OnePush!お願いしまーす!

無料ブログはココログ
2023年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

とれまがブログランキング

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月25日 (日)

<線>という指示表出-はじめての<人工のもの>

 『心的現象論本論』「目の知覚論」<眼>についての論考ですが、すべての知覚についての理論として読むことができます。明晰な理論と分析を特徴とし、あらゆる現象から人間を解いていく機能を備えた西欧の哲学も、ここでは明晰に哲学そのものの限界を示すものとしてフォーカスされています。次の「身体論」では「現象学的な還元が、きわめて有効な遁走である」と宣言される心的現象論序説』以来『本論』まで継続してきた「思想的に貴重な課題」を『眼と精神』(M・ポンティ)に見出しながら展開される本書は圧倒的な一冊です。

       -       -       -

 

    …描くという作業のなかで

    <変形>はなぜ必然化されうるのか?

             「眼の知覚論」(『心的現象論本論』 P12)

 

       -       -       -

 人間は精密描写が得意ではありません。視たものを視たままにそのまま描き写せばいいのですが、それができません。鍛錬しないと精密描写はできないのです。ところがサヴァン症候群の人たちのようにロンドンの街並みを一度眺めただけで精密描写できたり、一度聴いただけで楽曲を覚えてしまう人もいます。

 人間はなぜ<そのまま>描けないのでしょうか。これは逆に考えれば<そのまま・でない>ものを描いているともいえます。この<そのまま・でない>ものとは何でしょうか?

 <そのまま・でない>つまり<対象そのもの・でない>ものとは何か? ここに大きなヒントがありそうです。
 描こうとする<対象>とは景色であったり物であったりマテリアルです。すると<対象そのもの・でない>というのは<マテリアル・でない>ものだというコトになります。

 そして{<そのまま・でない>ものを描いている}ワケですから、この<対象そのもの>とは違う部分や、<対象そのもの><そのまま・でない>ものとの違い=差異に具体的なヒントがあるワケです。

       -       -       -

 たとえば対象を自然にありふれた草原や森林の風景だとします。それを描き写すとすると、その絵は線の集積になるでしょう。その<線>は自然にはありえない抽象的な幾何の基本の形態であり<点>とともに単位になるものです。

 描かれる<線>の単位は直線(<点>の連続)なのですが、自然には完全な直線というものはほとんど存在ません。自然界にあるのは1/fゆらぎと呼ばれる波形の集積やフラクタルな自己相似な形状で、川のせせらぎや樹の枝、海岸線の複雑な凹凸に代表されるもの。それらは波状であり曲線であり複雑です。

 人間はこれらを<線>を単位としたものの集合集積として描き現します。
 ここに人間の特徴が現われているワケです。曲線の直線化、波状の単純化といった認識の変換(認識対象の変換)といったところに<人間性>というものが顕在化します。

       -       -       -

 人間が自ら創出し生成した<指示表出>がココにあります。
 それは<指示表出>というものの原初の形だといえるのではないでしょうか。
 はじめての<人工のもの>の登場といえるかもしれません。

 自然の形状を人工の形状に変換してしまう人間。この変換の仕組みや認識に<人間性>というものの原点があると考えられます。

       -       -       -

 認識上の要因として心的現象が、作業として労働が、表現として芸術が、ココに登場します。人間の歴史が始まるところがココにあるといえるのではないでしょうか。

           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
参考価格:¥8,400
価格:¥8,400

   

2009年1月23日 (金)

In A Silent Way

観ましたか?

1月4日放送のETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~

吉本さんの著作がズラッ~と並べられた光景。

 

      イン・ア・サイレント・ウェイ

 

そこに聴こえてきたのが「In A Silent Way」です。

           
In a Silent Way

アーティスト:Miles Davis
参考価格:¥705
価格:¥586
OFF : ¥119 (17%)
   

       -       -       -

あの、圧倒的な存在を感じさせる漆黒の名曲。マイルスデイビスがロックした、存在感そのものみたいな曲です。う~ん、このセンスには参った! この番組、本気で作ってくれてますね。

ところで、In A Silent Wayは70年代からのロックの時代に先んじてマイルスが放った強烈な一発。モードの自由さを手に入れモダンジャズというジャンルを確立したマイルスは、そこで止まっていなかったワケです。

