感覚に志向性
●人混みでオシャベリできるワケは?
騒音の中で意識した音だけが聴こえるのがカクテル効果。
街の雑踏の中で友だちや彼女とオシャベリできたりするのもこのおかげです。景色でも同じ。視覚のすごい情報量の中から探してるものを見つけだすことができます。森林の中で鳥を見つけたり、道路に落したコンタクトレンズを探すことができます。
これは意識が感覚に志向性を与えてるコトを示してるわけです。
そして単なるフィルター効果とはチョット違う、もっと積極的なもので、対象だけに対して鋭敏になるということでしょう。
感覚が鋭敏になるというよりも、対象(だけ)への志向性を持つということ。
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ポイントは志向性。
問題は、この志向性を生み出しているものは何か? ということですね。
感覚が鋭敏になるだけなら、その感覚が対象としてる情報すべてが増大するでしょう。視力がよくなればすべての視覚情報がよく見えるようになる....。そうではなくて、探してるものが見つかるという時の感覚の敏感さとはどういうことなのか。
特定の対象に対する感覚の鋭敏さ。
なぜ探してるものに対してだけ敏感になるかということですね。
静態的なクオリアではなくて、対象への志向性が感覚を鋭敏にしてる、そのことそのものが問題です。
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それから別の問題として、対象への志向性が強過ぎて感覚レベルでの時空認識構造のグレードを超えるとか変成させてしまうと、幻覚や幻聴が生じると考えられます。幻覚された感覚の指示決定によって通常の自己確定ができなくなる、ということ。これが妄想や幻覚、幻聴。もちろん逆に自己確定できない情報が幻覚や妄想を生成する可能性にもなります。
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感覚器が関与しない外部認識はあり得ない。
もちろん内部認識=観念≧思考には感覚器が関与しない。
それでも外部認識用の外胚細胞から脳や神経や眼球が形成されるのは、全ての認識は外部との関連によっていることの発生的な証し。外部への認識は感覚を通じた構造を経由してのやり取りで、感覚構造への内部からの変数や係数をバイアスにしたマテリアルだということです。
もちろん<物自体>にアクセスできません。
その分だけ観念(性)が発達しています。
自分の感覚構造を経由した情報を認識するシステムは生物全般にわたって共通です。
●イメージを超えるもの
ところで幻覚ではなくても何らかの像を想像することができるのも人間の特徴です。
これは外部認識とは関係しない、内部認識=観念≧思考だけによる、その分だけ観念性が高まった認識で、斎藤さんが『戦闘美少女の精神分析』でコアな論拠としてる「直観像資質」とかヤスパースや吉本さん『心的現象論序説』で言及してる「主観的視覚的直観像」と呼ばれる認識作用が代表でしょう。
そして斎藤さんが鋭く「直観像は、むしろイメージを超えるものとして表象の外部に存在する」と指摘してるように、「イメージを超え」「表象の外部」のものです。つまり視覚情報という類のものではなくて、もっと動態的なもの。
ターム的には誤解されやすいですが。これは意識が運動の観念の志向性を取りながら想像へと表出したもので、像と認識されますが、その実態は内部認識としての運動の観念の志向性そのもの。
だから想像行為が現実的な運動行為へと発展?(変成?)するにしたがって消失していく傾向がある能力(認識力)です。
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個体にとって<そこに在ること>が
<そこに居ること>として認識された瞬間から
関係の空間性とその了解の時間性が生じる。
これを原関係と原了解とする。
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<そこに在ること>という現存在了解は観念のスタートと自由度を示しています。それが現存在了解の意味ですね。
この認識の次元(≧時点)から「根源的脱自態」(メルロ=ポンティ)の概念を導入しようとした『構造と力』の浅田さんの企ても理解できますが、それだと認識にとって最大のポイントになってくる「志向性」の概念による展開が不可能。<原関係>と<原了解>(セットで現存在了解!?)から<志向性>による遠隔対称化で認識が高度化・複雑化していく過程の説明ができません。
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TPO=場所的限定から空間認識と時間認識の錯合した認識構造が展開していくパースぺクティヴこそ人類の観念にとっての本源的蓄積でしょう。それを解く重要なポイントが<志向性>であり、<遠隔対称性>です。
「志向性」によるペースぺクティヴを捨象して認識論を展開しようとすると「視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ」(ラカン)という主張をアプリオリに設定しなければならないわけです。あるいは、それを全部資本主義のマテリアル(経済=モノゴトを媒介にした関係)による構造物=構成態=機械だとするのは共産主義者であったドゥルーズ=ガタリのレベルでは有効だとしても、それではアメーバの認識さえ解明できないでしょう。<志向性>のない認識というものはあり得ないからです。
(2000/12/26)
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