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2010年10月28日 (木)

『共同幻想論』・巫女論から2

 対幻想(親和的関係)と共同幻想(公的関係)が排他的にバランスしながら、シーソーのように緊張と均衡を生きていくのが、巫女です。

 原拘束=原抑圧からの逃走の行き先として「男性でも女性でもない架空の対象」である<共同幻想>を択ぶとき、共同幻想の歴史的階程とTPOに応じて<巫女>の<形態>は変化していると考えられます。

 現代資本主義の「共同幻想の普遍性へと雲散していった」巫女の行き先を、ハイイメージ論は追いかけていきます。

     ハイ・イメージ論のモチーフは、いちばんわかりやすくいえば、
     『共同幻想論』の「現在」版を展開することだといっていい。

                          (『ハイ・イメージ論Ⅲ』あとがき)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【巫女論】

P117
地上的にいえば村落共同体の共同利害と
<家>の利害の関係だけが巫女にとって現世的な矛盾にすぎない…

…巫女が神社に寄生するか、諸国を流浪して、
村落共同体の片隅に口寄せ巫女となって生きるかの
二者択一以外の道をたどれないのは…
共同幻想を、架空の<家>をいとなむ<異性>として択ぶべき
本質をもっているからである。
巫女にとって<性>的な対幻想の基盤である<家>は、
神社にいつこうが諸国を流浪しようが、
つねに共同幻想の象徴と営む<幻想>の<家>であった。

巫女はこのばあい
現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、
共同幻想の普遍性へと雲散していったのである。


 帰るべき家をもたない者の象徴として街や路地へ消えていった巫女はどこへ…。

 共同幻想論の現在版であるハイイメージ論とその延長の仕事とはそれらを探究すること。ハイイメージ論では反転、瞬間、反復、遅延といったポイントがありますが、「共同幻想の普遍性」へ拡散していく巫女のポイントは<再生>です。いつ、どこに、どのように再生していくのか…

 ペニスをもったファリックガールズか、広いネットとディラックの海に消えた草薙素子か、人工子宮である培養タンクに浮かぶいく体もの綾波レイか…。綾波レイではなくても、増殖し続けるAKB48は昨日宇多田ヒカル以来のミリオンセラーを記録しています…。
 巫女はアキバにも再生するしネットにもいるだろうということは、誰もが知っていること。アキバタームの「DD」のように対幻想を無限に拡散させていくことも、あるいは{<性>的対象を共同幻想にえらぶ<女性>の本質}と近似するかのようなこの言葉そのものも、いまや奇異ではありません。

 前期ウィトゲンシュタインの成果『論理哲学論考』有名な言葉である「語りえぬことについては沈黙せねばならない」は、対になる「語られうることは明晰に語られうる」とともに文意を形成します。そこには語れなくても指し示すことはできる…という言語に裁量を依存しすぎた(言語の純粋概念だけで現実に対応?できると考えるデリダのような)思想には到達できないものがあります。
 この多くの人が誤解する(未読ゆえでなくとも誤解するところが根本的な問題)らしい言葉に読まれるべきものを読み取った女の子がいました。(*1)

「語らなくていいことは沈黙してても誰かがそれを見ていて覚えていてくれるから、それでいいんだよ」

 この彼女の解釈には共同性の端緒が読み込まれています。それは言葉の地上への見事なアンカーです。

 自らが語らなくなっても誰かが見ていてくれる覚えていてくれる…という言葉は<誰か=他者>への肯定が前提であり、<作為の契機>=<他人が(何か)した(する)コト>への期待や信頼があります。ここに現代の巫女がいると云っても過言ではないでしょう。(*2宮台真司さんが『日本の難点』丸山眞男の指摘として紹介している日本人のラジカルな問題が「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」 です。)

 あるいは自らの語れない、自らが語らないという欠落を誰かがフォローしてくれる…という文学的?な認識もできます。それは『悲劇の解読』『メランコリーの水脈』で吉本隆明さんや三浦雅士さんが読んできた世界認識の基本にあるものようなものです。