「お望みなら、世界最高のロックバンドを組んでやろうか」といって作られたJack Johnsonの1年前。すでにマイルスの中には次の時代を圧倒するビジョンがあったんですね。

その2年後72年。on the Cornerをリリース。このプリミティヴでタイトなリズム。しかもダンサンブル…。現在のR&BからDJまで、この成果と影響なしにはありえなかったといわせるアルバムでした。

やがてマイルスコンボからはチックコリアハービーハンコックジョーザビヌルをはじめ、あらゆるジャンルに影響をあたえるような面々が生まれてきました。DTウオーカーやWWワトソンなど今のファンクやダンスMを産出しているものからピートーコージーのようなハチャメチャな前衛まで、ノンジャンルでしかも時代をも超越したような散種。現代の音楽の大きな系統樹を生み出してきたわけです。

       -       -       -

マイルスコンボの面々それぞれが一つのジャンルのような大きな存在となる一方で、交通事故の後長く沈黙していたマイルスが復活しました。NHKなどでそのコンサートの模様は何度か紹介されています。

それを聴いていてハッと気がついたことがありました。マイルスはアフリカ系ブラックミュージックから東欧系の牧歌的なもの、やんちゃなエレキギター日本の祭りやしょうの笛のようなものまで多種多彩なエッセンスをそれと顕さずに内在させ、そこからそれぞれのメンバーが輩出してきたのですが…。

復活後のマイルスがなぜこんなに新しいのか? 病気を持ち歳もとりつつあった彼のオンタイムなリアルさエネルギッシュさそしてPOPさ、それらへの強烈なストイックさ。痛む脚をこらえながら相変わらず圧倒的な存在感を示すステージ上のマイルス…。

復活した彼の音楽にはどこかで聴いたようなデジャブがありました。これは…。マイルスが多彩なメンバーをコンボに加えていたのは、それが彼のエッセンスにもなったからなのでしょう。もともとハービーハンコックを原点とするハードコアなファンクを聴いていた自分には復活したマイルスにデジャブがあったのです。マイルスは多くのメンバーに影響をあたえてきた…でも、もう一つ言えることは、マイルスは彼らからさまざまなものを吸収していたんだ、ということです。

       -       -       -

ハービーハンコックのHEAD HUNTERSFUTURE SHOCK にノリノリだった自分は、マイルスが見事に自らのエッセンスにしていった素晴らしいメンバーの味がマイルスの音楽ににじみでるのを感じることができました。メンバーはマイルスに影響され育てられましたが、マイルスがメンバーから獲得したものも大きかったのです。

吉本さんの本はよく読みましたが原理論で現代を分析批評した『ハイ・イメージ論』には感動しました。そこでは音楽や都市、ファッション、村上龍といった個別の具体的な商品に象徴される現代そのものがフォーカスされ、無限大に増殖する資本主義のアイテムがどれも鮮やかに解析され価値が評価され消費者としての自らが問われていきます。この、あらゆる雑多なだけれど魅惑的な対象を同じように取り扱っていく方法論は何だろう? 観点はどこにあるのか? 対象が何であれ揺るぎない観点からそれらはフォーカスされていますが…。

吉本さんの観点は<純粋概念>でした。『心的現象論序説』以来ずっと根底に流れる方法論が、最も複雑で変化に富み、リアルタイムで変遷し続ける現在を捉えていたのです。イメージ化された言語、言語のようなビジュアル、それらが生成する共同性…『イメージ論』のあとがきで宣言されたように、現在をリアルに把握するための『共同幻想論』と『言語にとって美とはなにか』が『ハイ・イメージ論』(『マス・イメージ論』を含む)としてリリースされました。

<純粋概念>…それは<ゼロの発見>に相当するものです。

現在をリアルに捕捉し続けるその方法論は、<純粋概念>をベースにしながらも現在そのものからマテリアルとテクノロジーを獲得しつつ生成され続けているのでした。それは筑波科学博で体験したヴャーチャルなデモやランドサット衛星から<世界視線>を考え、物理化学の<オルト・メタ・パラ>といった位置概念を文芸批評の確固たる視点の基礎として応用したり、常に現在と照応しながら方法(論)を構築してきた長い営為の成果でしょう。

