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2009年4月26日 (日)

3つのエポックメーク『世界認識の方法』の問題

フーコーと吉本が補完し合った思想のパフォーマンス…『世界認識の方法』

 3つのある種エポックメークな(大きな)問題?があるのが本書。
 1つは本書をキッカケに対幻想や共同幻想という言葉とともに吉本理論が注目をあびたこと。理由は簡単で<対幻想><共同幻想>といったある種キャッチなタームがシンプルに説明されたことです。
 2つめはそのタームの紹介が簡明過ぎたこと。ヘーゲル-マルクスという王道をベースとした質疑応答による説明のために〝序説的なもの〟は捨象されています。逆にいえば『心的現象論本論』が刊行されるまで『心的現象論序説』で示された原理論は顕在化せず、ハイイメージ論などの個別具体的な批評においてバックボーンとなる概念として作動するのみでした。
 3つめがフーコーとの対話です。賛否両論あるものの対談のテープの紛失などの事故?は別としても実りは大きかったと思います。フーコー自身は『言葉と物』など自らの方法についての懐疑ももちはじめていて非常にスリリングで価値のある内容になっています。

 サルトルメルロポンティとともに吉本さんがよく参照し検討する思想家ですが、『方法の問題』という非常にラジカルなテーマの本を出しています。科学というものはその方法(論)によってはじめから規定されてしまうワケですが、サルトルのマルクス主義批判はそういった科学批判そのものであり、あらゆる認識が免れない批判でもあったワケです。それはポパーの反証可能性よりも徹底した批判です。
 本書ももっともラジカルな意味で方法を問う内容になっています。吉本理論の全体像を俯瞰しながらの総括的な説明と、フーコーへの根源的な問いは、それぞれに大きな問題提起ともなっていてスリリングなのです。

 

  吉本さんのお話は、私にとって本当に有益なものでした。
  というのは、一つには、
  自分のいままでの仕事の限界だとか、
  それから

  まだ充分に考えがまとまらずに欠けている部分などを、
  吉本さんが、問題の提起のしかたそのものによって、
  はっきりと示して下さったからです。

  そして特に吉本さんの意志論という形での問題ですね、
  それが私にとっては、ことのほか興味深く、
  多くの問題を進展させる有意義な契機となると

  確信致しました。(P47)

 

 最後にフーコーは以上のように述べ、国家に対する経済や制度や文化などへの分析では「どうしても考えられないような、ある謎の部分につきあたってしまいました」とまとめています。だから「吉本さんの書物が、フランス語なり、あるいは英語なりに紹介されますよう」「強く希望いたします…」となったのでしょう。

 フーコーに併せる形で中心的な課題が<意志論>となっていますが、問題の根源は〝人が共同性を求めてしまうのはナゼか?〟ということに収斂しており、むしろフーコーの言葉どおりの問いとして考えた方がダイレクトなルートが見いだせるハズです。

 

     国家の成立に関しては、
     …
     どうにもわからない大きな愛というか
     意志みたいなものがあったとしか
     いいようがないのです。
(P48)

 

本書は自らの指示表出をできる限り忠実に伝えようとする吉本隆明と、自らの思想を明白な自己表出として衒いなく語るフーコーの、互いに相手の方法論に乗っ取ったかのようなやり取りで構成されています。吉本理論の解説においても同様で、この製序された吉本理論(の解説)には賛否両論があるのではないでしょうか。ただ間違いなく吉本理論の全体像が自身によってほぼ初めて俯瞰されており、その方法に自覚的である限りとても有用でコンパクトな一冊です。フーコー研究の分野の周辺では本書は除外されているようなので、まさしくその可能性の中心はドーナツの穴のようにカラッぽなのかもしれません…。



           
世界認識の方法 (中公文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 399
価格:¥ 399
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2009年4月10日 (金)

<対象a>は剰余価値から―『生き延びるためのラカン』

『生き延びるためのラカン』(斎藤環・木星叢書)

 心的現象のトリガーが〝去勢〟(抑圧=疎外)であることは用語やそれが示す党派?に関係なく真理です。原生的疎外からはじまって純粋疎外(の<ベクトル変容>)が遠隔化し、再帰性がそれを冪上化しながら増幅する過程は吉本理論でもラカンでもその主張のベースになっています。
 この去勢が生んだ欧米文化の豊饒さを評価するとともに『ハイ・エディプス論 個体幻想のゆくえ』などでラカンの鏡像段階とパラノイア理論についてのラジカルな考察がされています。ラカンの有名な三界(想像界・象徴界・現実界)(論)が対幻想の領域に入ることを認めながら、用語をコンバートした論理の展開を考えるのも面白いでしょう。ラカン(orフロイト)のサイドから吉本理論との共通項を探る楽しさというものも含めて読める本です。ラカン派の中では異端だと自称されていますが、ジジェクなどマルキストへの読解も深い著者のものとして、また大変に読みやすい一冊として貴重です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ラカンに転移してしまった著者が「日本一わかりやすいラカン入門」を目指して6年の月日をかけ、中学生にも読めるように書いたのが本書。

 サブカル論議や精神分析、心理学フェチなら当然知っているレベルの用語だけで見事にラカンが解説されている。難解な専門用語が排除されているわけで、そこに<父の排除>を察する読者からは反発もあるけど、それこそこの本が成功してる証だとすればOK。

