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2009年2月24日 (火)

ベーシックな『序説』 その5

 『心的現象論序説』の最後の章であるⅦ章「心像論」です。〝心像〟には最後のパラグラフで一度だけ「イメージ」とルビがふられています。これまでの他の章と同じように精神病の具体的な症例などから緻密な解析による説明がなされています。
 共同幻想という言葉は有名かもしれませんが、その由来については誰も触れていません。吉本理論でも由来についてはこのⅦ章の数行以外には説明がありません。『共同幻想論』にはさまざまな階程(TPO)の<共同幻想>について緻密な分析が書かれています。しかし<共同幻想>が、ナゼ・ドコに生成するのか?というその由来については説明されていません。共同幻想の生成はこの序説にしか書かれていないのです。たとえばそれが最後の章の最後のパラグラフです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【Ⅶ心像論】

P281
…自己妄想は、対象に<投射>されたうえで
自己妄想の世界として引き寄せられるため、
自己妄想が対象と自己とのあいだをボール投げの
繰返しのように往き来することによって、
共同観念の世界の代同物の性格をもつようになる。
そしてこの共同観念に擬せられる性格をもった
自己妄想の世界が、心的な世界と現実的な世界とを
接続する媒介の世界となるとみなすことができる。

 

 Ⅶ章の最後の項目「8引き寄せの世界」の計4頁に満たないうちの2頁目に上記の文があります。これが共同幻想(の代同物)がナゼ・ドコに生成するかをダイレクトに記述した唯一の文かもしれません。
 <心的な世界>と<現実的な世界>を<接続する><媒介の世界>として<自己妄想>が説明され、それは<共同観念の世界の代同物>でもあるとされています。
 <心像>は対象を思念することで現れるが〝病者あるいは病的状態であらわれる<幻覚>〟は〝当人の意志によって左右されることはない〟と<幻覚>と<心像>の違いが説明されます。

 

 認識の位相が<心像><形像><概念>の3つに分けられ、それぞれの生成の過程と<形像><概念>にまたがって<心像>が構成されることが説明されます。あらゆる対象がこの3つの認識の位相の統御された構造として把握されて、この把握の仕方、3つの位相の統御のされ方の違いが一般的な認識であったり異常あるいは病的な認識であったりする…ことが解説されています。さらにそこに歴史的な解釈が導入されます。この認識の統御の仕方が未開人と現代人では違うこと指摘されるのです。

 序説発刊の当時、この指摘は特に理解されなかったのではないでしょうか。しかし、この未開人と現代人の認識の相異に関する指摘こそ後の『アフリカ的段階について』のベースであり、この認識の方法、つまり個体発生とその成長に応じた認識統御の変化を未開人と現代人で比較するそれは、個体発生は系統発生を繰り返すとした三木解剖学に先駆けたものであることがわかります。『心的現象論序説』の最後の章に、その後のすべてがあらかじめ結実していた事実が驚異的な吉本理論の射程と一貫性を示しています。

2009年2月20日 (金)

ベーシックな『序説』 その4

 『心的現象論序説』のⅥ章「心的現象としての夢」では<入眠>時の心的な現象である<夢>が考察されますが、それは世界にまったく比類のないオリジナルな理論になっています。
 夢に関してはたいていフロイトによる夢判断のように夢に出てきた形象で夢の意味を問うものや、夢の内容を現実の(心理の)隠喩や換喩として捉えれるものが大部分です。それ以外はないといってもいいかもしれません。しかし、吉本理論における<夢>への考察はまったく違います。変幻自在で不定形でもあるような<夢>を厳密な認識の時空間構造として把握しています。そこでは<原関係><固有関係><一般関係>や<原了解>などの基礎概念が幻想論と対応しながら展開されています。

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『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

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【Ⅵ心的現象としての夢】

P188
夢が形像のかたちでやってきても(上限夢)、
非形像のかたちでやってきても(下限夢)、
あらわれる夢表現に対して<入眠>時の心的な領域は
一義的な対応をもたない…

なぜならば、
対象が<身体>の外部に実在しないことから、
心的な受容の空間化度は、
それぞれの感官に固有な水準と境界をもちえないで、
無定形な空間化度にすぎなくなる…