 <欠落を他者が埋める>という共同性には強度があります。

 では逆の場合はどうなるのか? 豊穣があるとき他者はどうするのか?
 ここでも巫女が必要とされます。豊穣と豊穣でないものの関係はその不均衡=緊張ゆえに当事者がそのままでは思念することが困難。このとき巫女は擬似的に緊張関係の外からモノゴトを判断し指し示します。
 そして擬似的に<外>であるために実在の家があってはならない巫女は、その分だけ自由に{架空の<家>}を持ちます。それは観念の中であり、流浪の途上です。やがて社という日常の外である空間、あるいは芸能や文化という日常の外の時間に巫女は落ち着きます。
 拡散した現在資本主義下では、<社>も<口寄せ>という芸能、そして文化も、ありとあらゆる形態をとりつつ無限に拡散しています。ハイイメージ論のターゲットは無限なのでしょう。

       -       -       -

*1「語らなくていいことは沈黙してても誰かがそれを見ていて覚えていてくれるから、それでいいんだよ」by「文学していたゆっきー」

*2<作為の契機>への否定性の認識は<不可避体験>。これは自分が他人に何かされる(された)、他人が自分に何かする(した)という認識です。そこには<ワザとやった>というニュアンスで他者の意志がでっち上げられています。<対幻想>から<他者>や<共同幻想>が生成するメカニズムがここにあります。<作為体験>や<不可避体験>というのは<関係の絶対性>の根拠となるもので、共同幻想のファクターそのものです。宮台さんは『吉本隆明のDNA』『心的現象論序説』から影響を受けたと「不可避体験」について語っています。

2010年10月18日 (月)

『共同幻想論』・巫女論から考える

 「巫女論」では対幻想で根本的な問題になる女<性>の定義をフロイトを援用しつつ共同幻想論としての再定義がされます。

 巫女がうまれる必須条件が「地上的にいえば村落共同体の共同利害」と巫女にとっての「<家>の利害」とされ、この2つの矛盾から逆立し遠隔化していく起点としての巫女が解明されていきます。シャーマンと巫女の比較検討など(先入観なしに読めば)実は読みやすいという面もあり、新たな共同幻想論の魅力かもしれません。神社に居つく巫女と流浪し村落に落ち着く口寄せ巫女の違いなどからは、あのノマドやジプシーの由来や意味まで考えることができるかもしれないような論考です。
 巫女論から推論すると静御前のような白拍子は従軍慰安婦というよりも源氏や平家といった一門の公的オーダーをまっとうするための巫女的な役割があったのではないかと考えられるかもしれません。時代や文化にかかわらず共同体が与える個人の現存の価値と意味を共同幻想・公的オーダーの解明は示していきます。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【巫女論】

P102
フロイト…かれによれば<女性>というのは、
乳幼児期の最初の<性>的な拘束が<同性>
(母親)であったものをさしている。

P103
最初の<性>的な拘束が同性であった心性が、
その拘束から逃れようとするとき、
ゆきつくのは異性としての男性か、
男性でも女性でもない架空の対象だ…

 フロイトの透徹した認識を援用しながら、共同幻想論ではその原拘束=原抑圧からの逃走の行き先として「男性でも女性でもない架空の対象」である<共同幻想>が示唆されます。ラカンであれば(シェーマLの)背理としてフーコーならば(愛の)倒錯としてしか解読者の思考にのぼらないであろうターゲットが、ここでは普通に言語において示唆されています。

P103
わたしなりに<女性>を定義すれば…
あらゆる排除をほどこしたあとで
<性>的対象を自己幻想にえらぶか、
共同幻想にえらぶものをさして<女性>の本質とよぶ…

 ここには既に20数年後の『ハイ・イメージ論』などでサンプリングされるファッションや化粧の根源的な理由が示されています。あるいは恋愛=対幻想の公的オーダー(共同幻想)化である結婚や婚姻届ということ、ラカンがTVで述べた“すべての女性は〇〇である”の根拠であるかもしれない「あらゆる排除」など、経年変化に左右されない原理が示されています。

 「自己幻想にえらぶ」か「共同幻想にえらぶ」かについて以下のように述べられています。これは自己同一(自己抽象)性であるか自己関係(自己対象)性であるかということであり、言語の表出では「私は」「私が」(私の)の差異の根拠となったりします。
 そしてこの矛盾する2つの意識、<自己幻想>と<共同幻想>あるいは自己同一(自己抽象)性と自己関係(自己対象)性を同致する根源が現存性の意識だと『心的現象論序説』によって説明できそうです。

