エピソードな原点『幼年論 21世紀の対幻想について』
芹沢俊介がインタビューする形になっていますが『ハイ・エディプス論』と同様でしっかりした理論的な内容になっています。しかも他の本では触れられていない<幼年>にフォーカスしたもので、人間が発達していく階程においていちばん大切なパートでもある<幼年期>への貴重な考察です。必然的に<対幻想>が人間の発達の階程でどのように変遷するか、そのバリエーションが語られ、共同幻想との関係や時代ごとの家族のカタチが明らかにされます。
理論的な問題を導くためのサンプルは吉本隆明自身の幼年時からの体験や小説、柳田国夫や「古事記」「日本書記」です。「軒遊び」への考察から「ひきこもり」を、「甘え」からは暴力が導きだされます。ベイトソンやDG(ドゥルーズ=ガタリ)などと照応されるところもあり吉本読者ではなくてもポイントは理解しやすいでしょう。
<親-子>という状況からも倫理からも子供のことは「100パーセント親のせい」という結論は当然のことですが、親自身がまずそれを回避する現在、それだけでもますます貴重な一冊だといえます。医学的に障害や病の原因が遺伝子や器質に由来すると明らかになるにつれ〝親のせいではない〟という現代的な倫理?が喧伝されるほど<情況>を顕わにしているものはないでしょう。
成長するに従って<対幻想>が遠隔化していく、つまり観念のパースペクティブの拡張がありますが、それは物理的な距離としても(指示)表出します。ポイントは<認識上の空間性>と<物理的な空間>との差異とその組み合わせ=カップリング。遠隔化された観念と現実の行動はタイミングがズレますが、成長の階程では一つのカップリングされた状態として把握できます。歴史の階程におけるマルクスの<上部構造-下部構造>というカップリングのように「家遊び」「軒遊び」「外遊び」というカップリングが<親-子>の関係を、つまり<対幻想>の表出として考察できます。
「家遊び」は親の保護下での遊び。
親が認めたものを、親のコントロール下で遊びます。
「軒遊び」は親の視界内での遊び。
親の眺めのなか、親の手の届く範囲内で遊びます。
「外遊び」は親の視線も手も届かないところでの遊び。
親がいないところで、親の知らない遊びを(も)します。
『共同幻想論』をはじめ柳田国夫を参照する機会は多く、豊富なフィールドワークから価値ある考察がなされています。「軒遊び」もその一つでしょう。
この子どもの自由な時間である<遊び>をめぐる<親-子>の関係を構造として考えると、そこに<対幻想>の具現化した状態が把握できます。やがて<兄-弟>という関係や<姉><妹>あるいは<叔父><叔母>との関係へ遠隔化していく過程と延長に<共同幻想>として<国家>や<宗教>の成立までも解き明かした吉本理論の原点があります。
幼年論―21世紀の対幻想について
著:吉本 隆明 , 他
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