『共同幻想論』・巫覡論から考える
「巫覡論」では芥川龍之介の『歯車』のDoppelgaengerや『遠野物語拾遺』の<いづな使い>(狐を使う者)をサンプルにそれぞれが象徴するものが解析されます。これらの共同幻想の象徴や契機であるもののその意味と理由が明かされ、さらには<対幻想>との関係が示されます。
自己(個人)幻想(自己関係)から共同幻想(公的関係)までが、基本的な他者認識の構造とともに明かされ、<対幻想>と<共同幻想>の未分化な原始心性がレギ・ブリュルなども参照しながら解説されます。<対幻想>と<共同幻想>の緊張をはらんだ関係=逆立の前景が示されるわけです。
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『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)
1 禁制論
2 憑人論
3 巫覡論
4 巫女論
5 他界論
6 祭儀論
7 母制論
8 対幻想論
9 罪責論
10 規範論
11 起源論
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【巫覡論】
P85
…個人と個人との心の相互規定性では、
一方の個人がじぶんにとってじぶんを<他者>におしやることで、
他方の個人と関係づけられる点に本質がある…
…
一般にわたしたちが個人として、
他の個人を<知っている>というとき、
わたしたちはまず自身を<他者>とすることで、
はじめて他の個人に<知られる>という水準を獲取する。
「個人と個人との心の相互規定性」そのものが幻想であるとともに、これこそが対幻想の基底であり原理であることが示されます。『心的現象論序説』においてフロイトを援用しながら自己認知さえ対幻想であることが説明されていますが、ここではそれがどのように他者認知へと遠隔化するかが説明されています。
「他の個人に<知られる>という水準」というのは大変重要なもので、共同というものの根拠、指示表出のレベル、歴史的階程を決定していくものといえます。その環界が本源的蓄積だと考えられます。(本源的蓄積に対するのが『共通感覚論』に引用されているマルクスの言葉が示すように感覚で、感覚の変容は病気や異常の表象であり発現になります。)
(『心的現象論序説』P30)
自己観察よって確かめられる部分でさえも、
自己が自己に対置されるという幻想的な一対一の分化が、
観察の前提をなしている。
P85
一方の個人が他方の個人にとってよそよそしい<他者>ではなく、
勝手に消し去ることができない綜合的存在としてあらわれる心の相互規定性は、
一対の男女の<性>的関係にあらわれる対幻想においてだけである。
マルクスが<(人)類>の契機を見出そうとする現存在としての一対の男女の関係が、ここではあくまで共同幻想(公的関係・公的オーダー)に内包される対幻想(親和的関係・親和的オーダー)として把握されます。
一方で(心的現象論的に)自己関係(自己幻想)が「自己が自己に対置される」という親和的関係(対幻想)だと説明しながら、他方で(共同幻想論的には)「勝手に消し去ることができない綜合的存在」があらわれるのは「男女の<性>的関係にあらわれる対幻想」(親和的関係)だけだと措定されます。
ここには2つの対幻想が示されています。他者認知の前提となる自己認知そのものとしての対幻想と、消し去ることのできない相互規定性としての対幻想です。(自己認知を媒介とした他者認知に権力の生成を見出した=「了解を媒介にした作動形式」として『権力の予期理論』(宮台真司)があります。)
前者は対他認識の前提として、後者は性関係としての対幻想=親和的関係・親和的オーダーです。これはさらに以下のように直截に説明されます。
P97
…女は対幻想の象徴であるとともに
共同幻想の象徴でもあるが、
同時に両方であることはできない。
P99
…対幻想は消滅することによってしか共同幻想に転化しない。
対幻想と共同幻想が相互に依存しつつ排他的な関係にあることが示されています。この関係はよく“わからない”といわれる<逆立>という概念であり、遠隔対称性も含意したシーソーのような関係性です。(<逆立>はヘーゲル・マルクス関係の哲学用語の基本である(弁証法的)「転倒」「倒立」「転回」などから着想した言葉だと考えられ、意味もほぼ同じでそもそも吉本オリジナルのタームではないかもしれません。)
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