<線>という指示表出-はじめての<人工のもの>
『心的現象論本論』の「目の知覚論」は<眼>についての論考ですが、すべての知覚についての理論として読むことができます。明晰な理論と分析を特徴とし、あらゆる現象から人間を解いていく機能を備えた西欧の哲学も、ここでは明晰に哲学そのものの限界を示すものとしてフォーカスされています。次の「身体論」では「現象学的な還元が、きわめて有効な遁走である」と宣言される『心的現象論序説』以来『本論』まで継続してきた「思想的に貴重な課題」を『眼と精神』(M・ポンティ)に見出しながら展開される本書は圧倒的な一冊です。
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…描くという作業のなかで
<変形>はなぜ必然化されうるのか?
「眼の知覚論」(『心的現象論本論』 P12)
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人間は精密描写が得意ではありません。視たものを視たままにそのまま描き写せばいいのですが、それができません。鍛錬しないと精密描写はできないのです。ところがサヴァン症候群の人たちのようにロンドンの街並みを一度眺めただけで精密描写できたり、一度聴いただけで楽曲を覚えてしまう人もいます。
人間はなぜ<そのまま>描けないのでしょうか。これは逆に考えれば<そのまま・でない>ものを描いているともいえます。この<そのまま・でない>ものとは何でしょうか?
<そのまま・でない>つまり<対象そのもの・でない>ものとは何か? ここに大きなヒントがありそうです。
描こうとする<対象>とは景色であったり物であったりマテリアルです。すると<対象そのもの・でない>というのは<マテリアル・でない>ものだというコトになります。
そして{<そのまま・でない>ものを描いている}ワケですから、この<対象そのもの>とは違う部分や、<対象そのもの>と<そのまま・でない>ものとの違い=差異に具体的なヒントがあるワケです。
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たとえば対象を自然にありふれた草原や森林の風景だとします。それを描き写すとすると、その絵は線の集積になるでしょう。その<線>は自然にはありえない抽象的な幾何の基本の形態であり<点>とともに単位になるものです。
描かれる<線>の単位は直線(<点>の連続)なのですが、自然には完全な直線というものはほとんど存在ません。自然界にあるのは1/fゆらぎと呼ばれる波形の集積やフラクタルな自己相似な形状で、川のせせらぎや樹の枝、海岸線の複雑な凹凸に代表されるもの。それらは波状であり曲線であり複雑です。
人間はこれらを<線>を単位としたものの集合集積として描き現します。
ここに人間の特徴が現われているワケです。曲線の直線化、波状の単純化といった認識の変換(認識対象の変換)といったところに<人間性>というものが顕在化します。
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人間が自ら創出し生成した<指示表出>がココにあります。
それは<指示表出>というものの原初の形だといえるのではないでしょうか。
はじめての<人工のもの>の登場といえるかもしれません。
自然の形状を人工の形状に変換してしまう人間。この変換の仕組みや認識に<人間性>というものの原点があると考えられます。
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認識上の要因として心的現象が、作業として労働が、表現として芸術が、ココに登場します。人間の歴史が始まるところがココにあるといえるのではないでしょうか。
心的現象論本論
著:吉本 隆明
参考価格:¥8,400 価格:¥8,400 |
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