P189
夢の形像は、ある時にある場面で実際にみた形像とは
まったく関係がない…
記憶残像が再現されるのでもない。

夢の形像は、眠りによって条件づけられた
心的な受容の空間化度が消失し、
心的な了解の時間化度が変容することから
直接に必然的にやってきたものである。
つまり、意識が対象を受容し了解するという構造を
もちえないところから、
必然的に与えられたものが夢の形像であって、
いかなる意味でも視覚像ではありえない。


 ある意味でこのⅥ章がいちばん吉本理論の典型であり、また吉本理論が解りやすいかもしれません。夢は〝対象が<身体>の外部に実在しない〟から〝無定形な空間化度にすぎなくなる〟というシンプルでストレートな定義からはじまります。

意識が対象を受容し了解するという構造をもちえないところから、必然的に与えられたものが夢の形像〟であるという説明は序説における認識論をすべて語っているようなおもむきがあります。

 〝対象〟を〝受容〟し〝了解〟するのが基本的な認識の〝構造〟で、そのすべての段階に<時空間構造>があり、そして認識の順番と過程そのものにも時空間構造がある…というのが『心的現象論序説』で示されてきたことそのものです。それが感官(感覚器官)が対象を認識する構造です。感官は常にこの構造において環界を認識しています。
 ところが夢では〝対象が<身体>の外部に実在しない〟つまり感官が受容する対象というものが存在しません。感官が機能する段階である環界との接触がないわけです。夢では感官レベルでの認識はないことになります。夢はいきなり〝了解する〟ところ(対象外・意識外のもの)からはじまるわけです。
 了解のレベルには了解の時空間構造があります。夢では(感官の)対象がなく対象のレベルの時空間構造がないために、この了解の時空間構造がその代わりになります。それが<夢>の属性です。〝無定形な空間化度〟による〝形象〟になるわけです。

 

 夢の形象が〝対象〟ではなく了解の時空間構造そのものによるということは、夢という認識は認識の再帰性(自己言及性)に負うものであることがわかります。
 そのために〝いかなる意味でも視覚像ではありえない〟のであり、よくある夢への解釈や想像や直観、イメージというものへのアバウトが見解が、ほとんどすべて無効であることがわかります。吉本理論のすさまじい破壊力がここにあります。

 いきなり共同幻想との関係でいえば、共同幻想が自己言及できない部分をカバーする(タネにする)認識だとすると、夢は自己言及そのものである、といえるかもしれません。

2009年2月17日 (火)

ベーシックな『序説』 その3

 吉本理論の基礎概念である<原生的疎外>や<純粋疎外>と同じように『心的現象論序説』のⅤ章「心的現象としての発語および失語」でもベースとなるオリジナルな概念が設定されています。それは<自己表出>と<指示表出>のもととなる<自己抽象><自己関係>などです。原理的であるとともに原生的疎外や対幻想といったものよりわかりやすいかもしれません。その点でもこの『心的現象論序説』を読んでから他の理論へ向かった方が吉本理論全般が理解しやすいと考えられます。

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『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

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【Ⅴ心的現象としての発語および失語】

P151
言語はふたつの構成的な因子をもっていると
かんがえることができる。
ひとつは表現としての言語、
もうひとつは規範としての言語である。

表現として言語をみれば、
話され書かれないかぎり言語は存在しない。

規範として言語をみることはまったくべつのことを意味する。
…民族語に固有の音韻、韻律、文法などが抽出できる

ような共通性のうえにのみ存在し、…人間の発語自体に
たいして規範としての作用を発揮するようになる。

P152
…表現としての言語と規範としての言語は

<逆立>しようとする志向性をもっている。

 

 「規範としての言語」というのは<指示表出>のこと。この『心的現象論序説』で言語についての基本的な考察を知っておくと『言語にとって美とはなにか』がとても理解しやすくなります。<指示表出>は外部からやってきて、<自己表出>は自身の内部の言語。
 〝はじめて言葉をしゃべれるようになった幼児〟は〝<父>や<母>〟から〝教育によって、あるいは自然な模倣によって規範をうけとっている〟ということで「規範としての言語」は〝幼児にとって、すでに予め存在する〟ワケです。このことから「規範としての言語」=<指示表出>はいちばん心的な<環界>だと考えられます。この環界である<指示表出>を超高度資本主義の全生産(物品・サービス)=文化全般にまで拡張して考察していく『ハイ・イメージ論』の原点がここにあるともいえます。イメージ論においてこの序説の<純粋概念>が最重要ポイントになってくることからも吉本理論にはまったくブレがなく、また起点がこの序説であることがわかります。