       -       -       -

もっと吉本さんの用語に即していえば、無限に増殖し続ける資本主義のアイテム=指示表出そのものを内化して絶えず自らの自己表出のもとに方法論を磨いてきたということでしょう。

アップトウーデイトなメンバーからのエッセンスを吸収し続けたマイルスは最期まで<現在>でした。まったく風化しないどころか、いまだに先端をいくマイルスの凄味ともいえる存在感は、吉本さんに感じるものと同じです。

2009年1月20日 (火)

心的システムという究極

 心的システムという究極へ向かって生成するのが心的システムそのもの。境界を自己生成するという生命の特徴そのものを論拠としたクールなオートポイエーシス理論はラカン派がシステム理論との融合?をトライするキッカケを作ったりしました。<境界>そのものは何なのか?というオーダーをすれば吉本理論からの次のステップである<境界=ゼロ>のヒントとなります。<自他不可分>の<純粋疎外>状態の定義です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『オートポイエーシス―第三世代システム』 (河本 英夫・青土社)

 従来のシステム論を超える第三世代のシステム論として「オートポイエーシス」が考察される。結論からいえば「オートポイエーシスは境界をみずから作り出すことによって、そのつど自己を制作する」と著者は考える。
 そこでオートポイエーシスのなかでも最も複雑で典型的な自己言及システムである心的システムが考察される。心的システムの固有の特徴として観察システムの出現が指摘され、最終的な問題提起がなされていく。観察システムの本性として「自己を世界との関係で捉え」ることが論証され、ルーマンやドウルーズへの批判的な検討とともに無意識への否定が示され、システムの基本的定義に戻る....。
 カフカの『審判』を題材にした終章は『審判』そのもののように開いたまま閉じられる。それは読者個別のそれぞれの現実に作動可能な一冊だということを示してるようだ。

 本書は理論書だが、本書から大きな影響を受けた本として斎藤環の『文脈病』があり、斎藤の現在の批評活動そのものもシステム論との反復作動が目立つ。

 またオートポイエーシスの最重要概念である「自己の境界を区切るというシステム-環境」を支える「位相学的座標軸」などは、ほとんど吉本隆明の『心的現象論序説』における基本概念の「原生的疎外」「純粋疎外」などの位相学的構成 とオーバーラップする。
 本書はさまざまな散種が期待される一冊だといえるだろう。

           
オートポイエーシス―第三世代システム

著:河本 英夫
参考価格:¥2,730
価格:¥2,730

   

(2004/3/26)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

2009年1月19日 (月)

バブバブ・リーチング

赤ちゃんはリーチングする。
手を伸ばしてブンブン、足をバタバタ。手足を伸ばしたりちぢめたり。
バタバタ、ブンブンの目的はただ一つ。自分をアフォードしてくれるものを手さぐり足さぐりして探してるワケです。

そして、このリーチングは胎盤にくっついてる時からシワシワのジーちゃんバーちゃんになるまで続きます。しかも、このリーチングは物理的な身体の運動としてだけではなく、観念の運動としても働きます。人間が人間になっていくのは、この観念のリーチングのおかげ。

それが、心ですね。その動きが心的現象です。

観念の運動として自己意識が起動しはじめた頃から活発化するのは象徴界のリーチング。つまり指示決定を探すこと。 親は子にリーチングの対象となるものを与えます。食事から躾、教育、社会経験…。

人がリーチングしていく、この姿が物語の典型例です。
そのメガトレンドは、歴史?

