「二人称」を使う強度
『文脈病』(斎藤環)の序章の「「顔」における主体の二重化」の「「顔」という言語」のP27に大事な大事なポイントが書いてありました。
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われわれは、みずからの感覚に問わねばならない。
その刺激が「いつ」「どこで」「何(誰)によって」「誰に対して」「どのように」もたらされたか。
これらすべての疑問詞に「固有性」への問いが潜在している。
この問いを通じて、刺激ははじめて、意味へと回付されることが可能となる。
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これは『文脈病』の「抱擁函(Hug Box)と自閉症児の主体」(P279~)で示されている「自閉症児はしばしば欲求を二人称の疑問文で表現するという。」という事実やその理由を「主体化への恐れ」だという斎藤さんの主張そのものにとって大きなヒントになるもの。
それに「すべての疑問詞に「固有性」への問いが潜在している。」という上記の文章は「顔」についての考察。「固有性」とは「顔」の本質的な属性のことで、感覚刺激が「固有性のコンテクスト」をとおして「意味」になることが説明されてます。
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自閉症児ドナが「誰でもない顔のドナ」の写真が好きで、自分らしい顔を肯定できないという事実はダイレクトに、この「顔」の問題と関係してます。それは顔の問題そのものでしょう。
これらの問題はつぎのように考えることができます....
「すべての疑問詞に「固有性」への問いが潜在している。」ならば自閉症児が「欲求を二人称の疑問文で表現する」のは二人称を借りて「固有性」を問うてるんじゃないでしょうか?
二人称を借りなければ問えない理由は、「自分らしい顔を肯定できない」からじゃないでしょうか?
そして「「自分らしい顔を肯定できない」から」「二人称を借りて「固有性」を問うてるんじゃないでしょうか?」....
これらは単なるトートロジーではなくて自閉症児が主体を確立しようともがいてる姿ではないでしょうか? それを自閉症児は主体化を恐れていると判断するのは?
事実はそれとは逆で、自閉症児にあるのは自らの主体を確立しようとする強い志向性ではないでしょうか。
主体の確立という目標に到達してない分だけ強度を持った志向性だと考えられます。
それが自閉症の特徴である反復行為、常同行為の強度でしょう。
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主体を上手に確立してしまった(つもりの)健常者(のつもり)の常に意味(自分にとっての価値)を問う生き方からはなかなか理解しにくい強度ですね、コレって。
少なくない精神分析、心理学関係、プロフェッショナルからの見解が間違ってる可能性もあります。
自閉症を主体化への恐れだという斎藤さんの見解は逆だと思いますが、優れた可能性のある見解を示してるのも斎藤さんです。自閉症をとおして「器質的主体」を検討するトコなんかスゴイ元気。これなんかダイレクトに心的現象論の重要なポイントになる問題だし、浅田彰さんが『構造と力』で「根源的脱自態」の概念を導入して封印しようとしたものを明らかにするような可能性さえあるかもしれません。
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文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ
著:斎藤 環
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(2001/1/4)
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» 永遠の抱擁、5000年前の男女か [とんみんくん]
永遠の愛ですね〜。
発見者は、本当に震えがとまらなかったと思います。
このまま、この場所でそっとしておいてあげたい気もします。
でも、見たい気持ちもあります。 [続きを読む]
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