 「表現としての言語」は〝ただ対自性そのものを空間化度に転化〟したものでありこの〝<概念>の空間化度はまったく恣意的でありうる〟と説明されます。現象学、実存主義、言語論、心理学、資本主義にいたるまでの原理がシンプルに示されてしまう吉本理論の原点とその表出論(言語論)がここにあります。

 <規範>としての言語の形成は〝<関係>意識にかかわってくる〟もので、〝<関係>(作用)そのものが心的な<規範>の対象〟であることが説明されます。これが<指示表出>であり、<指示表出>と<自己表出>または<規範>と<概念>は<自己関係>と<自己抽象>を初源として生成し構造化することが把握されます。

 この<関係>意識は<共同幻想>の起点(≧自己関係の背理として)で(も)あり、<規範>としての<指示表出>が大量に生産される超高度資本主義の分析に吉本理論が向かったのは必然であることがわかります。また自己言及の不可能性として表出する場合の<規範>はラカンの象徴界とオーバーラップするものと考えられます。

 これらは精神病における失語をはじめとする現象を解析する形で説明されています。言語が心的現象から解剖されていくスリリングでラジカルなⅤ章です。

2009年2月15日 (日)

ベーシックな『序説』 その2

 『心的現象論序説』のⅢ章「心的世界の動態化」Ⅳ章「心的現象としての感情」では基礎となる概念構築、了解作用の遠隔化とその動因が考察されています。吉本理論の原理論であり現象学やフロイトへの厳密な考察から理論が生成していく瞬間でもあるでしょう。
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『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情

 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

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【Ⅲ心的世界の動態化】

P93
心的な領域を原生的疎外の領域とみなす
わたしたちのかんがえからは、
ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
<感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは

区別されない。

心的現象の質的な差異、
たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
ただ時間化度、空間化度の量的な差異と

その錯合構造にしか還元されない…

 

 時空間概念という理系文系を超えた究極の概念を駆使した心的現象へのアプローチが宣言され、ヘーゲル小論理学のような明解でゆるぎない理論の基礎づけを目指した論考であることがわかります。〝個体の幻想性についての一般理論が確定されれば、個々の具体的な人間がしめす心的現象を了解し、予見しうるはずだ、という観点にたっている〟この『序説』の可能性はすさまじい破壊力をともなって展開されることになります。

 <原生的疎外>とその<ベクトル変容>である<純粋疎外>というオリジナルで基本的な原理と概念が示されます。純粋疎外の時空間化度として<固有時間性><固有空間性>が設定され、現象学的還元が排除するものの背理として〝現実的環界の対象も、自然体としての<身体>もけっして排除しない〟時空間の〝錯合という異質化した構造〟である<純粋疎外>が提出されます。ここでは現象学の〝超越者〟への指向(嗜好?)は消滅しています。

 感覚作用を〝それぞれに固有の空間化度〟と〝生理体としての<身体>の時間化度〟による受容とみなし、それが微分されます。そして<一次対応>という<了解>の基礎が設定され、そこからの離脱(の度合)が異常や病気(のスケール)となることが説明されます。これらはハイデガーやベルグソンの時間や空間への概念設定とも比較検討されていきますが、後半の具体的な症例への分析をとおして例証されていく過程は現在まで続くスタイルでもあり説得力があります。

 

【Ⅳ心的現象としての感情】

P131
たんに眼のまえの存在にたいしてだけではなく、
遠隔の対象についても<感情>をもつことができる
にもかかわらず<感情>の対象は、

遠隔性でありえないことは、
<感情>にとってもっとも本来的な性質である。

 

 心理学でも哲学でも脳神経学でももっとも困難な<感情>(の定義)というものが、もっとも吉本理論らしく時空間概念によってクールに解析され提示されています。
 心的現象の中で感情が特別なのは、感覚には〝対象そのものを指す志向性〟がありますが、感情は〝対象についての心的な状態を、本来の対象とする〟からです。つまり感情は再帰(性)や自己言及(性)の典型でありループしている心的現象そのものといえるもの。

