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2007年2月17日 (土)

独解=<ゼロ>の発見

 

 対幻想            時点ゼロの双数性   (2001/12/18)
                  シーソーの基点=ゼロとして 

 遠隔対称性         シーソー          (2003/8/24)
                  ゼロを基点としてのバランス

 共同幻想          代入される空間性   (2001/12/5)
                  純粋言及=ゼロの代替空間として

 純粋疎外          ゼロの発見       (2004/4/23)
                   措定不能の時空間性として 

 無意識の多重性     自己矛盾と認知不全 (2005/5/13)
                  ゲーデル的限界と不可知空間として

       -       -       -

 オートポイエーシスの<境界>概念を<純粋疎外>概念で置き換えると吉本理論がとてもよくわかるようになります。<純粋疎外>を<位相ゼロ>だとすると、これはある意味でポストモダニストが夢想した理想的な構造主義の理論化であるかもしれません。システムの内部と外部を峻別する<境界>の理論的な絶対値として<ゼロ>を措定できるからです。またここを観念(意識)が志向性をもって生成していく過程の原点とすると<時点ゼロ>と措定できます。自分ではこれを<ゼロの発見>だと思って満足してます。

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 共同幻想はなぜ、どこに、どのように生じるのか?
 経済の最大のファクターである市場も、政治の最強の存在である国家も、明確には解明されていません。しかしそれらは共同幻想であり、その生成の根拠や由来を問うことができると示したのが<共同幻想>でした。

       -       -       -

 人間は個別的現存でしかないのになぜ人類が成り立つか?という若きマルクスの疑問に、吉本さんは<対幻想>という根拠を示しました。ニューアカに影響された自分は、それを<時点ゼロの双数性>ニューアカ風に表現してみました。相互に全面肯定=絶対認知される(ハズ)という幻想と、非肯定性による対幻想(全面肯定性)の非対幻想化(遠隔化)が考えられます。遠隔化された結果として共同幻想や個人幻想の属性を措定する吉本理論のスゴサは驚くばかりです。アルチュセールが毛沢東の矛盾論からインスパイアされたように、フーコーなどもこういった(理論化された)論理的な機序を知りたかったのではないでしょうか。

(2007/2/11)

独解、吉本さん

▲独解です....
 考えることが大好きな吉本さんの考えを好き勝手に「独解」してみました。独解を超えて曲解もGO。そこで気がついたこと、思いついたこと、考えてみたことなどがいくつかあり、なかにはこれはイケる!と自画自賛したいこともあります。(^。^)

 もともとはWEBで公開していたものですが、最後にカキコしてから2年以上放置していました。ナゼかというと月日が過ぎて説得力が無くならないか、無効にならないか、といったことを確かめたかったからです。やがて読者を数えるカウンターもゼロになるだろうし、風化したり経年変化するような主張は自分にとっても興味も無く、ましてやそこに価値を見出したりすることはできないと考えました。いちばん最初のテキストは96年なので、なんとスタートからは10年以上も月日が経っていることになります。インターネット創成期にはいくつかの本や雑誌でも紹介され、サブカルやオタク関連では斎藤環さんが書籍上で紹介してくれています。これは東浩紀さん、斎藤環さんらによる討論本網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』で、本屋で立ち読みして見つけたときには大変な感激でしたが、同時にちゃんと読んでいてくれる人が少なくないことには責任も感じました。そういったことも含めて、なおさらしばらくは放置してみる気になったわけです。

▲受動的な消費者ための....
 吉本理論に対しては解りにくいという声が少なくないのは確かな気がします。
 何よりも自分自身が吉本さんの本を読むのに苦労しました。全集をはじめ手当たりしだいに読んでいましたが、基本を理解しようと思い初期3部作にフォーカスしてみました。同時に趣味や大学でマルクスなど思想関係にも触れていたので、いちばん気になったのが吉本理論とニューアカとの関係です。バブル経済とともに知も商品となり、消費者が社会の主人公という了解が共有されつつある中で、これは重要?なテーマだと考えられました。

 消費者が主人公だという見解はアカデミズムや思想の世界では少なく、それだけ現実とのギャップが大きいわけですが、もちろん書籍や言説の中に真理や正しい考え方があるというスタンスは、実際の社会ではこれっぽっちも通用するわけがありません。真理は現実の中にしかないからです。しかし、行政(府=国家)はハイパーマーケット(巨大SC)に吸収されると予見するボードリヤールや、受動的な消費者こそ革命主体であると主張するルフェーブルなどの言い分は小数派でした。

 そういった情況の中で、淡々と数字を示しながら超高度資本主義(高度消費社会)で消費者=大衆が決定権を握りつつあると書いていたのが吉本さんです。経済学者で同じような根拠を示していたのは野口悠紀雄さんや中谷巌さんなど少数。自分の仕事でもあるマーケティングや企画調査の世界では常識なのですが、そういった消費者や一般的な生活の中からでてくる見解がプロや専門家の世界になるほど無いようなので、それが不思議でした。そもそもハードロックに狂っていた高校生の頃から、音楽評論家=プロが良いと評価する音楽と自分や仲間内で評価の高い音楽とのギャップに納得できませんでした。しかもヒツトするかどうかの予測もプロや評論家は50%以上外れるようになってきていて、つまり、音楽の評価に関しては決定権がすでに享受者=消費者そのものにあり、プロにはヒツトの予測すらできなくなってきたわけです。

