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2010年8月 6日 (金)

新しい読者への誘いに…『吉本隆明のDNA』

●吉本隆明の紹介本ならばこの一冊を読めばいいかも…
 吉本本人の著作以外ではオンリーワンの出来だといっても過言ではない。何よりも現在の若い世代に続く内容と説得力がある。吉本から散種された各人へのインタビューは、単に吉本について語らせているだけではなく吉本の理論そのものもえぐり出している。当然そこには各人の思想やその根源まで到達するものがある。インタビューされている各人のそれぞれのファンや読者にも必読。もちろん吉本とその理論をもっと知りたい人にもオススメの一冊であるのは当然だ。

 取材の最後まで不機嫌だったという上野千鶴子の言葉が象徴的だ。

 「ほかの人たちはみんな吉本体験を、そんなぺらぺらしゃべるの?」

 上野をはじめ全員が吉本をネタ?に自らの思想の原点までもしゃべらされてしまっている。著者の執拗?な取材の成果でもあるだろうが、いままで黙ってきたが本当はしゃべりたかったんだ…とばかりに各人が語り出す姿は不思議?であり微笑ましくもある。従来のありきたりの、しかも第三者にとって興味も学ぶべきところもない吉本解読ごっことそれを盾にした他者否定(自己認知願望の裏返し)とは違って、本書の各人の言葉は、照れながら昔の恋人のことを想い語りしているような雰囲気がある。はじめて吉本との関係?を明かす姜尚中のようなものから、とことん思想的理論的に突き詰めようとした宮台真司、いまこそ吉本に可能性を見出している中沢新一…とバリエーションも豊かだ。

 何らかのカタチで吉本の思想の散種である趣があるのが宮台と中沢だ。両者とも吉本に似て賛否両論の評価がある存在だが…宮台が吉本の限界を感じたのが『ハイ・イメージ論』ならば、中沢はそこにさらなる吉本の可能性を見出している。また宮台は中沢の危険性や可能性を示唆したことがある唯一の人間でもある。ジャンケンのようにめぐる3者の関係が面白い。中沢は吉本をネタにした経済本を執筆中のようだし、宮台は吉本を総括しておく必要があると考えているようだ。

姜尚中

 「…彼の全体をつかまえようとする原理論は、僕にとっては必要なプロセスだった。」(P66)

 偏狭な民族主義に囚われることがなかったのは吉本の思想のおかげだという姜の自覚は貴重。誰もがさまざまな困難を経験するだろうが、問題(と解)は一つしかない。困難というのはたいてい相反し矛盾する2つの観点の狭間で悩むことだが、吉本やマルクスは何気なく明解な答えを出してしまう。それは、より抽象的で普遍性のある(つまり全体を包含できる)観点の方に移動していくことだ。民族より<全体つかまえようとする原理論>を選んだ姜の勇気と困難は、実は誰もが経験する困難であり、根本的な問題なのだ。

上野千鶴子

 「『対』という概念を出したのは、彼だけ。しかもそれを思想の対象として概念化した人はいない。」(P83)
 男性の多くの思索者らの吉本論からは、対幻想論は「すっぽり抜けおちている。」(P84)

 ズバリの指摘だが、正確には<抜けおちている>のではなく<理解できないだけ>なのだろう(対幻想論を抽象化(学者の仕事だ)したアカデミシャンは橋爪大三郎くらいしかいない。在野でも皆無)。あるいは<対>に対して<エディプス△>を突きつけたつもりの『構造と力』のその後の展開の無さを見ても無残だ…。

宮台真司

 「吉本の立ち位置――<大衆の原像を繰り込め>――は一貫しているでしょう。大衆がもっているものを批判してはいけない、大衆がおかれている関係の絶対性がすべての出発点だ、と。むしろ六〇年代の延長線上で議論が一貫しているがゆえに、時代遅れになったんです。僕はそのアナクロニズムに仰天したというわけです」(P135)

 宮台はあの「コム・デ・ギャルソン論争」で吉本のアナクロニズムに仰天したという。吉本の大衆の原像論そのものへのありがちな誤読にとらわれているようだが、宮台の『権力の予期理論』や東欧のファシズム論の根本で発揮されていた観念による自縛を前提とした認識が対幻想論の基本と近似であることは興味深い。そもそも吉本は大衆の味方などしていない。大衆の自在な変化に注目し、それが資本主義(時代)と個人の心性のマトリックスであることを指摘し続けているだけであり、ハイ・イメージ論ではそれが全領域にわたって展開されているワケだ。

