用しながらブレークスルーすることが多いスタイルを念頭におくと、現象に即するとしながら言語世界(観)でしかない現象学がその衒学ゆえに内破していることがこの文の背理として含意されています。それは「<他界>は<時間>性としてしか存在しえない」こと(を論じること)が現象学的な臨界点であると同時に、それが空間性に還元できないという限界点でもあることの証明です。個体の死を共同体のための死に包含しようとするような見解がひとつの病でしかないことの証明でもあるでしょう。
 単なる個体の死を、関係性(共同性)から読みとるところには詩的なもの(文芸の原点)がありますが、それは個体の死が共同性に従属することを意味するものではありません。

 誤謬は(ハイデガーのように)美文?であっても免罪はされません。最後の未完の大著『心的現象論本論』まで要処で現象学の遁走を指摘し続ける論考は思索者の自問自答としては必然。自愛ゆえに詩作へ遁走したハイデガーと、詩作から論考へダイブした吉本理論の決定的な差は何か?という問いがあるとすれば、その解に出会ったことはまだないとかしかいえないかもしれませんが、それこそは読者の課題であるでしょう。一見センチメンタルなキルケゴールが時制について鋭い考察をしているのと比べると現象学一般の限界はある意味で稚拙でさえあり、問題はその稚拙さが流通してしまう欧米のロジックであることは著者がフーコーと共有しえたコアな認識でもあるかもしれません。


P135
真に<他界>が消滅するためには、
共同幻想の呪力が、自己幻想と対幻想のなかで心的に追放されなければならない。
そして共同幻想が自己幻想と対幻想のなかで追放されることは、
共同幻想の<彼岸>に描かれる共同幻想が死滅することを意味している。

…共同幻想の<彼岸>に描かれる共同幻想が、
すべて消滅せねばならぬという課題は、
共同幻想自体が消滅しなければならぬという課題といっしょに、
現在でもなお、人間の存在にとってラジカルな本質的課題である。

 自己幻想と対幻想のなかから共同幻想を追放する…という問題はムズカシく、しかも、解は簡単です。共同幻想を追放しよう…とし続けることです。
 時間性の中にしか存在しえない共同幻想は、時間性においてでしか解決しません。それは共同幻想を解消しようとし続けることです。認識から行為への移行とその(常同)反復…
 論理的には、認識が再帰しながら把握し確定できない自らの認識(の志向性)そのもの、自己言及できない領域としての自己関係のエリアを自らの観念でありながら外部(対象)として措定するしかないところ…に共同幻想(公的関係)として仮構するしかないものがあります。これが共同幻想であり公的関係の構成体?そのものです。

2010年11月 5日 (金)

『日本の難点』…作為の契機の不在とは?

『「正義」について論じます THINKING O 第8号』…<近接性>とは?

 丸山眞男や宮台真司さんが指摘する日本の根本的な難点が{<作為の契機>の不在}。(『日本の難点』以外では『日本経済復活 一番かんたんな方法』宮崎哲弥さんが{<作為の契機>の不在}について触れています。)<作為の契機>とそれに対する否定性の認識でもあるのが<不可避体験>。<作為体験>と<不可避体験>は<関係妄想>として心的現象の基本構造を形成しています。
 根源的な日本の難点であり特徴は『共同幻想論』で指摘されているように「共同観念に属するすべてのものに、大規模で複合された<観念の運河>を掘りすすめざるをえなかった」ところ。約束→掟→法と自己関係→親和的関係→公的関係と(規範からの)規制は遠隔していきますが、これらの全レベルの<関係(性)>そのものに刻印がなされてきたことが日本の特徴だということです。
 『日本の難点』ではハーバーマスルーマン問題がカップリングされ、だからこそ「あえて…」というスタンスが解として示されています。『日本の難点』そのものは現時点での知見に基づいたファンクショナルな解が用意されていて実効性が高いもの。
 ここでは丸山眞男や宮台真司さんが指摘し、吉本理論ではその根源をなしている<作為の契機>と<不可避体験>について(だけ)触れます。
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日本の難点 (幻冬舎新書)

著:宮台 真司
参考価格:¥840
価格:¥840

   


丸山(眞男)や宮台が指摘する日本の難点とは?

 数行で一つの知見が込められ次のセンテンスとの関連は行間が飛んでるように感じる。柄谷行人のような観念的な行間の飛び方ではなく内容のシフトがあり展開が速すぎるために分かりにくくなっている。宮台の私塾用のテキストがベースのようなので仕方無いかもしれないが、もっと読み安くしてほしかったとはいえる。講義ならば豊富な話題と知見、スピーディーな展開で毎回面白く聞いてられるハズだ。
 内容的には宮台理論の全容が抽象から政策まで、哲学からポリティカルな面まで知ることができるので宮台の研究家?や論破したい人は読破してみるといい。個人的には「はじめに」の10頁分だけでそのポテンシャルが確認できたのが幸いだった。ある意味宮台理論の可能性とそしてはじめて限界(も)が把握できた気がしたからだ。
 丸山眞男が提起した日本の根源的な問題が「はじめに」で示されているが、それは宮台個人の実存の問題(そして多くの日本人の問題)でもあり、吉本隆明だけが理論化してきた問題でもある。その点だけにフォーカスしてみた。