▲TKが象徴するもの....
 その典型的な例として小室哲哉の登場とTKマジックがあります。爆発的な大ヒットを連発し、数年間にわたってNHKの紅白にも小室系の歌手を複数同時に出場させるほどでした。一方でTKは激しい悪罵も浴びました。ここで興味深かったのはTKを否定するものは作曲家、ミュージシャン、評論家などプロばかりだったこと。「音楽理論を無視している」「荒唐無稽」「わけがわからない」「カラオケ向けの商品」....しかもこれらの批判は当たっていました。現実の音(楽)が優先であって理論は後付に過ぎないこと、音(楽)を楽しむのにワク組はいらないこと、オーディエンスの聴く能力が試されること、カラオケで楽しめる大衆向けの商品であること....。TKの生み出す音楽は知が商品化したように消費者向けに商品化された音楽で、しかも、従来の音楽理論でフォローできないコードとメロディであり、それらはオーディエンスにある程度の緊張をあたえつつ新しい音(楽)世界に導いてくれるものだったわけです。でも、そのTKが自らの原点にしていたのは声と詩(言葉)でした。小室哲哉のモチベーションはあまりにもオーソドックスなスタンスにこそあったわけです。TKは間違いなく世界視線を示唆していたのではないかと思いました。

 別の言い方をすると市場という実態の動向(現実の価値)が言説でしかない評価(理論的価値)を超えるようになってきたわけです。または理論は言説でしかないので現実には通用しないということがバレてきた、ということでしょう。それでも理論に価値があるとすれば、その理論を主張している人にとっての自己主張、自己発現として。そのかわりそれは他者のジャッジ=第三者の審級を受けます。これはとても大事なことですが、それは他人にとっても価値のある理論か?という審判に常時さらされるということでしょう。

クールな理論として....
 もともと科学や物理、生物などが好きだった自分は、この世界は3次元で空間と時間の組み合わせですべてを説明できるはずだから....と考えていて見つけたのが『資本論』と『心的現象論序説』でした。
 経済は好きではなかったですが<価値>や<交換>を時空間概念で説明できるマルクスには感動しました。そしてもっと驚いたのが吉本さんです。いちばん科学的ではなく変幻自在で捉えどころがない、しかも専門書を読むと流派?ごとにアバウトか解釈が自由?そうな理屈のオンパレードになっている心理学や哲学。ところが『心的現象論序説』は心理現象が時空間性の組み合わせでキチンと説明されています。

 『心的現象論序説』の<ベクトル変容><遠隔対称性>などの概念も幾何学的なアプローチでブレの無い理解ができます。そのラディカルな概念と理論の組み立ては、まるで<水>が<H2O>と説明されているような感じでした。要所でフロイトへの深い孝察をもとに説明がなされていて、精神分析や心理学の王道も理解できます。さらにそれらの孝察は現象学や現存在分析への根源的な理解と批判にもなっていて哲学にケリがつけられてもいます。

 とにかく『心的現象論序説』はスゴ過ぎる本だったのです。

▲困難なガイド....
 現在、吉本理論と消費者をつなぐことをしてるのは糸井重里さんや渋谷陽一さんなど少数です。もちろんより専門的な立場から橋爪大三郎さんや森山公夫さん芹沢俊一さんなどがいますが、吉本理論がもっと若い世代や新しい層に多く読まれるためにはもの足りない感じがします。

 そういう状況での橋爪さんの〝社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?〟という問題提起はショックでした。吉本さんをどう記述するんだろ? あの難解な理論をどう説明するんだろ? だいいち説明できるほど理解した人がいるんだろか? ファン?やアンチの人たちの持ち上げたりコケにしたり、そんな言い分は目につくけど、吉本理論へのクールな解読やガイドは少ないし、アカデミシャンになるほどヘン?....。正当な解読はないのか?と思いつつ、それなら正当とはほど遠いけど自分の独解を読んでもらうのも無しじゃないな、というのが「独解、吉本さん」の企てです。前述したように単なる過去ログの再UP(多少修正有り)なのですが、特に自分で意味があると思っているオリジナルな解釈も含めて、いくつか読んでもらいたいものもあります。

 吉本理論でも特に心的現象論はフロイトへの深い解釈とそれへの3つのレベルの幻想の導入が特徴ですが、これは必然的にラカンと比べられる気がします。ラカンの三界論が相互に不可分であり、その説明すら別個にはできないのと同じに、吉本理論の幻想論や諸概念も個別の説明はムズカシイでしょう。
 ニューアカの聖典?でもある『構造と力』はラカンを構造主義の限界として紹介したものであり、またラカンの限界をソシュール的な認識と視覚像の認識の関係に見出した『文脈病』なども現在の必須のものでしょう。そのため自然にそれらを取り上げながら吉本理論を独解することになりました。また対幻想から共同幻想への遠隔化を権力(の構造)が生成する過程として描ける可能性は宮台真司さんの権力論にも見出せます。大塚英志さんの物語論的なアプローチは共同幻想論の位相ともシンクロします。
 <死>という最大のストレスに対する反応の微分と積分が物語であり、そのシステム化がマテリアルを用意し現存在分析をも踏まえて歴史へ表出しますが、吉本理論はその全過程をフォーカスしているのではないでしょうか。

(2007/2/17)

2007年2月15日 (木)

ハイ・イメージ論の可能性

現在とガチンコする『ハイ・イメージ論』

●<組み込み>というマジック

 ホント?にマルクスを読んだ人間ならばワカルコトに「組み込み」とか「埋め込み」という概念があります。ヘタな例えをすれば、免疫の仕組みやオートポイエーシスのシステム論のようなもの。体内に入った異物は白血球によって捕捉されてはじめて<異物>つまり自分とは違うものとして認識されます。つまり異物は白血球の内部に<組み込>まれてはじめて<異物>として認知されるワケです。免疫機構は<異物>を<組み込>むコトで<対象化>するという仕組みになっています。

 マルクスは同じように<人間>は<労働>を媒介にして<自然>を<組み込>んでいく....と考えました。マルクスのいちばん難解?な<人間的>とか<有機的自然><非有機的>だの<自然的>とか<人間的自然>とかいう概念の定義や相互関係は、この<組み込>の論理によってトーナリティを持ち、それがマルクスの世界観の基礎を形成しています。また唯物論そのものがこの<組み込>みを通してマルクスの思想に内化されているともいえます。