 しかも〝<感情>の作用は、対象自体がどういうものかとはかかわらない〟ということで、たとえば<好き・きらい>のような判断さえ両価性でしかなく、〝<感情>は〟〝心的な時間性の<空間>化〟という〝中性〟の〝強度に転化する〟ことが〝本質〟だとされます。
 また〝了解作用〟が〝<時間性>が介在すべきであるにもかかわらず〟〝心的空間性の領域としてだけやってくる〟〝本来的な矛盾〟とも定義されています。(これらの感情についての思索は時間(性)以前の状態である<エス>を念頭においたものではないかと考えられます。)

 後半で分裂病の少女ルネなど感情の障害をともなう症例への考察があり、〝<接触>の構造〟が問題とされます。ベースに〝臨界的である〟〝人間と人間との<接触>〟を置き、そこから遠隔化していく動因として(の)<感情>(の必然)が考察されます。
 ここで<臨界的な接触>というのは後に有名になる<対幻想>の属性のこと。この数ページに<共同幻想>から<アフリカ的段階>までの機序と必然が、はじめて現れます。それは〝<異常>あるいは<病的>とみなされる精神の働き〟への考察から生まれたものだといえます。

2009年2月13日 (金)

ベーシックな『序説』 その1

 『心的現象論序説』のⅠ章Ⅱ章は考察の基本的な方法とスタイルで、Ⅲ章「心的世界の動態化」Ⅳ章「心的現象としての感情」は吉本理論の根幹をなす部分です。Ⅴ章「心的現象としての発語および失語」Ⅶ章「心像論」はそれぞれ『言語にとって美とはなにか』と『共同幻想論』の基礎づけになっています。

 『心的現象論序説』には「対幻想」も「共同幻想」もでてきません。代わりに<幻想対>や<幻想的共同性><共同観念><一般了解>という言葉がでてきます。また「自己表出」「指示表出」という言葉もでてきません。<自己表現としての言語><規範としての言語>など説明文が多く登場しています。
 『共同幻想』『言語美』は具体的な題材を解剖するかたちで理論が構築されていきますが、この『序説』では基礎概念のレベルで徹底的な考察と解説がされており〝言語〟も〝共同性〟もラジカルに理解できるように書かれています。『心的現象論本論』ではさらに多くの個別的な題材から微細な解剖をとおして原理が示されていきます。『序説』は理念的に完結しうるもとして完成度が高いものです。

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『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか

 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

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【Ⅰ心的世界の叙述】

P10)
わたしのかんがえでは
マルクスの知見のうちもっともすぐれており、
もっとも貴重なのはかれがその体系のうちに
観念の運動についての
弁証法を保存していることにある。

 

 心理学や哲学、現象学というジャンルを超えて心について考察することが宣言がされています。心は身体や環界に依拠しますが絶対にそこに還元はできません。この困難で複雑な状態を自明のものとして心的現象への探究がはじまります。

 〝わたしが<視る>とき、それは<構造>としてみており、対象はその個体に固有の<構造(時空間構造)>に変えられて受容される〟…という意味の説明(P13)があります。

 この{個体に固有の<構造>}というのは人間にはそれぞれ個体ごとにその人固有の認識構造(認識の仕方)があり、各人で少しづつ異なっていて、それが個人の特徴(個性)になっていることを示しています。
 この<個体ごとの特徴>や、<個体と個体の差異>あるいは<個体と公準(共同体の)の差異>にフォーカスして心的現象論は展開されています。この<差異>こそが<性格>をはじめとして<異常><病気>まで包含するものであり、吉本理論の言語論としてであれば<自己表出>に対応するものです。もし、たとえば個体相互にまったく差異がなく同じ(ような)属性であるとすれば、それはコンピュータや動物が並んでいるようなもので全面的な指示表出(だけ)の世界となります。

 

【Ⅱ心的世界をどうとらえるか】

P46)
もし量子生物学の発展が、生理的なメカニスムを
すべて微視的にとらえうるようになったとき、
心的現象は生理的現象によって了解可能となるか?
もちろんこれにたいする答えは<否>である。
ただし、不可知論的な否ではなく構造的に否である。

 