茂木健一郎

 茂木は吉本理論を理解している訳ではなく、吉本のポリシーやスタンスに衝撃を受け、感動している。思想として当然そういうものもアリなのだ。

 「アハ!体験」ともいわれるクオリアだが、それは対象認識がある意味で亢進している状態のことだ。認識構造における<対象の時空間性>に対して<認識の時空間性>が影響を与えてしまい、対象そのものに意味や価値を感じてしまう事態をさしている。吉本言語論的には<指示表出>に対して<自己表出>が影響を与えてしまった場合ともいえる。
 その根本には認識が特定の結論(答え、応え)を出さず(出せず)に認識し続けようとドライブし続ける状態…亢進し続ける状態がある。それが<感情>だ。これは『心的現象論序説』の感情に関する論考で明らかにされているが、すべての吉本認識論の根本にあるのはこの<感情>なのだ。特に<中性の感情>は<純粋疎外>の具現化したものであり、すべての心的現象の動因そのものである。(例によって、この吉本理論の根幹をなす<感情>についての言及はどこからも無い)

 「赤」という色は「周波数620--750nmの可視光線=電磁波」だ…と表現できる。これは「赤」という<対象の時空間性>を表記したものだ。しかし「赤」という<認識の時空間性>では無限に意味や価値が繰込まれていく。ある人にとって「赤」はトマトであるかもしれないし血のイメージかもしれない。あるいは平家を象徴する色かもしれないし、危険を意味するサインかもしれない。それは認識主体によってさまざま(<認識の時空間性>は個々の<来歴>に依存するため)だ。
 クオリアというのは認識における認識の亢進以外の何ものでもなく、認識構造において対象の属性と認識そのものの属性を混同するところ、あるいは峻別できないという初歩的?なところにしか根拠はない。茂木はそれらは無視して、ただ吉本の在り方にシンパシーとアイデンティファイをもっているらしい。

 茂木健一郎には斉藤環との間に予定されていた公開の往復書簡があり、斉藤からの第一信でクオリア論への手厳しい一撃をブチ込まれた茂木だが、沈黙せずに対応すべきだったと思う。吉本に対応するように斉藤に対応する芸?を見せてほしかった。その後の茂木の返信はある意味見事でもあるが偶有性等が万能の免罪符にもなりそうでもあり、積極的な肯定はし難くなっている。

中沢新一

 「フランス現代思想の記号論とか、若いときは僕もやったけれども、だめでしたね。あれでは本質は追究できない」(P220)
 中沢はいま、『吉本隆明の経済学』(仮題)という本を執筆中だ。(P230)

 吉本は現代を<欠如は知っているが、過剰を知らない>と認識している。中沢はそれを共有しながら次の展開を試みようとしている。中沢は知が商品であることを証明したニューアカというムーブメントの代表であると同時にその限界を突破しようと宗教の現場へ向かい探究し続けた。ただ宗教だろうがアートだろうが資本主義だろうがその現場でしか探究できないというようなスタンスは吉本がもっとも拒絶するものだ。出家しなければ悟れないなどというワク組はあらかじめ宗教者の立場を保身するためのものでしかないからだ。中沢はその一点での齟齬をほぐしながら、吉本が『アフリカ的段階』などで示した宗教と権力と個人の心性が一体渾然となった状況からの展開こそが自分が求めていたものであることを確認している。多摩美術大学芸術人類学研究所を拠点に中沢の展開は広がりをみせている。

糸井重里

 「信者の中に僕、入れてもらえないと思いますよ。」(P246)

 この糸井の言葉を痛烈な皮肉ととるか、みんなの中でいつも浮いている子どもだけが持つちょっとイジケタ思いととるか、面白いところだろう。

 糸井重里にインタビューした最終章の最後の文が吉本の現在を象徴している。糸井の「ほぼ日」の読者をメインとしたらしい2008年の吉本講演会の来場者について…「中心は、団塊世代の男性たちではなかった」「二十代、三十代の若者たちだった」「筆者も、華やかなファッションに身を包んだ若い女性たちの姿が多かったことに驚いた…」…と書かれている。
 若い世代への吉本紹介はいまここからスタートしたばかりだともいえるかもしれない。
 糸井の<吉本「リナックス化」計画>の今後の展開が楽しみだ。


 吉本が初めて角川で文庫化されるときにそれを「危険だ」と批判した坂本龍一や、雑誌『SIGHT』で吉本の連載を続けている渋谷陽一なども入れてほしかったと思う。あるいは吉本の著作を中学生レベルの国語の問題として「わからない」と評し、吉本は何も残っていないとその後も指摘している浅田彰のような人間に尋ねてみるのも面白かったのではないか? 浅田に何が残っているかは別の問題だが…。また宮崎哲弥のように吉本と対談しながらも吉本の発言が全く理解できずに対談が出版されなかったケースもある。だが宮崎は書評では吉本への偏りがない良質な紹介文を書いている。このギャップも面白いものだろう。また『だいたいで、いいじゃない。』で吉本と息の合ったところとスルドサを見せた大塚英志の一言もほしかった。個人的には、考えるほど続編を期待したくなる本だ。根源的には橋爪大三郎吉本隆明に関して提起したものは大きく、これは今後ますます問われることになることであり、このblogもその解を求める一つになるのだろうと思う。

           
吉本隆明のDNA

著:藤生 京子
参考価格:¥1,995
価格:¥1,995

   

(2014/7/7)

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