『共同幻想論』・巫女論から考える
「巫女論」では対幻想で根本的な問題になる女<性>の定義をフロイトを援用しつつ共同幻想論としての再定義がされます。
巫女がうまれる必須条件が「地上的にいえば村落共同体の共同利害」と巫女にとっての「<家>の利害」とされ、この2つの矛盾から逆立し遠隔化していく起点としての巫女が解明されていきます。シャーマンと巫女の比較検討など(先入観なしに読めば)実は読みやすいという面もあり、新たな共同幻想論の魅力かもしれません。神社に居つく巫女と流浪し村落に落ち着く口寄せ巫女の違いなどからは、あのノマドやジプシーの由来や意味まで考えることができるかもしれないような論考です。
巫女論から推論すると静御前のような白拍子は従軍慰安婦というよりも源氏や平家といった一門の公的オーダーをまっとうするための巫女的な役割があったのではないかと考えられるかもしれません。時代や文化にかかわらず共同体が与える個人の現存の価値と意味を共同幻想・公的オーダーの解明は示していきます。
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『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)
1 禁制論
2 憑人論
3 巫覡論
4 巫女論
5 他界論
6 祭儀論
7 母制論
8 対幻想論
9 罪責論
10 規範論
11 起源論
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【巫女論】
P102
フロイト…かれによれば<女性>というのは、
乳幼児期の最初の<性>的な拘束が<同性>
(母親)であったものをさしている。
P103
最初の<性>的な拘束が同性であった心性が、
その拘束から逃れようとするとき、
ゆきつくのは異性としての男性か、
男性でも女性でもない架空の対象だ…
フロイトの透徹した認識を援用しながら、共同幻想論ではその原拘束=原抑圧からの逃走の行き先として「男性でも女性でもない架空の対象」である<共同幻想>が示唆されます。ラカンであれば(シェーマLの)背理としてフーコーならば(愛の)倒錯としてしか解読者の思考にのぼらないであろうターゲットが、ここでは普通に言語において示唆されています。
P103
わたしなりに<女性>を定義すれば…
あらゆる排除をほどこしたあとで
<性>的対象を自己幻想にえらぶか、
共同幻想にえらぶものをさして<女性>の本質とよぶ…
ここには既に20数年後の『ハイ・イメージ論』などでサンプリングされるファッションや化粧の根源的な理由が示されています。あるいは恋愛=対幻想の公的オーダー(共同幻想)化である結婚や婚姻届ということ、ラカンがTVで述べた“すべての女性は〇〇である”の根拠であるかもしれない「あらゆる排除」など、経年変化に左右されない原理が示されています。
「自己幻想にえらぶ」か「共同幻想にえらぶ」かについて以下のように述べられています。これは自己同一(自己抽象)性であるか自己関係(自己対象)性であるかということであり、言語の表出では「私は」「私が」(私の)の差異の根拠となったりします。
そしてこの矛盾する2つの意識、<自己幻想>と<共同幻想>あるいは自己同一(自己抽象)性と自己関係(自己対象)性を同致する根源が現存性の意識だと『心的現象論序説』によって説明できそうです。
P103
このふたつは、女性にとってじぶんの<生誕>そのものをえらぶか
<生誕>の根拠としての母なるじぶん(母胎)をえらぶことにほかならない…
(『心的現象論序説』P184)
<わたしはわたしである>という自己同一性…
<わたしにとってのわたし>という自己対象性…。
…この矛盾を同致しうる根源があるとすれば、
人間が自然体であるにもかかわらず
<わたし(の身体)がここに在る>という現存性の意識を
もちうる点にもとめるほかはないのである。
P117
地上的にいえば村落共同体の共同利害と
<家>の利害の関係だけが巫女にとって現世的な矛盾にすぎない…
「村落共同体の共同利害」と「<家>の利害の関係」。2つの利害の矛盾が巫女が生成成立する要件ですが、前者がマルクスの経済認識(上下の構造論)であり後者が“関係の絶対性”を体現する個別的現存としての個人の(対幻想の)問題です。
観念の運動を観念の弁証法で解いていく吉本理論が、ある意味で驚くほどマルクスとフロイトに依るところは、逆にマルクスやフロイトに還元できない成果がそこにあることの証明なのかもしれません。
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