       -       -       -

ところで、指示決定や象徴界を消失したらどうするか。
リーチングしても何の手がかりも無かったら?
あるいは物語が消失していたら…。
答えはカンタン。どうもせず代替機能とその運動が即座に起動すると考えられます。(<病>は代替機能の結果の一つです)

想像界だけでリーチングするワケです。

想像力と思考能力を駆使した想像界でのリーチングとファイト? そのぼう大な結果は、世界そのものの情報(量)としてアーカイブされてきた、K,Marxが本源的蓄積と呼ぶような全人類の全世界史的な<データ>…個にとっての環界です。

それを自分のものにする=内化するには、まず、環界=世界にアプローチしていくという<関係>が前提にあります。<関係>のポイントはいくつかあって、ひとつはデータを感受するための感性のシステムである<知覚>。 ひとつはアプローチする<力>としての<労働>。

<データ>に感覚器の<知覚>でプラグインして、想像力と思考で<力>をコントロールしながらアプローチする。ポイントは<コントロール>。自己をコントロールするワケです。
想像界の最重要ポイントは自己コントロール....つまり自己言及することなのです。

自己コントロールされてない知覚のプラグインは、単に陶酔や薬で飛んでるだけの世界であり、これらが何のカルチャーも生めない理由もそこにあります。それは自己コントロールゆえの認識ではないから。抑圧・去勢されていないから、です。単なるジャンクであり、たいていは何の強度もなくフラットでしかないもの。

そして自己コントロールされてない(できない)もうひとつの状態が<病>。
自己コントロールできないゆえのオカシサさと、
自己コントロール外で指示決定されてしまうというハズれ方。

このハズれ方を社会的に制御したものや個人的に認知したものはあり、祭りや神事として、あるいはサブカル的なものとして社会や個人の範囲内という限定付で認知を与えられコントロールされていきます。

すべてをビルトインしていく資本主義とその階程ごとの認識と表出が必要となり、また生成します。

           
アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))

著:佐々木 正人
参考価格:¥1,260
価格:¥1,260

   

(2001/9/15)
--------------------------------------------------------------------------------

2009年1月18日 (日)

イナイイナイバア

<p><p><p><p><p><p><p>■イナイイナイバア・・・   97/8/30</p></p></p></p></p></p></p>

赤ちゃんをあやして、笑顔や可笑しい顔をします。

でも、笑顔だけ可笑しい顔だけといった単調な表情では、

赤ちゃんは笑わなくなります。

表情の変化がなければ赤ちゃんは笑いません。


そこでするのが、イナイイナイ・バア。


イナイイナイ・バアは何度くり返しても、赤ちゃんは笑います。

イナイイナイとバアの簡単な組み合せ。
くり返す、くり返し。



顔の見えないイナイイナイは

赤ちゃんがひとりぼっちになる瞬間です。
赤ちゃんの瞳は、いっしょうけんめいに誰かを探します。


 バア

 ここだよ バア



赤ちゃんは誰かの顔を見つけたとたん笑いだします。


 イナイイナイバア


赤ちゃんの時から知っている、出会いと別れ、ですね。


大人になっていろいろなことを知るわけでもなく、
赤ちゃんだから何も知らないわけでもありません。


出会いと別れのワンセットになった感覚と感情は、

すべての人間の感性の源。

大人の文化は、

この出会いと別れの微分にすぎないのではないでしょうか。

このゼロ(出会い)と無限大(別れ)を行き来する距離感こそ、

認識のパースペクティブ。

それは、たった一つの、認識の原点。思想の源のハズです。



97/8/30
--------------------------------------------------------------------------------

2009年1月15日 (木)

感覚の基本とか

<p><p><p><p><p><p><p><p><p>■感覚の基本とゆーと・・・   2000/10/1</p></p></p></p></p></p></p></p></p>


  視覚が無い生き物はいるが、
  触覚が無い生き物はいない。

                    (『羊書』テーゼ?)




  視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ

                    (『エクリ』から『構造と力』に引用)

 
 
 
 
 
 

聴覚は触覚が外延空間を対象として拡張したもの。人間の心身の統御にいちばんの影響をあたえる知覚であり、死に際して最後まで機能している感覚でしょう。




(2000/10/1,2009/4/7)
--------------------------------------------------------------------------------

2009年1月13日 (火)

享受・受容・感覚の位相?