 吉本に転移している自分からすると、本書はフロイトへの深い理解のためかより一層吉本理論との近似が気になる。吉本や著者への自分の転移は当然として、他者からはどう読めるのだろうか?という新たな知への欲望がさらに喚起され、もちろん必読の一冊として触れ回りたくなる欲望はこの書評を書く衝動を喚起し。。。。

 タレントでも著者でも、その人を気に入ったらその人の作品を複数手に入れるのは当たり前。好きな役者の出演するTVや映画はいくつも見るし、著者なら何冊も読むでしょ。好きなミュージシャンのCDやアナログレコードだってたくさん持ってたりするもの。
 そんな訳で、斎藤環や吉本隆明の本はたくさん持っている。そのなかでも専門用語を並べた専門書より解りやすく深くて、読んでいて面白い、この『生き延びるためのラカン』はランキングが高い。

 漢字は<表象・表音・表意>の三位一体になっていて複雑。記号論で対象になる言語の文字としての<表象・意味>や言葉としての<表音・意味>とは複雑さのレベルが違う。漢字という書文字はそれだけで絵と記号の両方の機能をもっている。そのために〝シニフィアン〟〝シニフィエ〟みたいな意味ありげな用語をいくつ並べても漢字が人間にどう享受されるかは説明できない。同じようなことをラカンの限界として指摘したのが斎藤環の『文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ』で本書でも同書を参照するよう勧められている。

 入門書にしてはラカンの重要概念の由来まで説明されているのもGOOD。<対象a>がマルクスの<剰余価値>をヒントにしているなど、マルクスやヘーゲルからラカンがどのような影響を受けているかという説明は参考になるでしょ。それだけでも西洋思想という文脈の中でのラカンの確かな位置づけが可能。ヘーゲルやマルクスを除外しては現代思想の文脈が成り立たない事実を再認識しないと、日本の論者のこれ以上のフラット化、動物化が避けられないもんね。

 『ヨシモトで読むラカン』という本が一冊書けそうなほど、いろいろなヒントやネタが散りばめられた一冊だ。

       -       -       -

(追記予定です)

           
生き延びるためのラカン (木星叢書)

著:斎藤 環
参考価格:¥1,575
価格:¥1,575

   

2009年4月 8日 (水)

人間のすべてが語られる『超恋愛論』

 『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ 』に続く思想や理論ではない軽い談話のような本。しかし、ここにはどのハードな吉本本にもなかった問題がクローズアップされています。個人幻想からひきこもり、そして淡い恋から情熱的な人間関係、約束、掟、法律と国家や宗教の関係、家庭内暴力、三角関係、そして表現-指示表出までが展開する吉本ワールドがそこにあります。

 いままで<対幻想>を根底においてきた吉本さんが、ここでは<三角関係>を取り上げて、社会が成立した以降の三角関係ならではの観念の動きについて考察しています。恋愛からファシズムまで、そしていまだナゾの心の動き…。日常的な言葉で、しかし吉本理論の臨界ともいうべき困難な問題を、どのように困難かが語られています。

 対幻想の究極と三角関係の不思議を考察しながら、そこに恋愛の極限と日本の後進性を見出しています。

 対幻想(家族関係)から観念が遠隔化していく階程を解き明かしたのが吉本理論のメインでした。この観念の遠隔化を遡行した時に、どこまで遡行可能なのか?というのは一つの大きな問題ですが、フロイトを援用する形では<エス(→自我)>がひとつのゴールだと考えられます。『心的現象論序説』に示されているように自己が自己を対象化した時点で〝幻想対〟といえるからです。
 エスから生成・離脱しようとする主体化志向の動きと、その動きの作用によって必然的に形成される反作用としてのエス化志向(非主体化)?の動き、この2つのベクトルがあるワケです。<主体を確立しようとするコト><エスへ戻ろうとするコト>ですね。

 三角関係の考察で異性愛に同性愛(友情)が拮抗してしまった、あるいは超えてしまったことにフォーカスした鋭い考察がなされます。異性(愛)に拮抗するものが多種多様に存在するのが現在であり、それは<n個の性>として、あるいは「多重見当識」『戦闘美少女の精神分析 』(ちくま文庫)斎藤環)としてもあるでしょう。

 <恋愛>と<結婚>の違いも、日本におけるその歴史から考察されています。<恋愛>は対幻想の世界ですが、<結婚>はそれを<共同幻想>から認知されなければいけないという点が大きく構造が違います。また共同幻想は第三者でもあり、それを回避しようとする心性は近代日本の特徴でもあるという指摘がされます。

 吉本は1人の男性が友人にも女性にも気持ちを<話せない>で内向していくのが三角関係のベースにあると分析します。問題はその男性が気持ちを話せないことです。するとこの問題は<ひきこもり>や誰もが通過するであろう孤独の焦燥と同質であることがわかります。

 「ぼくが恋愛論の本を出すなんて、初めてのことです」ということですが、結局、人間の原理のすべてに関して書かれています。思想や哲学といった専門用語の羅列とは違ったフィールドで、どの思想や哲学よりも人間の根本を語ってしまっている著者がここにいます。〝人間の人間に対する関係の全てが男の女に対する関係の中にある〟という若きマルクスと同じ認識がここにあります。(彼女のために決闘してこめかみに傷を負ったマルクスの武勇伝は、どこか吉本さんに通じるものがありますね…)

 個別的現存でしかない個人が人類となる契機を一対の男女に見出したマルクス『経済学・哲学草稿』の提起した問題は共同(幻想)化という展開を経て現実を規定していきます。吉本理論がその解のキーであることは読者が確認することでしょう。

           
超恋愛論

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,470
価格:¥ 1,470

   

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