●マルクスの<組み込み>への批判

 <自然>を<組み込>むことで構成される<人間的>世界は、それがひとつの時空間の系として<入れ子>となり単独の世界を構成しています。

 これに対しての批判的な検討というものを見たことはありませんが、吉本さんが『ハイ・イメージ論Ⅱ』の「自然論」でライプニッツの神から必然性を導き出し、ヘーゲルから自然の人間への組み込みを考察し、そこからマルクスの<組み込み><埋め込み>概念の検討へという仕事をしています。その論考そのものが貴重なものですが、驚くべきは、そこで吉本さんがマルクス批判をしていることです。
 この<組み込>まれるものを<精神>に置き換えた論議は吉本さんとフーコーの対談でのテーマでしたが、両者が相手に可能性を見出そうとするところで終わっており、残念であるのは吉本さんの読者共通の思いかもしれません。

 『ハイ・イメージ論Ⅱ』収録の「自然論」におけるマルクス批判は以下のようなもの。

       -       -       -

 P180)
 本来的にいえば摂動(ゆらぎ)として、余裕、反響、戯れ、遊び
 として存在した交換作用を、ぬきさしならない「組みこみ」の概
 念に転化してしまった・・・

 P180.181)
 ほんとうは人間という自然の一階程は、そのなかに非有機的な
 階程と、植物的な階程と動物的な階程をぜんぶふくんでいて、
 これが余裕、反響、戯れ、遊びとしての摂動(揺らぎ)を人間に
 あたえているにちがいないのだ。これは本質的にだけいえば人
 間の不変の条件としてあるはずなのに、マルクスの人間という
 自然からは消えてしまった。

       -       -       -

●<考えられらたもの>の限界

 科学的な認識だの論理的な孝察が概念の均一性を前提としたある蓋然性に依拠したものであるという思考の限界の中で、たとえばフーコーは中国の分類方法に何らかの可能性を見出そうとし、最期には、それもある蓋然性でしかないことに気がつき『言葉と物』における自身の方法論に懐疑を持ちます。

 フランス革命を準備した百科全書だろうが、世界を革命できると説いた唯物論弁証法だの史的唯物論だろうが、自然と人間の入れ子構造のトーナリティである関係をマテリアルの基本に据えつけたマルクスだろうが、それが思念されたもの、考えられたものでしかない....という限界に、吉本さんは気がついてしまいます。
 奇書とさえいわれる『アフリカ的段階について』のベースにある問題意識はそういうものです。そして、そういうスタンスこそがフーコーが可能性を見出そうとした博物学民俗学からの成果を現実のものとして探究のなかに取り込んでいける唯一の可能性でしょう。

           
ハイ・イメージ論2 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,365
価格:¥ 1,365

   

●<身体>の<階程>へ

 A.スミスの論考に労働から哲学が生じるポイントを見出したり、価値の差異を身体の内臓の差異にまで還元する論理を探し当てたりした吉本さんは、ついにマルクスの<組みこみ>の概念にも限界を見つけてしまったわけです。
 しかもこれは三木成夫の解剖学をはじめとするあくまでマテリアルな基礎を前提とするもの。身体内に植物的階程動物的階程を峻別することによってはじめて可能となる孝察であり、それぞれの階程とその環界に対するそれぞれのレスポンスを統合的に内化していくシステムとしての身体にあらたな人間主体を見出したともいえるでしょう。もちろんそのような概要なり前提が理解できないものには「奇書」という評価が限界かもしれないのが、現在のレベルであることも確かかもしれません。

 コジェーヴがアメリカに見出した「動物化」はマルクスが資本主義に見出した「動物」そのもの。しかし吉本さんはそのマルクスの「動物」的概念を、個々人に内在する動物的階程への還元という....A.スミスが労働する身体に哲学や価値を見出したのと同じ手つきで....ベクトルで探究していきます。

 『ハイ・イメージ論Ⅲ』の「消費論」では現在の消費資本主義の日本をテーマに「動物」概念が考察され、その後の展開は広く開かれたまま終わります。
 『ハイ・イメージ論』は批判学ですが、『アフリカ的段階について』他いくつかの言説ではまったくちがったベクトルを見出せるものもあり、人間の肯定としてのそれらの論は文芸をはじめとしたあらゆる表現への賛辞としての趣をもっています。そのスタンスで書かれたのがコム・デ・ギャルソンへの評価であり、J.ケージ論です。

           
ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
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       -       -       -

読書と映画をめぐるプロムナード「音と言葉の交流、「音楽機械論─ELECTRONIC DIONYSOS」(吉本隆明、坂本龍一著)」にポストモダンに突入(超高度経済成長をはじめた)した日本を、音楽の面から語った教授(坂本)と思想家(吉本)の対談本が紹介されています。引用されている小沼純一さんの「実はそういうところから音っていうのは作られるんだよ」という言葉がデジタルへのラディカルなクリティークになっていたり、今こそ新鮮で必要なテキストかもしれません。

           
音楽機械論 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明 , 他
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「哲学の科学」では「哲学は、なぜいつも間違うのか?」などほか科学をベースにさまざまなアプローチで人間、言葉、思考、感覚といったものへの思索がめぐらされています。その根源的な問いは現代社会だからこそ新鮮。必読のWEBです。

(2004/12/7,2010/10/17,2011/12/31)

2007年2月10日 (土)

感覚に志向性

●人混みでオシャベリできるワケは?