<p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p>■感覚の位相つーかなあ・・・   2000/10/11</p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p>


代謝レベル      体内感覚     内臓性 ↓  体内感覚

分子レベル      味覚、嗅覚    浸潤性 
  味覚
                             ↓  嗅覚
物理レベル(ロー)  触覚と運動   接触性 ↓  触覚
物理レベル(ハイ)  聴覚       共振性 ↓  聴覚
物理レベル(超)   視覚         化学性 ↓  視覚
  
情報レベル      脳、神経      情報性  ↓  頭脳感覚




 人間の認識を言語のレベルでだけ考えても限界があります。
 それぞれのレベル間での情報の交換や照応の中で特定レベルからの認識の志向性がどのような具合に遠隔化されたり近隔化されたりするのかを考えます。下層レベル(より身体寄り)の鍛練をすると上層レベル(より観念寄り)の認識力が強化されることはアメリカをはじめとして乳幼児教育から健康増進の現場で確認されつつあります。

 もちろんスタートでありゴールである原意識・原志向性生成する“場” を把握理解できなければどのような認識論もソーカルごっこの相手をしなければいけいことになるワケです。

2000/10/11
--------------------------------------------------------------------------------

2009年1月12日 (月)

リスペクト!『心的現象論序説』

<p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p>■宣伝『心的現象論序説』つーかねえ・・・   2004/4/7</p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p>

 『心的現象論序説』の宣伝・プロパガンダ?です。
 吉本理論の原理論でありながら絶版?になっている『心的現象論序説』。未刊行の心的現象論の「本論」と絶版の「序説」を合わせて豪華本『心的現象論』がでましたがオンデマンド本?&豪華本ということで大変な高価なものになってます。吉本隆明の最強資料集を構築しつつある猫々堂さんの「吉本隆明資料集」からは「本論」が分冊ででています。

  フロイトとマルクスと、オートポイエーシスの心的システム論などをも参考にすると難解で有名なこの『心的現象論序説』を理解するにはプラスですが、ソシュールもラカンも紹介されてない38年も前に、これだけの思索をした吉本さんの驚異的な能力にリスペクト!です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ある意味で『心的現象論序説』はフロイトの理論をマルクスの疎外概念で再把握し、自己組織論的な位相概念を導入したものです。
 フロイトへの緻密な孝察は、フロイトを批判する各種の言説へのスルドイ検討をともなっていて、その過程で実存主義や現象学へのラジカルな批判もなされています。それ以外の理論展開でも、ベルグソン、ハイデガー、フッサール、Mポンティといった思考の原理に迫るいくつもの思想への鋭利で深い洞察がなされ、ジャンルやカテゴリーを超えた理論が展開されています。

 現存在でしかない個体への身体理論的なアプローチや、心が生成する時のフロイト的な着想心を表出させる時ソシュールやチョムスキーを先取りする視点、統御されつつ変化する個体のシステム論的な孝察、倫理や宗教の原点をフォーカスする原理的な思考の射程....。

 カテゴリーを超えた人間の原理論としてこそ評価されるべき内容が『心的現象論序説』にあります。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

           
心的現象論序説 改訂新版

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 479
価格:¥ 479

   

(2004/4/7~)
--------------------------------------------------------------------------------

2009年1月11日 (日)

『アフリカ的段階について』ヘーゲルを解剖学した世界観?

ヘーゲルを解剖学でフォローしたフーコー的世界観?

―――――――――――――――――――――――――――――
 大澤眞幸らに現代の奇書といわれた本書。その根幹はヘーゲルだ。ヘーゲルからインスパイアされてこういうコンセプトを見出した著者のユニーク?さに脱帽する人もいるかもしれない。ネイティヴな世界へ、ヘーゲルに依拠しながらもヘーゲルを超えていく思索が展開される。

 解剖学の三木成夫の影響を受けた著者のモチーフでいえば、個体発生は系統発生を繰り返す…というセオリーを逆転させたものが本書のモチーフかもしれない。つまり世界の歴史(系統発生)というものは人間=個体の発生をなぞるものだ…人間の胎児期に相当するものを歴史に探しだそうとする試みが本書であり、それは<アフリカ的段階>として抽出される。

 マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王がいる。しかし、民衆は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。現代も残る生贄はその形式的な継承だといえるだろう。生贄が小さくなった分だけ世界は進歩したワケだ。生贄の扱いと社会の進歩はシーソーのように反比例しながら歴史が進んでいることの証明になる。不均衡累積過程といえるかもしれない。