 その理由として〝生物体としての人間が、細胞の確率的な動きのメカニスムを把握しうるとき、心的な存在としての人間は、すでに<把握しうる>ことをも把握しうる冪乗(累乗)された心的領域を累加している〟という構造にあることを指摘。

 この〝構造的に否である〟は定理としては<自己言及のパラッドクス>や<ゲーデルの不完全性定理><チューリングの停止性問題>(の示すもの)と同じす。(こういった見解を示せる可能性がニューアカ以降にありましたが誰も何も示せませんでした。)

 これは個体という<入れ子>構造における<再帰(性)>が人間だけのものであることを示しています。あるいは<再帰(性)>を<入れ子>構造の前提と(して定義)したともいえます。

 〝観念の働き〟は〝人間の<身体>と現実的な環界〟〝この二つの関数〟(P49)であり、その〝心的な領域をささえる基軸〟として<身体>と<環界>の両方から疎外された<構造>であることが仮説として提出されます。イデオロギーへのアンチとして登場した身体論や身体図といったものや後の三木解剖学の前段といえる思索がここにあります。

2009年2月 6日 (金)

現在とガチンコする『ハイ・イメージ論』

ハイ・イメージ論の可能性

 コムデギャルソンからカフカ、高層ビル、村上龍、シュンペ-ター、Aスミス、Jケージ、ブレードランナー、ソシュール、マルクス、そして〝ライプニッツにおける神〟まで取り上げている『ハイ・イメージ論』はまるで〝現在そのもの〟をターゲットにした批評理論です。しかし、その理論的根拠が語られたことはあまりありません。

 

   言語の概念をイメージの概念に変換することによって
   三部作に分離していたものを総合的に扱いたい。

 

 大和書房の全撰集7・『イメージ論』には以上のような説明があります。「イメージという概念に固有な理論、その根拠をつくりあげる」ことを目指し、哲学や現象学が定義しきれないできた<イメージ>について問い、それを根拠に現在を把握していこうとする作業です。

 〝何でもアリ〟といえる〝現在〟というものは、何の規定も制約もない状況であり、その〝ワクのなさ〟はツカミどころのない茫漠としたもの。対象も、主体も、方法さえも、自由でありフリーハンドであることの困難はほとんど全ての科学が直面してきた問題でもあるでしょう。時代をリアルに反映するサブカル文芸では内容や意味、何らかの価値さえ感じさせないものすらあります。しかし、いずれも〝商品〟としての価値を問われる(機会はある)ものでもあり、絶えず社会の中での位置づけと、個体との関係と、それらを俯瞰するハイイメージとの関係から解析されます。この『ハイ・イメージ論』では三部作を通底し、いよいよ全面的に行使される立脚点として<純粋概念>がポイントとなってきますが、もちろん<純粋○○>というタームはほとんど(全然ではない)登場しません。表象的には原理的なタームと立脚点さえ消失したかのようななかで〝現在〟が探究されていくワケです。

  無限に増殖する指示表出=モノゴトに対して<純粋概念>を対置するハイ・イメージ論。この作業に並行して、有限な遡行であることの確信のもとに自己表出=個体への探究が『ハイ・エディプス論』『母型論』 として刊行されました。そして指示表出と自己表出、この二つへの探究が本来ひとつのものであり、しかも歴史的な(現実の)ものであることを証明するかのように『アフリカ的段階について』が発表されました。この自己幻想が共同幻想となりえた時代への考察はヘーゲルが〝歴史外〟としたそのものを〝歴史の初源〟として再把握するというものです。現在、共同化しうる自己幻想はアートや文芸として表出し、それはハイ・イメージ論のように把握されますが、自己幻想の表出が政治や権力たりえた時代への考察はプリミティブな世界への探究として刊行されたワケです。そしてもう一度自己幻想が自己表出のサイドから問われるものとして『芸術言語論』が発表され、1月4日放送のETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~ともなりました。