 騒音の中で意識した音だけが聴こえるのがカクテル効果。
 街の雑踏の中で友だちや彼女とオシャベリできたりするのもこのおかげです。景色でも同じ。視覚のすごい情報量の中から探してるものを見つけだすことができます。森林の中で鳥を見つけたり、道路に落したコンタクトレンズを探すことができます。

 これは意識が感覚に志向性を与えてるコトを示してるわけです。
 そして単なるフィルター効果とはチョット違う、もっと積極的なもので、対象だけに対して鋭敏になるということでしょう。
 感覚が鋭敏になるというよりも、対象(だけ)への志向性を持つということ。

       -       -       -

 ポイントは志向性。

 問題は、この志向性を生み出しているものは何か? ということですね。

 感覚が鋭敏になるだけなら、その感覚が対象としてる情報すべてが増大するでしょう。視力がよくなればすべての視覚情報がよく見えるようになる....。そうではなくて、探してるものが見つかるという時の感覚の敏感さとはどういうことなのか。
 特定の対象に対する感覚の鋭敏さ。
 なぜ探してるものに対してだけ敏感になるかということですね。
 静態的なクオリアではなくて、対象への志向性が感覚を鋭敏にしてる、そのことそのものが問題です。

       -       -       -

 それから別の問題として、対象への志向性が強過ぎて感覚レベルでの時空認識構造のグレードを超えるとか変成させてしまうと、幻覚や幻聴が生じると考えられます。幻覚された感覚の指示決定によって通常の自己確定ができなくなる、ということ。これが妄想や幻覚、幻聴。もちろん逆に自己確定できない情報が幻覚や妄想を生成する可能性にもなります。

       -       -       -

 感覚器が関与しない外部認識はあり得ない。
 もちろん内部認識=観念≧思考には感覚器が関与しない。
 それでも外部認識用の外胚細胞から脳や神経や眼球が形成されるのは、全ての認識は外部との関連によっていることの発生的な証し。外部への認識は感覚を通じた構造を経由してのやり取りで、感覚構造への内部からの変数や係数をバイアスにしたマテリアルだということです。
 もちろん<物自体>にアクセスできません。
 その分だけ観念(性)が発達しています。
 自分の感覚構造を経由した情報を認識するシステムは生物全般にわたって共通です。


●イメージを超えるもの

 ところで幻覚ではなくても何らかの像を想像することができるのも人間の特徴です。
 これは外部認識とは関係しない、内部認識=観念≧思考だけによる、その分だけ観念性が高まった認識で、斎藤さんが『戦闘美少女の精神分析』でコアな論拠としてる「直観像資質」とかヤスパースや吉本さん『心的現象論序説』で言及してる「主観的視覚的直観像」と呼ばれる認識作用が代表でしょう。

 そして斎藤さんが鋭く「直観像は、むしろイメージを超えるものとして表象の外部に存在する」と指摘してるように、「イメージを超え」「表象の外部」のものです。つまり視覚情報という類のものではなくて、もっと動態的なもの。
 ターム的には誤解されやすいですが。これは意識が運動の観念の志向性を取りながら想像へと表出したもので、像と認識されますが、その実態は内部認識としての運動の観念の志向性そのもの。
 だから想像行為が現実的な運動行為へと発展?(変成?)するにしたがって消失していく傾向がある能力(認識力)です。

       -       -       -

     個体にとって<そこに在ること>が
     <そこに居ること>として認識された瞬間から

     関係の空間性とその了解の時間性が生じる。
     これを原関係と原了解とする。

       -       -       -

 <そこに在ること>という現存在了解は観念のスタートと自由度を示しています。それが現存在了解の意味ですね。
 この認識の次元(≧時点)から「根源的脱自態」(メルロ=ポンティ)の概念を導入しようとした『構造と力』の浅田さんの企ても理解できますが、それだと認識にとって最大のポイントになってくる「志向性」の概念による展開が不可能。<原関係>と<原了解>(セットで現存在了解!?)から<志向性>による遠隔対称化で認識が高度化・複雑化していく過程の説明ができません。

       -       -       -

 TPO=場所的限定から空間認識と時間認識の錯合した認識構造が展開していくパースぺクティヴこそ人類の観念にとっての本源的蓄積でしょう。それを解く重要なポイントが<志向性>であり、<遠隔対称性>です。

 「志向性」によるペースぺクティヴを捨象して認識論を展開しようとすると「視知覚の早過ぎる成熟が機能的な先取りの価値をもつ」(ラカン)という主張をアプリオリに設定しなければならないわけです。あるいは、それを全部資本主義のマテリアル(経済=モノゴトを媒介にした関係)による構造物=構成態=機械だとするのは共産主義者であったドゥルーズ=ガタリのレベルでは有効だとしても、それではアメーバの認識さえ解明できないでしょう。<志向性>のない認識というものはあり得ないからです。

(2000/12/26)

2007年2月 8日 (木)

無意識の多重性

●無意識には2つある

 無意識つまり意識できないコト、対象化できないコトには2つのレベルが考えられます。位相的には<内部への認知>と<外部への認知>それぞれにともなう矛盾として把握できます。
 それぞれに大きな特徴があります。

       -       -       -

 哲学的心理学的な思索からはじまった『心的現象論序説』ですが、その後吉本理論は三木成夫の解剖学を参照し具象性が高くなります。そこでは<内部への認知>と<外部への認知>はそれぞれ<植物的階程><動物的階程>に対応するでしょう。ここでは論理的な展開として考察し<自己言及>とその限界と矛盾である<ゲーデル問題>として抽出しています。

       -       -       -

<内部への認知>は絶対に言及できないモノゴト≧自己そのものを動因としています。<外部への認知>は認知を予期できる可能性を担保として作動します。

自己言及が不可能な領域   (自己矛盾)
  ゲーテル的限界を特徴とする自己言及できない領域としての無意識
  自覚できない自己意識としての無意識

 <内部への認知>は絶対に言及できないモノゴト≧自己そのものを動因とする
 あるいは
 絶対に言及できないモノゴト≧自己そのものを動因とする<内部への認知>
 ....以上のように考えられます。

不可知な領域としての無意識   (認知不全)
  指示決定されながら自己確定不能の対象(性)としての無意識
  外部からの情報に対する不可知であるがゆえの無意識

 <外部への認知>は認知を予期できる可能性を担保として作動する
 あるいは
 認知を予期できる可能性を担保として作動するのが<外部への認知>
 ....以上のように考えられます。

 

●自覚できないことの多重性

 無意識つまり意識できない、対象化できない、自覚できないというコトによって認識にさまざまな不確定と不安定が生じます。この不定性そのものが心的な動因そのものになるのですが、認識そのものの不定性≧流動性もまた再生産されるコトになります。