P103
このふたつは、女性にとってじぶんの<生誕>そのものをえらぶか
<生誕>の根拠としての母なるじぶん(母胎)をえらぶことにほかならない…

(『心的現象論序説』P184)
<わたしはわたしである>という自己同一性…
<わたしにとってのわたし>という自己対象性…。
…この矛盾を同致しうる根源があるとすれば、
人間が自然体であるにもかかわらず
<わたし(の身体)がここに在る>という現存性の意識を
もちうる点にもとめるほかはないのである。


P117
地上的にいえば村落共同体の共同利害と
<家>の利害の関係だけが巫女にとって現世的な矛盾にすぎない…

 「村落共同体の共同利害」と「<家>の利害の関係」。2つの利害の矛盾が巫女が生成成立する要件ですが、前者がマルクスの経済認識(上下の構造論)であり後者が“関係の絶対性”を体現する個別的現存としての個人の(対幻想の)問題です。
 観念の運動を観念の弁証法で解いていく吉本理論が、ある意味で驚くほどマルクスとフロイトに依るところは、逆にマルクスやフロイトに還元できない成果がそこにあることの証明なのかもしれません。

2010年10月16日 (土)

『共同幻想論』・巫覡論から考える

 「巫覡論」では芥川龍之介の『歯車』のDoppelgaengerや『遠野物語拾遺』の<いづな使い>(狐を使う者)をサンプルにそれぞれが象徴するものが解析されます。これらの共同幻想の象徴や契機であるもののその意味と理由が明かされ、さらには<対幻想>との関係が示されます。
 自己(個人)幻想(自己関係)から共同幻想(公的関係)までが、基本的な他者認識の構造とともに明かされ、<対幻想>と<共同幻想>の未分化な原始心性レギ・ブリュルなども参照しながら解説されます。<対幻想>と<共同幻想>の緊張をはらんだ関係=逆立の前景が示されるわけです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【巫覡論】

P85
…個人と個人との心の相互規定性では、
一方の個人がじぶんにとってじぶんを<他者>におしやることで、
他方の個人と関係づけられる点に本質がある…

一般にわたしたちが個人として、
他の個人を<知っている>というとき、
わたしたちはまず自身を<他者>とすることで、
はじめて他の個人に<知られる>という水準を獲取する。

 「個人と個人との心の相互規定性」そのものが幻想であるとともに、これこそが対幻想の基底であり原理であることが示されます。『心的現象論序説』においてフロイトを援用しながら自己認知さえ対幻想であることが説明されていますが、ここではそれがどのように他者認知へと遠隔化するかが説明されています。
 「他の個人に<知られる>という水準」というのは大変重要なもので、共同というものの根拠、指示表出のレベル、歴史的階程を決定していくものといえます。その環界が本源的蓄積だと考えられます。(本源的蓄積に対するのが『共通感覚論』に引用されているマルクスの言葉が示すように感覚で、感覚の変容は病気や異常の表象であり発現になります。)

(『心的現象論序説』P30)
自己観察よって確かめられる部分でさえも、
自己が自己に対置されるという幻想的な一対一の分化が、
観察の前提をなしている。


P85
一方の個人が他方の個人にとってよそよそしい<他者>ではなく、
勝手に消し去ることができない綜合的存在としてあらわれる心の相互規定性は、
一対の男女の<性>的関係にあらわれる対幻想においてだけである。

 マルクスが<(人)類>の契機を見出そうとする現存在としての一対の男女の関係が、ここではあくまで共同幻想(公的関係・公的オーダー)に内包される対幻想(親和的関係・親和的オーダー)として把握されます。

 一方で(心的現象論的に)自己関係(自己幻想)が「自己が自己に対置される」という親和的関係(対幻想)だと説明しながら、他方で(共同幻想論的には)「勝手に消し去ることができない綜合的存在」があらわれるのは「男女の<性>的関係にあらわれる対幻想」(親和的関係)だけだと措定されます。
 ここには2つの対幻想が示されています。他者認知の前提となる自己認知そのものとしての対幻想と、消し去ることのできない相互規定性としての対幻想です。(自己認知を媒介とした他者認知に権力の生成を見出した=「了解を媒介にした作動形式」として『権力の予期理論』宮台真司)があります。)
 前者は対他認識の前提として、後者は性関係としての対幻想=親和的関係・親和的オーダーです。これはさらに以下のように直截に説明されます。