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 このイメージ論(マス&ハイ・イメージ論)で有名?になったタームが「世界視線」。吉本さんの思想で「共同幻想」「対幻想」につぐヒツト?となった言葉でしょう。でも内容的には、このイメージ論以降、激しく反発され否定されたようです。おそらく、その理由はカンタンで、視覚情報をメインとした現代のカルチャー論議の中で、自分たちのフィールドを侵犯されると怯えた評論家やインテリさんたちの必死な反発があったということでしょうか。
 問題なのは「世界視線」の定義も理解もできていないレベルの批判がほとんどだったこと。吉本さんの全思想の大前提になっている心的現象論の基本概念である「原生的疎外」や「純粋疎外」への理解がアヤフヤなのと同じで、この「世界視線」への理解も?でした。理論的にいえば「純粋疎外」の延長線上に「世界視線」は成立するものですが、本書ではそれが臨床的な事実に即してわかりやすく解説されています。

 臨死という生命の弱化は、簡単に説明すれば心身の統合されたシステム維持能力の低下です。この心身の統合が低下し、システムのバランスが崩れるというのは、肯定的に表現すれば心身の各能力の変成であって、そこには通常では考えられない認識や受容性が生じます。そこで仮構された認識のある位相を「純粋疎外」と措定するわけですが、「世界視線」は比較的に日常でも遭遇しやすい「認識」として説明されています。
 さらには、その「日常」のレベルこそ超高度資本主義の成果であるとして、ハイ・イメージ論は驚異的な広がりと射程をもつ論考として展開されていきます。「世界視線」を可能にする変成は統合失調症そのものであり、基盤となる日常のレベルというものは経済状況と個人の観念の弁証法的な統一である特定の「階程」であり、あらゆる文芸は「世界視線」の表出という意義を持っている....。コム・デ・ギャルソンにJ・ケージ、精神病から高橋源一郎、村上龍、ブレード・ランナーやランドサット....縦横無尽の探究の中、コアとなる部分でヘーゲル、マルクスがシビアに検討されていきます。本質的に、欧米の思想とガチンコできた唯一人の思索者かもしれないと思わせる迫力が、そこにはあります。

           
ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,365
価格:¥ 1,365

   

       -       -       -

GianStep「ハイ・イメージ論を、もう一度読むべきかな」「ウェブ上では吉本氏を引き合いにだして、IT関連のトレンドについて論じているものは見かけたことがないのですが、不思議ですね。」という指摘があります。

…『ハイ・イメージ論 I 』という本は、私達が今現在を生きているというアドバンテージを最大限に利用出来るわけですから、ある程度は客観的に読みこめるでしょうし、今が読むのが旬なのかもしれません。

糸井重里さんや坂本教授がマルチメディアでハイ・イメージ論をつくったら面白そうです。もちろんGoogleEarthもコラボで…

(2006/05/15,2010/10/17)

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2009年2月 5日 (木)

<世界視線>という指示表出-人工の視線

 共同幻想や対幻想という有名になったタームがありますが、〝現在〟をめぐる論考『ハイ・イメージ論』などで提出されたのが<世界視線>でした。この<世界視線>には2つあります。2つの由来があるのです。

 人工的なものと、人間の感覚によるものの2つです。

 人工的なものはCGに代表されるテクノロジーによる視線で、ランドサットのようなものも含みます。プログラムとそれが産出する予期データによる視線です。予期データによる描画では対象の裏も表も見ることができます。リソースがあれば理論的には無限大無限遠に拡張できるものです。

 人間のものとしては想像力によるイメージがあります。名辞としての概念ではなく、視覚像に類似するイメージです。また想像力によるものとは別にサルトルやメルロポンティが取り上げていた直観像なども含まれ、臨死体験などによる疑似視覚像もあります。これも認識にいたる知覚などの統御力の低下によって発現するイメージあるいは擬似視覚像です。いずれにせよ過去に経験したものごとをデータとした範囲内のイメージだと考えられます。

 これらの<世界視線>による対象の描画は、人工のものである<線>が立体化あるいは動態化したものだと(も)いえます。そうした意味では指示表出そのものであり、だからこそ個体の意思(自己表出)とは関係なく詳細に記憶できてしまう(サバン症候群など)、あるいは見えないはずの向こう側や裏側まで見えてしまう(臨死体験やCGなど)という特徴があります。

 それは<世界視線>が立体化し動態化した視線であるということです。
 『心的現象論本論』の「目の知覚論」の次の章である「身体論」にそのヒントが示されています。

       -       -       -

 

    <手>に帰せられる知覚作用は
    ただ触覚作用だけであるといっていい。

                「身体論」(『心的現象論本論』P46)