 この不確定・不安定という不定性はそのまま<感情>となります。より正確には価値判断以前の<中性の感情>として、あらゆる心的現象の動因であり認識の前提でもある心的状態です。

 不定性の再生産は、上記の<内部への認知>(自己矛盾)と<外部への認知>(認知不全)が相互に循環する構造をもっているコトによります。

       -       -       -

 <内部への認知>における<絶対に言及できないモノゴト>に対して、心的システムはシステムの安定のために<あるモノゴト>を代入します。この作用=力動は心的現象の中でいちばん根本的なものであり、強度そのものだといえます。
 また
 <外部への認知>における<認知できる可能性(という担保)>は、心的システムの拡大のための動因であり、環界へのアプローチ基本となる強度です。

       -       -       -

 <絶対に言及できないモノゴト>に対して代入される<あるモノゴト>はドコからくるか? 何に由来するか? という問題があります。これが心的現象におけるいちばん根本的で、究極の問題であり、ただひとつの答えでもあるものです。
 <絶対に言及できないモノゴト>に対して代入される<あるモノゴト>とは、<外部への認知>そのものなのです。この認識の循環が心的システムそのものであり、その発現が心的現象そのものとなります。

       -       -       -

 論理的に自己言及不可能という自己矛盾(内部への認知)を解消するために、そこへ言及可能な環界への認知(外部への認知)を代入します。代入はあくまで代入であり、何を代入しても暫定的、蓋然的に心的な安定性を得るだけですが、この暫定性こそが<生きていく>理由そのものだと考えられます。<死>は環界への全面的な復帰であり、心的には突然の終了でしかありません。

(2005/5/13,2009/3/16)

2007年2月 7日 (水)

『水のない晴れた海へ』とか

 

ガーネットクロウのDVDを買った。

楽しそうだなあ、とゆーのがその感想。

誰にだって、ちょっとは楽しいことがあるだろーし、
誰にだって、ちょっとは楽しい思い出があるだろー、な、と。

何人かの女の子の下宿にころがり込み、
村上春樹の小説みたいなをして、
東京郊外の駅でボッーとラストシーンを見送ってみたりした。

 

『水のない晴れた海へ』

 

なんとなくヘキルちゃんを思い起させる歌姫のMCが、
ホッとさせる。
ビジュアル的には七ちゃんがそーなのは当然としても。
MCのたどたどしさが新鮮....というより、
この感じを受け容れて共有できる人たちのクラスやタイプを
思い浮かべて、ホッとしてしまうのかもしれない。

そーかあ、階級意識つーか、
ごくわずかに残る共同意識だったか....。

 

歴史に残る革命家がこの人たちは鎖以外は失うものが無い
....と説明した階級=クラスがある。

もちろん、この言葉に説得力は無い。
だって、失うものですら無いんだからさ。
とゆーか、そんなものを意識はしない。
わからないことを感じたり、
知らないことを受けとめる人はいないんだよ。
たぶん。

そして「たぶん」ではない人は、その分だけちょっと不幸だ。
でも、不幸は幸せを際立たせるから。

 

村上春樹の都会味は自分のローカル色を否定したからさ....という
あるスルドイ人の批評を時々思い出す。評判のデビューを飾った
女性作家も同じことを言ってたっけ。

ローカル色を否定して生成されるのは....世界視線
指示表出による世界観。
イデオロギーも都市的感性も同じ。

 Ω

ジャンルはネオアコースティックらしいんだけど、
ネオアコで思い浮かべるのは19ゆずじゃんとゆーDBから
経験値によるバージョンアップは可能か?
それとも思考によるトライアルか?

ロッキングオンで学んだのは、
プログレは批評だという渋谷さんの哲学。

他の音楽で世の中は変わると主張していた人たちのコトバは
コンビニでパストラミサンドを食べると忘れ、
チョコやソフトを食べると
思い出しもしなくなった。その程度のもん。

 

イタリアの有名ケーキ屋の名前らしいPFMのイントロを聴くと
ゴシックロマン風でさえある印象の中に明るさや力強さを
感じさせるものがあったり。
単純な3コードをリリカルにしちゃうノヴァリスとか。
ジェネシスを聴いて暗さの中にスゴミを感じたり。

そーゆー片鱗を一瞬感じさせるガーネットクロウ。

ECMレーベルのジャケットなんか連想させちゃう雰囲気を
醸し出したり。
そんな香りの中で透明なジャズを感じさせる風景を
思い起させながらポップではない批評性をベースにしてる....
なんていう感想を認める人がいるでしょか?

時代のトレンドや巫女としてアレコレ持ち上げられるユーミン
ホントのスゴサは、
ラジカルなオーソドキシーにあるみたいに、
ガーネットクロウにも何かがあるみたいで....そういう感想を
とりあえずカキコ。

   〆

           
first soundscope~水のない晴れた海へ~

その他:AZUKI 七 , 他
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価格:¥2,691
OFF : ¥368 (12%)
   

(2003/4/22)

2007年2月 6日 (火)

音からわかるコト

●自然の音

 風の音や木々のざわめき、せせらぎの音、山鳴りから小鳥のさえずりに猛獣の咆哮まで、さまざまな自然音があります。全宇宙的なピンクノイズや遠い嵐のようなホワイトノイズまで、アナログとシンセサイザーのオシレーションで遊べるあらゆる音のベーシックな成分、それが自然音の原音でしょう。