P97
…女は対幻想の象徴であるとともに
共同幻想の象徴でもあるが、
同時に両方であることはできない。

P99
…対幻想は消滅することによってしか共同幻想に転化しない。

 対幻想と共同幻想が相互に依存しつつ排他的な関係にあることが示されています。この関係はよく“わからない”といわれる<逆立>という概念であり、遠隔対称性も含意したシーソーのような関係性です。(<逆立>はヘーゲル・マルクス関係の哲学用語の基本である(弁証法的)「転倒」「倒立」「転回」などから着想した言葉だと考えられ、意味もほぼ同じでそもそも吉本オリジナルのタームではないかもしれません。)

2010年10月13日 (水)

『共同幻想論』・憑人論から考える

 「憑人論」は『遠野物語』の語り手である佐々木鏡石と共鳴した柳田国男の心性を解きつつ展開されます。デジャブをはじめとした共同幻想の要件となる心性そのものが柳田の心性でもあり、その始原的な心性は太古から現代まで上部構造の基底として世界を成立せしめる観念の運動そのものであることが解かれていきます。

 <共同幻想>をみるもの、語るもの、伝えるものの関係が解かれ、それがそのまま上部構造のメインとなる属性であることが示されます。幻想をみて語り伝えるものは個別的現存たる個人そのもの。その憑人としての人間を柳田にも自身にも読者(大衆)にも見出していくという文芸も理論も超えた探究譚ともいうべき一文です。マルクスの射程とフロイトの執拗と大衆の常識を凌駕する驚異的な何かがここにあります。ある意味『経済学・哲学草稿』が提起したものの解題がここにあるともいえるものです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

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【憑人論】

P68
…挿話から共通の構造的な志向をとりだすとすれば、
柳田の入眠幻覚がいつも母体的なところ、
始原的心性に還るということである。
そこにみられる恐怖も
いわば母親から離れる恐怖と寂しさというものに媒介されている。

 『遠野物語』の解析にあたって柳田の心性そのものにフォーカスして、そこから共同幻想(論)へと自在な演繹と帰納が繰返されていきます。このスタイルは未完で終わる『心的現象論本論』まで透徹しており、心的現象上のさまざまな症状を呈している患者から親族の構造を大著に記すレヴィ・ストロースや繰り返し引用されるヘーゲルなど、あらゆる論者=表現者が同じスタンスで取り扱われていきます。
 <入眠幻覚>と<始原的心性>といった概念を駆使した論考は『心的現象論序説』のⅥ章「心的現象としての夢」や『異形の心的現象―統合失調症と文学の表現世界』などにもあり『共同幻想論』の理解に役立ちます。覚醒と睡眠の中間にある入眠幻想や夢幻様状態の心性こそがあらゆる心的現象の基点でもあり、その動態としての解明が吉本理論の根幹でもあるといえそうです。観念の運動の解剖です。


P69
わたしのかんがえでは、
<始原的なもの>へむかう志向と
<他なるもの>へむかう志向と
<自同的なるもの>へむかう志向とのあいだの
入眠幻覚の位相のうつりかわりは、
共同幻想が個体の幻想へと凝集し独立していく転移の契機を象徴している。

 『共同幻想論』の3年後に刊行される『心的現象論序説』を先取りしかつ包括したようなこの数行に、幻想の3つの位相とその由来?が示されています。
 対象化できない意識が{対象化した<対象化できない意識>}として対象化されていくのが共同幻想の生成ですが、その過程で3つの位相に分化?していく過程そのものが説明されています。

 3つの志向によって共同幻想(公的関係・公的オーダー)、対幻想(親和的関係・親和的オーダー)、自己幻想(自己関係・自己オーダー)にそれぞれ分化していく個体認識の対象化できない意識の領域。

 『心的現象論序説』ではフロイトからの援用でもある時間的な2つの志向、言語で表象できる空間的な2つの志向が説明されていますが、『共同幻想論』ではそれらとは違った以上のような3つの志向による分化が解説されていきます。

   フロイトからの援用でもある時間的な2つの志向

       ……… 「主体を確立しようとするコト」と「エスへ戻ろうとするコト」

   言語で表象できる空間的な2つの志向

       ……… <自己表出>と<指示表出>


 ここで示されるのは幻想領域の立体的な描画を、その原点まで遡行しつつ3通りの理論を打ち立てたともいえるスケールと深さです。


 『共同幻想論』におけるキータームは<共同幻想>と<対幻想>ですが、3年後に刊行される『心的現象論序説』に登場するのは<幻想的共同性>であり<幻想対>でした。他に<共同観念><共同社会>などです。この異なるタームをいい加減な造語ととるか、同一の対象に別の視点からアプローチするときの概念構成の差異ととるか、基本的なスタンスや思索や思考能力そのものの差が表象してくると思われます。

