高度な抽象である<直線>があらわすもの
アーティストやデザイナー、ファッションの関係者にとっても衝撃的だったと思えるのが『ハイ・イメージ論』です。埴谷雄高vs吉本隆明の激しい論争となりビートたけしが仲裁?に乗り出したりレアな出来事でもあったコムギャル論争ですが、その理論的な決着でもあるのがイメージ論に収録されたコムデギャルソンへの批評「ファッション論」でした。ファッションやモード、デザインというものへのこれほど論理的な解釈と評価はいままでに無かったものです。印象批評の範囲ではバルトのような言い分はありますが、視線の価値(論)とともに時空間概念にもとづいたファッション論はありませんでした。
『心的現象論本論』の「目の知覚論」では縄文土器の文様にフォーカスしながら知覚の初源が探究されていきます。
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…プリミティブなものは、
まず、それ自体が高度な<抽象>とみなされる
<直線>によってあらわれる。
「眼の知覚論」(『心的現象論本論』 P16)
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ここで〝プリミティブ(原始的)なものは直線によってあらわれる〟と指摘され、しかも〝直線は高度な抽象(人工)だ〟と説明されています。
これを吉本理論の言語論に置き換えれば〝自己表出はある単位にあらわれる〟しかも〝単位は高度な指示表出だ〟ということになります。
また三木成夫の解剖学的な知見による吉本理論でいえば〝植物的階程〟は〝動物的階程〟に〝あらわれる〟ということになるでしょう。あるいは〝内臓感覚は体性感覚にあらわれる〟ということになると考えられます。
価値論としては〝価値は単位にあらわれる〟〝単位は○○だ〟ということになります。
マルクスのように資本主義を表現する場合にも、ある意味でとても簡単な換喩なのですが〝価値は商品にあらわれる〟〝単位は商品だ〟ということになり、即物的に現前するのは〝商品(だけ)だ〟という指摘ができます。価値自由の資本主義を体現しているのは商品そのものだということになります。
文芸の世界でいえば〝文学は単位にあらわれる〟〝単位は言葉だ〟ということになり、これは小林秀雄が示唆し続けたとおりのことです。そこには言葉があり、言葉しかありません。そして、この〝言葉しかない〟欠如感や未達成感、閉塞感そのものが文芸のポテンシャルだと考えられます。
その点で〝言葉は自己表出〟なのですが外在(表現)させた途端に〝言葉は指示表出〟なのだということが最重要なポイントでしょう。
資本主義は貨幣に自己表出しますが、貨幣は使われなければ価値を発現(指示表出)しません。使われない貨幣が内在させているのは<信用>という全般的な可能性だけだと考えられます。そしてあらゆる<信用>の権化として<国家>が生成し、<貨幣>の発行と、<信用>の極限である<殺生与奪権>を行使します。
縄文土器の文様に表出した<直線>への論考から超高度資本主義の考察、解剖学的な身体各部の発生や相互の関係、それらすべての動因となる心身とその心的現象の探究…その驚異的なポテンシャルと可能性の原点として心的現象論があります。『心的現象論本論』の刊行は大きなチャンスですが、『心的現象論序説』の復刊も待たれます。
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