 あらゆる音はここから分節化され微分されたもの。フィルターとなるのは生命システムでありマシンでありサインウエーブに対するバリアブルフィルターとレゾナンスです。

●人の声

 でも、人間にとって大切な音は基本的に一つだけ。それが人間にとっての音の原音でもあるんですね。それがです。

 そしてツノダテストで確認されているように、無意識下での母体の声への認知と脳幹のレスポンスから、それが究極の声として脳神経系全般を支配していることがわかります。

 胎児以来、人間の声に対するリーチングは変わらず、それが恋愛から病までのラジカルなファクターでもあるワケです。

●2つの音

 声が他の音と違うのは倍音構成のクラスターが複数あること。ホルマント構造といいますが、倍音構成に複数のピークがあり、そのピークを中心にしたクラスターが複数あるワケです。基音が最大音でピークとなりそれに整数倍音が乗ってる通常の楽器音などとの大きな違いですね。ホルマント構造は基音が複数あるようなもので、これは言語でも母音の特徴となってます。子音にはこのホルマント構造はありません。通常クラシックのオーケストラの演奏はどんなに壮大に響いてもホルマント構造にはなりません。

●ホルマント構造の意味

 どんなに人混みの中でもこのホルマント構造にフォーカスする聴覚の知覚によって特定の人間の声を聴き取ることができます。特に自国語の母音には鋭敏になっています。また聴き取りを意識していなくても母体の声には脳の認知システムは10000分の1秒というスピードでレスポンスすることが確認されてます。脳梁では聴覚認知システムのシフトが起こり、声や母体の声へのフォーカスが瞬時にはじまるワケです。しかも無意識にです。

 ホルマント構造の典型的な音声?を出すのがホーミーで、ユーミンもそうです。ダウンタウンの松本さんなど印象に残る声、心理学的に説得力があるとされる声の多く、ヒトラーの声も典型例とされています。高調波倍音が多いためにオシロスコープでいえば典型的な矩形波になるでしょう。

           
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●12音階の意味

 ホルマント構造の必要条件はピークやクラスターが2つ以上あることです。12音階の範囲内でいえば等価に近い音が2つ同時に鳴っていればホルマント構造と近似といえます。1度と4度の関係がそうです。

 4度音を不協和音とするクラシックには、そもそもホルマント構造はありません。逆にいえば脱ホルマント構造という志向こそが西欧12音階音楽なのでしょう。
 これが12音階形成の歴史であり、モダン化です。
 問題は、なぜ4度音を排除するようになってきたかということです。

●音楽の意味

 クラシックや西欧音楽そして12音階をはじめとする大部分の音楽の効用といえば、大脳の右半球を刺激することでしょう。言語認識が左半球によって行なわれ、これが過剰に続く日常生活の中でバランスをとるとすれば、右半球を刺激する音楽を聴くのがベスト。これは右半球が優れているということではなくて、左半球とバランスをとることが大切だということ。一般的に右半球がすぐれているという説は間違いです。大切なのは左右のバランスです。

●TK音楽の意味

 人の声を原音として、あるいは心理的な原風景として数1000曲を作ってきた人間。小室哲哉とはそういう人間であり音楽表現者です。

 小室の音楽をめぐる考察が世界トップレベルの音楽理論をも超えてラジカルな文化論として読める『楕円とガイコツ―「小室哲哉の自意識」×「坂本龍一の無意識」』という本があります。それはエスノを敗北ととらえ結局はインド・ヨーロッパ語の範疇から一歩も外へ出られない“悲しき熱帯”的な認識や“場”を勘案できないデリダ、高級?言語を評価するエンゲルスやレーニンなどと比較にならない深い思考と、ウエーバーの音楽社会学に指摘される3度音の採用と4度音の排除というクラシックの支配権正統化手順まで見破っていくスルドイ認識論的切断を示してくれます。ホンモノのサブカル研究でもあるでしょう。

           
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●インテグレートの意味

 言葉だけの民族はいるが、文字だけの民族はいない。
 口承伝承は今に続くが、文字による記録は断絶しがち。

 アーカイブがバグれば“ハイ、オシマイ!”程度の文化に未来の可能性はないでしょう。遺伝子に獲得形質としてインテグレートされ続けてきた能力の基本こそ感覚なんですね。
 たとえば、マルクスってそんなコトまで言及してたりします。

 それから、湯川秀樹博士しか評価していないらしいツノダテストだけど、その認識の根本として聴覚と脳のメカニズムに対するラジカルな考察と実験は貴重なもんだと思います。

(2001/3/20,2009/4/7)

2007年2月 3日 (土)

「音楽は郷愁だから」という原点

 

 音楽....いろいろあるけど、郷愁だから。

       -       -       -

 2時間のドキュメント番組「ユーミンの遥かなる音と魂の旅」でユーミンが何気で真理を語ってました。フィンランドの民俗音楽を聴いて「なんだかすごく懐かしい気がして」涙を流したり、鳥肌を立てたり。TKがはじめて華原の朋ちゃんの歌声を聴いた時に泣いたのも同じ理由なんでしょう、きっと。音楽を聴くとか何かの音を聴くという行為に共通するのは主体の受動性です。
 聴覚は受動性の感覚。受胎した瞬間から胎児は母体の音を聴いています。聴覚が生成する以前どころか、受精卵の細胞の段階から母体である環界のさまざまな影響は受けているわけです。(人間の脳幹は意識しなくても実母の声だけに反応し、ツノダテストによればそのスピードは1/10000秒。これは細胞内外のイオン反応の応答スピードのレベルであり、神経伝達のスピードの数倍から10数倍の速さです。細胞の代謝レベルの反応です。)
 一方、視覚は能動性(運動性)の感覚。映画やアニメを見るとか何かをコレクションするのは視覚による対象の享受ですが、対象へ働きかける(見る)という行為と、そもそも対象そのものへ近づいたり手に入れたりという行動や、そうしようとする観念がともないます。

       -       -       -

 音楽がどうして哀愁をおび、受動性の感覚なのか?
 幻聴は患者にとってどういう意味をもつのか?