 この<生命の等価交換>は観念的には<対幻想>の観念と同致するものであり、吉本の膨大な思索をたどるとそのことがわかる。
 個人の心が<対幻想>を基点に遠隔対称化し、共同幻想=公的観念を自己生成する段階において、最初の政治性あるいは権力のあり方としてアフリカ的段階は考察される。
 アフリカ、アメリカ、日本のそれぞれのネイティヴの伝承などが長く引用され、ヘーゲルにとっては歴史外であるそれらの社会状態や人間の営みが紹介される。吉本的な思索の醍醐味であるかもしれない。

 『心的現象論序説』で<原生的疎外>と<純粋疎外>の差異として心=観念を抽出する一方、『共同幻想論』では<対幻想>を動因そのものとする共同観念=共同性の生成を示した。『言語にとって美とはなにか』では言語を心の表出と、その共同化による規範化などとしてクローズアップした。その後、これら初期三部作の理論の統合を目指して『ハイ・イメージ論』が展開されたが、個別の批評としての先鋭的な進化はあるものの、統一された理論というには散開しすぎた感が読者にはあるだろう。むしろ、この『アフリカ的段階について』こそ初期三部作の統合を用意するものとして読まれるべきではないかという気がする。すくなくとも新たなる共同幻想論としてその普遍性はいよいよ世界レベルに達したといえるのではないだろうか。ある意味でヘーゲルを補えるフーコー的な考古学があるとしたらこういうものかも知れないと思える。

           
アフリカ的段階について―史観の拡張

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,680
価格:¥1,680

   

(2006/10/13)
―――――――――――――――――――――――――――――

2009年1月10日 (土)

『母型論』は系統発生OK

『ハイ・エディプス論 個体幻想のゆくえ』

 『母型論』はワリとわかりやすく心的現象論を理解できるのでオススメです。
 『心的現象論序説』ではその後展開される吉本理論の基本概念や理論の基礎が構築されました。この『母型論』では心的現象のプレエディパルな部分を内コミュニケーション機能から解き明かしています。三木成夫を参照した以降の吉本理論(心的現象論)の基礎が言語論まで包括されてダイジェストのように提示されます。系統発生と受胎以降の発達をターゲットにした内容は、ラカンをはじめとした人間として形成された(以後の)個体を対象とする精神分析や心理学などに不足した部分をメインに展開される理論でもあり、必読の書です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 本書が初期3部作の、特に『心的現象論序説』の基本タームと理論の上に構築されていることに驚き、感心してしまう。たとえば、その一つは<純粋>概念をはじめとした理論展開だ。極論すると『心的現象論序説』とその後のその他の各種の論には認識論的切断がなされているのだが、そのうえで展開されるこの『母型論』にも『ハイ・イメージ論』にも、見事なほど『心的現象論序説』の基本概念にそった理論構築がされていて、ある種驚異的なものさえ感じることが出来るのだ。

 『母型論』ではもちろん『ハイ・イメージ論』の<パラ・イメージ>や<世界視線>という概念においても、そしてウイトゲンシュタインやソシュール、ラカンなどを取り上げる場合でも、この<純粋>概念をベースにした概念が決定的な意味を持っている。オートポイエーシスにおける<境界>に相当するような意味も含んでおり、その汎用性も普遍性も高いが、これほど知られていない?と思われるタームも少ないかもしれない。

 三木成夫の発生論的な認識をベースに、生命行為があくまで無機質からの遠隔対称性的な営みであることを示差しつつ、宗教へのジャッジとアフリカ的段階への射程を披露していく吉本の歩みは、この人が世界レベルの思想家であることを示すものだと思う。ここまでトーナリティを維持してきた思索を読めることは幸福だと思わせるほどだ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

           
母型論

著:吉本 隆明
参考価格:¥1,890
価格:¥1,890

   

2004/8/23
--------------------------------------------------------------------------------

「『書 文字 アジア』という贈り物」 に『母型論』と視覚、形態、概念、規範といったものをトータライズしようとしたハイ・イメージ論のベーシックな試みに触れる『書 文字 アジア』の書評があります。シズル感あふれる「与論島クオリア」のコンテンツです。

2009年1月 8日 (木)

