<世界視線>という指示表出-人工の視線
共同幻想や対幻想という有名になったタームがありますが、〝現在〟をめぐる論考『ハイ・イメージ論』などで提出されたのが<世界視線>でした。この<世界視線>には2つあります。2つの由来があるのです。
人工的なものと、人間の感覚によるものの2つです。
人工的なものはCGに代表されるテクノロジーによる視線で、ランドサットのようなものも含みます。プログラムとそれが産出する予期データによる視線です。予期データによる描画では対象の裏も表も見ることができます。リソースがあれば理論的には無限大無限遠に拡張できるものです。
人間のものとしては想像力によるイメージがあります。名辞としての概念ではなく、視覚像に類似するイメージです。また想像力によるものとは別にサルトルやメルロポンティが取り上げていた直観像なども含まれ、臨死体験などによる疑似視覚像もあります。これも認識にいたる知覚などの統御力の低下によって発現するイメージあるいは擬似視覚像です。いずれにせよ過去に経験したものごとをデータとした範囲内のイメージだと考えられます。
これらの<世界視線>による対象の描画は、人工のものである<線>が立体化あるいは動態化したものだと(も)いえます。そうした意味では指示表出そのものであり、だからこそ個体の意思(自己表出)とは関係なく詳細に記憶できてしまう(サバン症候群など)、あるいは見えないはずの向こう側や裏側まで見えてしまう(臨死体験やCGなど)という特徴があります。
それは<世界視線>が立体化し動態化した視線であるということです。
『心的現象論本論』の「目の知覚論」の次の章である「身体論」にそのヒントが示されています。
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<手>に帰せられる知覚作用は
ただ触覚作用だけであるといっていい。
「身体論」(『心的現象論本論』P46)
<手>の作用からすぐに連想されることは、
<足>が<身体>に則した<空間>の限度を
意味するということである。
…<足>が<空間>の拡大と構築の働きに
特異性をもっている…
「身体論」(『心的現象論本論』P47)
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頭部と(限界のある)姿勢によって固定されている<眼>は足で移動することによって<視線>を変え、対象を自由な視点から見ることができるようになります。これが<世界視線>です。移動するという行為は意志があってするものであり、そこには<志向性>があります。
<足>による移動で視線は立体化し、対象認識は記憶(データ化)されて次の移動や視線(を準備する)のために使われます。つまり<世界視線>は運動とデータによってアフォードされているワケです。そして<志向>することによって<視る>という身体の運動(性)によってアフォードされているという点では、観念(性)ではなく身体の運動(性)として知覚の能力を発揮している直観像やサバン症候群などの特異な知覚の説明ともなります。健常的に成長して観念性が高まると直観像能力が消失するのはそのためです。胎児において観念性と運動性は同質であり等価ですが、それは成長とともに観念性の増大と運動性の縮減あるいは消失として発現します。
(運動性の完全なる消滅は<死>ですが、中上健次が吉本理論における視線を死者の視線といったのはハズれではないかもしれません。)
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