       -       -       -

 幻聴や幻覚はあっても幻触?や幻味?はほとんどありません。これはそれぞれの感覚と共同性(均質空間による認識≧思考の前提条件)との対応関係に大きな違いがあるからで、指示決定は共同性の最たるものであり、均質空間を媒介とした認識を仮構するものと考えられます。逆に、空間の均質性だけが共同性を仮構する認識を可能にすると考えられます。均質性を前提とした観念が概念(性)であり、思考と認識の前提です。視覚と聴覚を可能にしている可視光線と空気振動は感覚器の対象としてはいちばん空間的な均質性が高いものでしょう。

 統合失調症が現存在分析の大きな手がかりとなるのは、基本的な意識が受動性として発現、自覚されているからです。妄想が受け身であることは象徴的。それは常に被害者意識として自覚されますが、本質的にこれは逆で、受動性として発現するから被害者意識になるワケです。受身であることは同時に原点であることと同じだと考えられます。
 たとえば、この原点の状態に戻って認識したときのイメージの代表的なものがデジャヴそこではすべてが懐かしく感じられます。音楽が郷愁である理由は、たぶんデジャヴと同じであるか共通点があるでしょう。人間の原点に戻っての認識だということです。無意識下に1/10000秒でレスポンスしてしまう音こそがその原点かもしれません。

       -       -       -

 デジャブは個体が<そこに在ること>の
 自己関係自体と自己了解自体の心的な表出である。

       -       -       -

 <そこに在ること>という現存在認識からはじまる人間。

 すべては....
 <ココはドコ?>
 <ワタシはダレ?>
 ....という原点からはじまり、原点へ戻っていくワケです。

(2003/3/15)

       -       -       -

           
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動物とペットの違いは?

 心の発生に関してはゾウリムシから人間までたぶん同じではないでしょうか。人間が他の生物と違うのは認識の仕方そのものとそこへ致る心の発展の仕方とその内容。現実に生活しているリアルな環境での空間認識と心理はアナロジカルにも人間と動物で共通するところは少なくはないかもしれません。そんなワケでアバウトですが、ペットの動物と野生の動物の違いが、ある面ではヒントになるかもしれないですね。

―――――――――――――――――――――――――――――
 ペットの動物と野生の動物の違いは空間(性)の認識の違い。

 野生の動物の空間認識の基本は対象との距離(感)で、それは認識上の空間性と物理的な空間とが比例?するような空間認識です。

 認識とマテリアルが一致しているワケです。簡単にいうと対象との距離が遠ざかれば認識上も遠ざかるようなものです。
 便宜的に3段階の距離(感)が想定できます。
 内(空間)・中(空間)・外(空間)の3段階です。

       -       -       -

・内空間は即自的空間。
 自分の身体であり、いつも触れ合ってる子供やパートナーも含む空間。

・中空間はナワバリの空間。
 自分たちの活動の範囲であり、いつも把握できている空間。

・外空間はナワバリの外の空間。
 敵も獲物も存在する、アプローチするまで把握できていない空間。

       -       -       -

 野生の動物はこの空間認識がほぼ物理的な空間性によって規定されるワケです。野生の場合、外空間に何かが現われれば情報としてキャッチし、それが中空間に侵入してくれば敵として闘争するでしょう。

 ペットだと外空間がなく中空間と内空間の差もあるかないか程度で、認識は変容してます。ペットの変容した空間性(距離感)では物理的な空間性としての内・中・外の区別がありません。飼主は認識上は内空間の存在なのでペットを触ってもいいワケです。
 また本来飼主以外の人間は外空間の存在ですが、ペットは飼主以外の人間に対しても闘争的ではないです。理想的なペットというのはすべてを内空間として捉えてるような状態の存在でしょう。

       -       -       -

 ここで大切なのはペットがすべてを内空間としてしか捉えていないように見えても、実際には物理的な3段階の差異をすべて内化してしまっているだけで、認識上は3段階の差異があり、各段階に基づいた反応もあるということですね。
 つまり物理的な3段階の差異をすべて内化して内空間性だけになっているように見えますが、現実には3段階のレスポンスを示すということです。
 たとえばすべてが内空間性だけに見えるペットですが、近づいたり触れたりしたら突然鳴いたり、噛みついてきたりしたことがあるでしょう。この場合、通常ならば人間に対して内空間認識しかないハズのペットが外空間の対象として人間を認識し、近づいたり触ったりしたコトで警戒や闘争の反応を示したワケです。

―――――――――――――――――――――――――――――
 視覚的なニュアンスで近景・中景・遠景といった捉え方もできますが、その場合は視覚情報以外が捨象されてしまいます。感覚や認識においていちばん大切なのは対象との関係や対象(から)の享受におけるマテリアルな過程なので、視認情報だけで分析するのは一面的でしかありません。問題は認識とマテリアルの差異にあります。

 斎藤環さんが「メディアと想像界の相互作用」(『戦闘美少女の精神分析』)などで提起している問題や社会システム論などの大きな問題がこれらに含まれるでしょう。

(2000/11/2,2003/3/10)

認識の時空間性

 人間にも生物としての神経の反応時間があって、最低刺激量(クロナクシー)以上の刺激が加われば、神経はある時間をかけて反応します。

 たぶん多くの場合は、この生物的な反応時間を超えて長い時間がかかります。
 この超過した時間分が人間的なものだと考えることができます。つまり生物的な反応時間に比べて、ですね。余計にかかった時間が人間的な時間だということです。
 それは生物的な反応ではなく観念性が高いということでもあるでしょう。

 クロノス時間を超える時間量は心的現象としての時間であり、時間量が超過するほど認識の時間化度は高度だ、といえます。
 そして、この高度さは観念の自由度を(も)示してます。

 

 <文字を空間性>として<行を時間性>とする<1:1>のコードだと....

    こーゆー普通の形態ですねえ。

 

 時間性が高まってくると....(この場合は相対的に時間化度が高く(1行が消費される程度が高い)なってるので躁鬱病的。逆に空間化度の低下(1文字の冗長性が高い)により認識の進展がノロマで堂々巡り風。マテリアルにはセロトニン感受性の過多がベースに考えられます)

    こ
    ん
    な
    形
    態
    に
    な
    っ
    た
    り
    し
    ま
    す
    う
    。

 

 もっと正確には躁状態だと....

    こんなんこんなんこんなんなったりなったりなったりするんよするんだわかったあなたあなたわかったこんなんなるの・・・

 

 鬱状態だと....

