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2010年10月 4日 (月)

『共同幻想論』・禁制論から考える

 『共同幻想論』の最初の章は「禁制論」です。共同幻想の起源である禁制と、その禁制の起源そのものが解説されていきます。
 <共同幻想>の起源については『心的現象論序説』の最終章である「心像論」で〝共同幻想(の代同物)がナゼ・ドコに生成するか?〟が言及されています。
 ここでは共同幻想が生成する契機として個体の心性としては<入眠状態>にあり、そして<貧弱な共同社会>(にいること)の2つを前提としています。ダイレクトに心的現象(論)と共同幻想(論)がリンクし相互に必然であることが示されています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【禁制論】

P48
…個人がいだいている禁制の起源がじつは、
じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識からやってくるのだ。

 「じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識」というのは対象化できない意識のこと。意識が言語(を枠組みとする志向と展開)ならば自己言及不可能な領域、思考の対象とできないものであることであり、ラカン理論でいう象徴界とオーバーラップするでしょう。
 対象化できない意識は{対象化した<対象化できない意識>}として対象化されます。この観念の無限の冪乗化が人間の特徴であり、この無限性こそ共同幻想が無限の代同物によって無限に生成しつづける根拠です。<>にあらゆるものを代入し入れ子構造として均衡=安定しながら通時的に展開していくのが歴史であり、ある時期の共同幻想の構造こそがその文化や国家の属性を示しています。


P273(解題(原文は『共同幻想論』「序」からの引用文))
共同幻想のうち
男性または女性としての人間がうみだす幻想を
ここでは対幻想とよぶことにした。

 <共同幻想>を心的現象を起点に定義すると、対幻想から遠隔化した観念が共同幻想になります。しかし共同幻想を起点に定義すると<対幻想>は共同幻想に包含されて以上のように説明されます。この視点の獲得がまず共同幻想論の前提でありスタートだと考えられます。
 <対幻想>の措定こそが具体的な共同性の契機としての<禁制>の前提となります。それは対幻想の最初の禁制である近親婚の禁止です。人類(性)の基礎であった対幻想はこの禁制を組み込むことで共同(性)化し、共同幻想が生成します。
 対象化できない意識のエリア(自己言及できない領域)に代入される共同幻想は「当人の意志によって左右されることはない」(『心的現象論序説』)度合いによって強固だと考えられます。これが“神”や“国家”の強度であり同時に幻想性の強度であり、幻覚や病気の強度そのものです。


P64
共同的な幻想もまた入眠とおなじように、
現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、
たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。
そしてこの状態のほんとうの生み手は、
貧弱な共同社会そのものである。

 共同幻想あるいは禁制についてそれを産出するのは「貧弱な共同社会そのものである」と断定されています。これは共同幻想が対象化できない意識(の領域)に依拠するためです。逆説的に、個人の観念を左右し影響するような強固な共同性(物質でも観念でも)をもった社会では<対象化できない意識>の対象化さえ困難で(共同)幻想はもちにくくなります。個人(の価値観=観念)を拘束しない自由な社会では自殺率が上がり個人の生命まで支配する戦争時では自殺者が減るのも同じ理由です。


P47 
…この状態にたえず是正をせまるものがあるとすれば、
かれの身体組織としての生理的な自然そのものである。

 いかなる共同幻想も個人の心的現象として生成するものです。そのためにそれは絶えず個人の身体性に影響を受けています。たとえばどんな立派な正義感や倫理観をもっていても身体の生理的な自然過程そのものである睡眠時は正義や倫理を行使できません。法律が大前提として本人の意志があるかどうかを問うのも同じ理由からです。「本人の意志」以外は生理的な自然過程であったり自然=環界そのもの(でしかない)だからです。
 共同体は構成員である個人の共同幻想をコントロールしようとしますが、それは個人をマークすることから始まります。それが名をつけることであり、タトーを身体に刻むことです。

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