    <手>の作用からすぐに連想されることは、
    <足>が<身体>に則した<空間>の限度を
    意味するということである。

    …<足>が<空間>の拡大と構築の働きに
    特異性をもっている…

                「身体論」(『心的現象論本論』P47)

 

       -       -       -

 頭部と(限界のある)姿勢によって固定されている<眼>は足で移動することによって<視線>を変え、対象を自由な視点から見ることができるようになります。これが<世界視線>です。移動するという行為は意志があってするものであり、そこには<志向性>があります。

 <足>による移動で視線は立体化し、対象認識は記憶(データ化)されて次の移動や視線(を準備する)のために使われます。つまり<世界視線>は運動とデータによってアフォードされているワケです。そして<志向>することによって<視る>という身体の運動(性)によってアフォードされているという点では、観念(性)ではなく身体の運動(性)として知覚の能力を発揮している直観像やサバン症候群などの特異な知覚の説明ともなります。健常的に成長して観念性が高まると直観像能力が消失するのはそのためです。胎児において観念性と運動性は同質であり等価ですが、それは成長とともに観念性の増大と運動性の縮減あるいは消失として発現します。

 (運動性の完全なる消滅は<死>ですが、中上健次が吉本理論における視線を死者の視線といったのはハズれではないかもしれません。)

2009年2月 3日 (火)

<直線>という抽象をあらわすもの

 人間は具体的な自然を対象にしているのに高度な抽象である<直線>を(で)あらわすのはナゼか? 『心的現象論本論』「目の知覚論」ではその理由を<感情>であると呆気なく説明しています。ただし『本論』ではそうですが『心的現象論序説』では独立したⅣ章として「心的現象としての感情」があり、吉本理論のオリジナルティの典型的な例でもあるかのような詳細な解説がされていて、そこには時空間概念で厳密に定義された<感情>があります。吉本理論をめぐるさまざまな論議ややり取りでもこれほど取り上げられていないパートはなく、ほとんど誰もタッチしていないのではないでしょうか。

       -       -       -

 

   <眼>の知覚はこの種の線分の集合から、
   いつも<さっぱりしたい>という感情を誘引し、
   知覚にみちびき入れる。

           「眼の知覚論」(『心的現象論本論』 P16)

 

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 『本論』では以上のように{<さっぱりしたい>という感情}が{<眼>の知覚}から誘引されるのだ、と説明されています。そしてそれが知覚へ再帰するということです。

 知覚の感官のサイドから考えれば、まず、これは閾値の問題です。
 <眼>の閾値にストライクする刺激であるかどうか、ということで、刺激量の最小限/最大限が規定されており、もっとも感官にとって無理なく受容できる刺激の質や量が問われているのだと考えられます。閾値の中央に分布する刺激であれば感官は無理なく受容できます。
 そして、それは内臓感覚(植物的階程)的な自己表出として<さっぱりしたい>というオーダーに応えるもの。外刺激に対して感官が内臓感覚と体性感覚の再帰=フィードバックの結果として収斂していく過程だと考えられます。常時環界に接している感官と心身が、その接点である知覚を環界に対して最適化していく自然過程のひとつであり、アフォードとリーチングのマッチング過程ともいえます。

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 『心的現象論序説』から『ハイ・イメージ論』まで貫き、言語論のいちばん大きく根底的な問題でもある<純粋概念>の初源がここにあります。つまり自己表出(自己確定)と指示表出(指示決定)の初源がここにあるということです。哲学的にいえば対象と主体の峻別(が)できない<何か>がここにあるのです。M・ポンティなどが問題提起しながらも対象化しえなかった、つまり把握しきれなかった問題です。

 それが<純粋概念>です。
 <自他不可分>であった胎児からはじまる観念の根本であり初源です。
 観念が了解と対象に分離しつつ、それそのものも観念の了解の構造にビルトインされている(いく)というベキ乗の再帰構造こそが遺伝子以来生命としての特徴です。
 吉本理論は三木成夫の解剖学に依拠する部分も大きいですが、『心の起源』(木下清一郎)などによれば遺伝子レベルの自己複製構造そのもの、その再帰性や入れ子構造にすでに〝心の起源〟が見出されるということで、『序説』が再帰・自己言及の構造に観念の起源と特徴を見出しているのと同じ観点がみられます。