2010年10月 4日 (月)

『共同幻想論』・禁制論から考える

 『共同幻想論』の最初の章は「禁制論」です。共同幻想の起源である禁制と、その禁制の起源そのものが解説されていきます。
 <共同幻想>の起源については『心的現象論序説』の最終章である「心像論」で〝共同幻想(の代同物)がナゼ・ドコに生成するか?〟が言及されています。
 ここでは共同幻想が生成する契機として個体の心性としては<入眠状態>にあり、そして<貧弱な共同社会>(にいること)の2つを前提としています。ダイレクトに心的現象(論)と共同幻想(論)がリンクし相互に必然であることが示されています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『共同幻想論』(1968年に刊行)(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 1    禁制論
 2    憑人論
 3    巫覡論
 4    巫女論
 5    他界論
 6    祭儀論
 7    母制論
 8    対幻想論
 9    罪責論
 10   規範論
 11   起源論

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【禁制論】

P48
…個人がいだいている禁制の起源がじつは、
じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識からやってくるのだ。

 「じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識」というのは対象化できない意識のこと。意識が言語(を枠組みとする志向と展開)ならば自己言及不可能な領域、思考の対象とできないものであることであり、ラカン理論でいう象徴界とオーバーラップするでしょう。
 対象化できない意識は{対象化した<対象化できない意識>}として対象化されます。この観念の無限の冪乗化が人間の特徴であり、この無限性こそ共同幻想が無限の代同物によって無限に生成しつづける根拠です。<>にあらゆるものを代入し入れ子構造として均衡=安定しながら通時的に展開していくのが歴史であり、ある時期の共同幻想の構造こそがその文化や国家の属性を示しています。


P273(解題(原文は『共同幻想論』「序」からの引用文))
共同幻想のうち
男性または女性としての人間がうみだす幻想を
ここでは対幻想とよぶことにした。

 <共同幻想>を心的現象を起点に定義すると、対幻想から遠隔化した観念が共同幻想になります。しかし共同幻想を起点に定義すると<対幻想>は共同幻想に包含されて以上のように説明されます。この視点の獲得がまず共同幻想論の前提でありスタートだと考えられます。
 <対幻想>の措定こそが具体的な共同性の契機としての<禁制>の前提となります。それは対幻想の最初の禁制である近親婚の禁止です。人類(性)の基礎であった対幻想はこの禁制を組み込むことで共同(性)化し、共同幻想が生成します。
 対象化できない意識のエリア(自己言及できない領域)に代入される共同幻想は「当人の意志によって左右されることはない」(『心的現象論序説』)度合いによって強固だと考えられます。これが“神”や“国家”の強度であり同時に幻想性の強度であり、幻覚や病気の強度そのものです。


P64
共同的な幻想もまた入眠とおなじように、
現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、
たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。
そしてこの状態のほんとうの生み手は、
貧弱な共同社会そのものである。

 共同幻想あるいは禁制についてそれを産出するのは「貧弱な共同社会そのものである」と断定されています。これは共同幻想が対象化できない意識(の領域)に依拠するためです。逆説的に、個人の観念を左右し影響するような強固な共同性(物質でも観念でも)をもった社会では<対象化できない意識>の対象化さえ困難で(共同)幻想はもちにくくなります。個人(の価値観=観念)を拘束しない自由な社会では自殺率が上がり個人の生命まで支配する戦争時では自殺者が減るのも同じ理由です。


P47 
…この状態にたえず是正をせまるものがあるとすれば、
かれの身体組織としての生理的な自然そのものである。

 いかなる共同幻想も個人の心的現象として生成するものです。そのためにそれは絶えず個人の身体性に影響を受けています。たとえばどんな立派な正義感や倫理観をもっていても身体の生理的な自然過程そのものである睡眠時は正義や倫理を行使できません。法律が大前提として本人の意志があるかどうかを問うのも同じ理由からです。「本人の意志」以外は生理的な自然過程であったり自然=環界そのもの(でしかない)だからです。
 共同体は構成員である個人の共同幻想をコントロールしようとしますが、それは個人をマークすることから始まります。それが名をつけることであり、タトーを身体に刻むことです。

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