「私が」「私は」でわかること

「私が」の「が」は主格の助詞です。
 この場合「私」がどんな自意識を持っているかはわかりません。
 母親との心理的な分離ができていない場合、自意識は全能観(感)のままで、即自的な認識のままです。たとえば母子分離していない赤ちゃんにとって自分の心身は母親の存在も含めて全宇宙そのものです。「自分が」という意識は「宇宙が」にもなり、「母が」ともなります。主語を任意に置き換えられるので「天皇」や「ライオン」にもなります。全能感のなかでは認識の分離・差異化ができていないのでの指示表出と自己表出の区別がつきません。これがその共同体の共通コードを逸脱した場合が分裂症ですね。指示表出と自己表出の区別ができていないので自分の思念が他人の声のように聞こえてしまう場合もあります。これが幻聴です。

「私は」の「は」は限定の助詞です。
 つまり「私」を限定し特定する認識があるわけです。
 「私」を分離・差異化している認識が別に存在してます。対自的認識ですここでは指示決定(表出)と自己確定(表出)の区別・峻別がちゃんとできています。この認識の差異化が進むことが複雑な思考を可能にすることです。もちろん認識上の再統合よりも差異化そのものに固執するのが神経症です。差異化した認識を再統合するのは構成同一性です。


 香山リカさんが“ゲームの中では精神異常が発現しないのはナゼか?”という問題?を提起してましたが、これはプレーヤー独りの世界だからです。ゲーム内に対戦相手がいてもそれはマテリアルな論理としてしか振る舞いをしません。プレーヤーにとってゲーム内で指示表出と自己表出(の関係)がゆらぐことがありません。東浩紀さんが指摘しているような「入れ子」構造がないからです。もしプログラム上設定されても形式論理の範疇でしかなく、ゲームは即自的な認識と全能感だけでクリアできる世界に過ぎないからです。

 以前TVで「多重人格の少女「ヒロ」」というドキュメントを見たんだけど、ある人格になると鏡を理解できなくて、鏡に映ってる自分の姿を見て「だ~れえ」とか言っていました。ラカンのいう鏡像界とは何を示しているのでしょうか?

(2001/3/8)
--------------------------------------------------------------------------------

<自己表出>と<指示表出>

<p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><自己表出>と<指示表出></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p>

 言語を2つに大別したのが「自己表出」と「指示表出」です。
 一般的に言語は人間が使うものなので、言語には主体(としての人間)があります。
 その主体(としての人間)からみて「自己表出」と「指示表出」の2つの言語があるわけです。
 語・言葉の品詞はいずれも「自己表出」と「指示表出」という2つの側面をもっていますが、どちらかだけに偏ることはありません。両方の側面をもちながら語・言葉ごとに一方の側面の強度が高くなっているわけです。

 簡単に説明すると…

   <名詞>は指示表出
   <助詞>は自己表出

…になります。そして品詞の大部分はこの2つの中間のどこかに入ります。

 ほとんどの品詞は<名詞>と<助詞>を両極とするグラデーションのどこかに位置します。そしてその語そのものにも<指示表出>と<自己表出>の両方の意味がグラデーションとしてあります。

   名詞は<何か>を指し示しています。
   助詞は<主体>を表し示しています。

 たとえばコンピュータ言語は指示表出です。
 コンピュータに<命令>を指し示す言語として指示表出であり、同じ意味で数学や記号といった形式論理はすべて指示表出です。

 自己表出の典型は助詞です。特に主格の助詞と限定の助詞として日常的に使われています。「ワタシが」の<が>、「ワタシは」の<は>などです。
 主体が自己のことを表現しているのが自己表出です。助詞は<何か>との関わりをとおして主体を表出(表現)しています。あるいは主体は<何か>との関わりをとおして自己を表現(表出)しているわけです。

 ここにとてもラディカルな問題があります。
 助詞は助詞だけでは意味がありません。
「は」とか「が」だけでコミュニケーションする(できる)人はいません。

 つまり自己表出は<何か>との関わりなしには成立しないわけです。
 これは人間という存在が常に何かとの関わりの中で営まれてきたことを意味しています。 助詞(の在り方)というものはそれが言語に現れたものといえます。

 これを応用すると助詞の使い方でその主体がどのように何かに関わってきたかということが分析できます。助詞の使い方に人間性が表出するともいえるわけです。

 数学や形式論理は指示表出だけの論理ですが、その「数論的な系でも<概念>は自然認知の程度にしたがう」という『心的現象論序説』の示唆はラジカルです。

(2009/01/08,2009/4/25)

リソースを超える?運動

『心の起源』=マテリアルを超えようとする能力?