 <純粋概念>は再帰する際に自他不可分になる了解と対象の関係性ですが、逆にそれは再帰するから自他不可分になるともいえる逆説的な両義性のうえにあります。それらが<入れ子>構造として<恒常性>を保ちつつ継続しようとするのが個別的現存であり個体としての人間です。

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 自然対象を抽象的な<線>へと変換する必然性はこの<純粋概念>を<ゼロ>としてどちらか(どこか)へ了解のベクトルがシフトする<基点>として仮構され作用します。人間の観念≧認識が<自由>であることを獲得できたのは、この<純粋疎外>を<ゼロ基点>(時点ゼロの双数性)として作用するところにあると考えられるでしょう。このアフォードとリーチングの組み合わさった<入れ子>構造こそが心的現象の初源なのです。そこからの遠隔化はあらゆる人間の営為のバリエーションと高度化の原動力となってきたワケですが、同時に、この遠隔(対称)化の阻害とそのマテリアル化が病と異常の根拠として抽出しえるところが吉本理論のひとつの大きな可能性といえます。

2009年2月 1日 (日)

高度な抽象である<直線>があらわすもの

 アーティストやデザイナー、ファッションの関係者にとっても衝撃的だったと思えるのが『ハイ・イメージ論』です。埴谷雄高vs吉本隆明の激しい論争となりビートたけしが仲裁?に乗り出したりレアな出来事でもあったコムギャル論争ですが、その理論的な決着でもあるのがイメージ論に収録されたコムデギャルソンへの批評「ファッション論」でした。ファッションやモード、デザインというものへのこれほど論理的な解釈と評価はいままでに無かったものです。印象批評の範囲ではバルトのような言い分はありますが、視線の価値(論)とともに時空間概念にもとづいたファッション論はありませんでした。

 『心的現象論本論』「目の知覚論」では縄文土器の文様にフォーカスしながら知覚の初源が探究されていきます。

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   …プリミティブなものは、
   まず、それ自体が高度な<抽象>とみなされる
   <直線>によってあらわれる。

           「眼の知覚論」(『心的現象論本論』 P16)

 

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 ここで〝プリミティブ(原始的)なものは直線によってあらわれる〟と指摘され、しかも直線は高度な抽象(人工)だ〟と説明されています。

 これを吉本理論の言語論に置き換えれば〝自己表出はある単位にあらわれる〟しかも〝単位は高度な指示表出だ〟ということになります。

 また三木成夫の解剖学的な知見による吉本理論でいえば〝植物的階程〟は〝動物的階程〟に〝あらわれる〟ということになるでしょう。あるいは内臓感覚は体性感覚にあらわれるということになると考えられます。

 

 価値論としては〝価値は単位にあらわれる〟〝単位は○○だ〟ということになります。
 マルクスのように資本主義を表現する場合にも、ある意味でとても簡単な換喩なのですが〝価値は商品にあらわれる〟〝単位は商品だ〟ということになり、即物的に現前するのは〝商品(だけ)だ〟という指摘ができます。価値自由の資本主義を体現しているのは商品そのものだということになります。

 文芸の世界でいえば〝文学は単位にあらわれる〟〝単位は言葉だ〟ということになり、これは小林秀雄が示唆し続けたとおりのことです。そこには言葉があり、言葉しかありません。そして、この〝言葉しかない〟欠如感や未達成感、閉塞感そのものが文芸のポテンシャルだと考えられます。
 その点で言葉は自己表出〟なのですが外在(表現)させた途端に〝言葉は指示表出〟なのだということが最重要なポイントでしょう。

 資本主義は貨幣に自己表出しますが、貨幣は使われなければ価値を発現(指示表出)しません。使われない貨幣が内在させているのは<信用>という全般的な可能性だけだと考えられます。そしてあらゆる<信用>の権化として<国家>が生成し、<貨幣>の発行と、<信用>の極限である<殺生与奪権>を行使します。

 

 縄文土器の文様に表出した<直線>への論考から超高度資本主義の考察、解剖学的な身体各部の発生や相互の関係、それらすべての動因となる心身とその心的現象の探究…その驚異的なポテンシャルと可能性の原点として心的現象論があります。『心的現象論本論』の刊行は大きなチャンスですが、『心的現象論序説』の復刊も待たれます。

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