●「日本人が浸されている特別な事情」
 ここでは、日本人が浸されている特別な事情についてだけ述べておきましょう。
 丸山眞男が述べた「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」がヒントです。
(P9,10)

 宮台は本書のはじめに「日本人が浸されている特別な事情」を明らかにしている。それは丸山眞男が指摘したという「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」である。この指摘は宮台の認識の基礎となる重要なもので、『吉本隆明のDNA』で宮台が自ら語っている「不可避体験」と対?をなす認識(概念)なのだ。

 「作為の契機」とはカンタンにいえば<他人が(何か)した(する)コト>であり、他人を認識するときの前提でもある。誰でも、この他人の<したコト(するコト)>をとおして他人を認識している。逆にいえば、この<したコト(するコト)>以外をとおして他人を認識することは出来ない。(これは本来、関係のマテリアルであり、唯物論の論拠であるべきもので、マルクスでは生産諸関係等となる。広松哲学ならば他人の行為の物象化だ)

 <不可避体験>とは、この他人による<作為>への認識が亢進した状態を呼ぶ。自分が他人に何かされる(された)、他人が自分に何かする(した)という認識だ。そこには<ワザとやった>というニュアンスで他人の意志がでっち上げられている。他人の意志を無理やりにでも見出すところが病的であり、関係の本質の一端でもある。それが周囲との論理的な整合性がなくなった状態が精神病=関係妄想なのだ。ただし人間(生物)の特徴としてこの<関係の病>は捨象出来ない。正常な閾値の範囲内ではそれは<受動性>として発現する<愛>の受容態でもあるからだ。フロイトはこの受容態の歪みを精神分析の根源としたが、そこから遠隔化した様態と、そこに不可逆で不可換な位相があることを考察しなかった。これがフロイトの限界なのだ。

 宮台はフーコーがこれらの問題を先取りしていたことを示唆しているが、そのフーコーの限界も同じところにある。フーコーと吉本隆明の対談で、すでに自らの『言葉と物』などの方法論の限界を表明していたフーコーは吉本に対して次のように語っている。

  国家の成立に関しては、
  …
  どうにもわからない大きな愛というか
  意志みたいなものがあったとしか
  いいようがないのです。
(『世界認識の方法』P48)

 このフーコーの言葉は半分当たっていて半分外れている。「どうにもわからない」というのはそのとおりなのだ。ラカンはこのどうにもわからないものを象徴界と呼んだ。だが、それは「大きな愛」でもないし「意志みたいなもの」でもない。
 「国家」という共同幻想を成立せしめているのは、<愛>から遠隔化する構造そのものであって、<愛>や<意志>の変形ではないし、必ずしもそこから生成するものでもないからだ。ただそこには何でも代入できるために愛も変態もファシズムも可能になるだけだ。そしてそれに基づく関係性はDVから資本主義までさまざまだ、ということに過ぎない。(この認識に立った言説が『ハイ・イメージ論』

●<する><される>という関係
 ところで「作為の契機」や「不可避体験」で表出する(他人を認知するための具体的な条件である)<する><される>は主体と客体の関係の基礎であり、関係そのものだ。
 それは「主体と対象の<あいだ>」であり「<関係>それ自体」のことである。あの吉本理論で有名な<関係の絶対性>のことであり、宮台は吉本(理論)の特に『心的現象論序説』から影響されたことを認めている。

 統合失調症やうつ病をはじめとする心的現象の根源にある<不可避体験>という関係妄想は周囲の環界との整合性がある限りは常態(正常・健常?)の認識に過ぎない。<病的>や<異常>という定義の根拠は他者や環界との論理的整合の是非とその程度(水準)にしかないからだ。この論理的整合性が非整合に傾いていく過程は『異形の心的現象』『統合失調症―精神分裂病を解く』(森山公夫・ちくま新書)などに詳しい。

 ニューアカのポスモダ論議でさんざんドゥルーズガタリ周辺を引用しスキゾ(分裂症)だなんだといわれながら、こういった主張や指摘はなかった。
 たとえば欧米家族の範囲内しかも欧米理論の枠組でしかない『ミル・プラトー』よりも吉沢明歩の『ポリネシアン・セックス』の方が<いきっぱなし(ミル・プラトーとはこの状態を表現した言葉)>という快楽と抑制がまともな象徴界を形成し、まともな人格を育んでいくリアルワールドを知ることができるのは当然だろう。そこには文字通りの<する>と<される>の関係だけだはなく、<せき立て>をコントロールして<待機>する…という静かなしかし強力な去勢があるからだ。
 ベイトソンもドゥルーズ=ガタリもこの<待機>を躾けるポリネシアの慣習に興味をもちフォーカスしているのだ。ポテンシャルを育むということは去勢の中でも高度なものではないか? パフォーマティブな<割礼>ではなく、羊水のなかでの微睡みのような<育み>がそこにある。それはポリネシアンのルーツを持つ日本人には比較的に馴染みのあるものでもあるかもしれない。

 宮台が期待する利他的な存在というのは、確かにチェ・ゲバラのような人間だが、それはミル・プラトーとメタフォーされる<いきっぱなし>な状態を提供してくれたり保証してくれる存在でもあるだろう。革命のために待機し続けたゲバラの生きざまが人を魅了するのは当たり前かもしれない。

(2010/01/02,2010/11/05)
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