 マテリアルな規定を受けないモノゴトなんてこの世には無いですが、そのマテリアルな根源にある時空間性を原初のリソースとして生を授かったこの世の生きとして生けるものは、あるとってもスゴイ必然とその後の努力によって、時空間を超えようとする能力を発展させてきました。マテリアルな限界を超えようとする能力です。
 それが時空を超える能力であるかのように思える観念ですね。つまり、心。もちろん、どんな心の作用=心的現象もそれ自体でマテリアルな限界を超えたり、TPOの規定を避けることはできません。でも、記録することによって情報を時間や空間の制約を超えて伝えることはできるし、観念の自由度はほとんど全てのことを可能にさせてくれる可能性があります。
 その心は、物質に対して情報を記録するコト=分子結合=遺伝子からできた情報が原点だという当り前にしてクールな思索による内容が、この『心の起源』(木下清一郎)です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

『心の起源』(木下清一郎・中央公論新社)

 著者は発生生物学者だが本書の内容は遺伝子から数学的公理の解釈まで含み、それらをフルに活用して生物が形成する集団社会まで論じながら、心というものに迫っていく。記憶が心の起源であることを示すとともに生物が自己複製反応を繰り返しながら進化することを論証する。それゆえの自己言及から必然的に生じる矛盾。著者はその生命の不安定さに<入れ子>世界を想定することで秩序の確保とさらなる進化を仮定し期待している。
 実をいうとこの部分は言語学や哲学、思想といったものがポストモダン以降閉塞している状況をブレイクスルーする理論そのものとして援用できる可能性がある(逆説的にいえば他にはない)。生命現象に即した科学書であるとともに、デッドロックでフラットなザマをさらしている人文科学に新しい可能性を与えてくれる書でもある。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

           
心の起源―生物学からの挑戦 (中公新書)

著:木下 清一郎
参考価格:¥777
価格:¥777

   

(2003/12/25)

--------------------------------------------------------------------------------

セロトニンとドーパミン

<p><p><p><p><p><p><p><p>■セロトニンとドーパミン・・・   2001/4/12</p></p></p></p></p></p></p></p>

今ではセロトニンもSSRIもポップな脳の栄養といったイメージがあります。

「心のアクセル」といわれるのがドーパミン。
このドーパミン第四受容体の多型(特定のアミノ酸の繰り返し記述があること)が性格に影響を与えているのはイスラエルのエブスタインやアメリカのベンジャミンの研究で明らかになってきた脳のマテリアルなファクター。

 

   ドーパミン第四受容体多型の分布

               7回配列   2回配列

     アメリカ人    48.3%    2.9%
     アジア人      1.9%   18.1%
     日本人       0.0%    -

 

「心のブレーキ」といわれるのがセロトニン。
セロトニン・トランスポーター遺伝子はs遺伝子とl遺伝子があって、
s遺伝子はセロトニンをトランスポートする能力が低く、
この遺伝子を持っていると不安化傾向が強いという可能性がある。

 

               s遺伝子   l遺伝子

     アメリカ人    67.7%    32.3%
     日本人     100.0%      1.7%

 

 観念や意志、意識など心的現象はマテリアルなファクターとシステム(の傾向)から遠隔化したものです。しかし心的現象はマテリアルな身体(性)に依存しながらも、身体やシステムに還元できません。心的現象はそれ自体として探究しなければそれ自体そのものである心的現象の世界を解明することはできないわけです。
 このいちばん困難な問題を追究し続けた心的現象論の本論が『心的現象論本論』難解で有名となった『心的現象論序説』とともに新たな探究の手掛かりとなることが期待されます。

(2001/4/12)
--------------------------------------------------------------------------------

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

にほんブログ村

ネタ本 アザーコア

オススメ DOYO