    こ

    う

    な

    ん

    で

    え

    え

    す

    う

    。

 

 さらに空間性が高度になってコードが歪んで分裂病的な状態だと....(時間化度と空間化度の対応のバランスが崩れてます。アスペクトの混乱です。そのうえ空間化度の高度化があって通常コード以上の意味が付与されます。マテリアルにはドーパミンやヒスタミン感受性の過剰がベースに考えられます)

    こ

     な
       ん
         なったり
  し
    ま
                            す
             う
                                     。

 

 ランボーみたいに象徴界レベルでの空間性が分裂病的になると....(オーディエンスの想像界的認識のキャパが受容可能性を保障してくれてます。ポストモダン~サブカルまで。たぶんこのキャパに反比例して象徴界への保障が弱体化してるという認識がありうるワケでしょう)

       字
    に       
 色
   が
     つ
       い
         た
           り
             し
               ま
              す
             う
            。

 

 芸術は認識の時空間構造の錯合の仕方がパターン化し、理解(受容)される範囲内での、それもトーナリティを失ってない、という強度のない歪み(デザイン)だと考えられます。しかし認識の時空間構造の柔軟性は無いため、表出としての意味に限界があります。

 いずれも指示決定と自己確定のバランスがポイント。

       -       -       -

 本質的には不可分ですが....
 指示決定(表出)が空間性に依拠する対象性 なら
 自己確定(決定)は時間性に依拠する志向性 です。

 存在論的には空間性は関係性で、時間性は了解性です。

       -       -       -

 表現というものは、象徴界であっても鏡像界であっても、認識とメディアの関係の原理はこの範囲内です。

(2001/1/18)

2007年2月 2日 (金)

主体を確立しようとするコト

 エスが主体を確立しようとする時に、必然的にある志向性をもちますが、これは「主体を確立しよう」とすることそのものであって、この志向性とエスとの異和はどこまでも自我(主体化したエス)に影響を与えるワケです。

 そのため、主体が対象を認識する時に、その認識の仕方を基本的に左右してるのは志向性のあり方だと考えられます。

 そこに宗教や哲学やさまざまな思想が問うてきた<罪>や<道徳>の初源(の根拠)が明らかにされています。

 

 <エス>の基本はあくまでも生命をつらぬこうとし、
 <エス>の核である<自我>はこれを個体の死をもって完結する表現に鋳型しようとする。
 この矛盾は、<自我>を主体にかんがえれば罪の意識をあらわし、類を主体とすれば道徳意識をあらわす。

                        (『心的現象論序説』P28)

       -       -       -

 基本的な志向性は2方向。
 それは「主体を確立しようとするコト」と「エスへ戻ろうとするコト」の2つ。
 つまり、主体化志向とそれへの抵抗ですね。

       -       -       -

 人間は個人として存在するけど、同時に人類です。
 この<個(人)>だけど<(人)類>という二重性がいろいろな問題の初源になります。
 マテリアルな存在としては<個>であり....個別的現存、個人、現存在、ビョーキ、アキラ、シンジ、アンタ、ワタシ、なんでもあるでしょう。アナタもワタシもボクもマテリアルな存在で、その限りでは分子レベルでの解析が進むといろいろなコトが解ってくるにすぎません。
 でも<個>に生じる<観念>の位相は分子で把握できるワケではなく、個別科学は部分認識だけにすぎず、<常に-既に>全体的存在である人間は....観念的です。
 そしてこの<観念>とそのリソースになる<情報>の結果として<類>が生成されるワケです。

       -       -       -

 ある意味<個>と<類>の二重性は、<商品>と<貨幣>の二重性みたいなもの。資本論第1版に記述されてた、柄谷行人さんの主張する「価値形態論」の、重要なポイントになった<ライオン>と<動物>の概念の差異のようなものが大きなヒントになるかもしれません。そういう発想は経済学をやり交換価値と使用価値で考えてたスタンスからは新鮮です。

(2001/1/5,2009/4/9)

「二人称」を使う強度

 『文脈病』(斎藤環)の序章の「「顔」における主体の二重化」の「「顔」という言語」のP27に大事な大事なポイントが書いてありました。

       -       -       -

 われわれは、みずからの感覚に問わねばならない。
 その刺激が「いつ」「どこで」「何(誰)によって」「誰に対して」「どのように」もたらされたか。
 これらすべての疑問詞に「固有性」への問いが潜在している。
 この問いを通じて、刺激ははじめて、意味へと回付されることが可能となる。

       -       -       -

 これは『文脈病』の「抱擁函(Hug Box)と自閉症児の主体」(P279~)で示されている「自閉症児はしばしば欲求を二人称の疑問文で表現するという。」という事実やその理由を「主体化への恐れ」だという斎藤さんの主張そのものにとって大きなヒントになるもの。
 それに「すべての疑問詞に「固有性」への問いが潜在している。」という上記の文章は「顔」についての考察。「固有性」とは「顔」の本質的な属性のことで、感覚刺激が「固有性のコンテクスト」をとおして「意味」になることが説明されてます。

       -       -       -

 自閉症児ドナが「誰でもない顔のドナ」の写真が好きで、自分らしい顔を肯定できないという事実はダイレクトに、この「顔」の問題と関係してます。それは顔の問題そのものでしょう。

 これらの問題はつぎのように考えることができます....

 「すべての疑問詞に「固有性」への問いが潜在している。」ならば自閉症児が「欲求を二人称の疑問文で表現する」のは二人称を借りて「固有性」を問うてるんじゃないでしょうか?
 二人称を借りなければ問えない理由は、「自分らしい顔を肯定できない」からじゃないでしょうか?
 そして「「自分らしい顔を肯定できない」から」「二人称を借りて「固有性」を問うてるんじゃないでしょうか?」....

 これらは単なるトートロジーではなくて自閉症児が主体を確立しようともがいてる姿ではないでしょうか? それを自閉症児は主体化を恐れていると判断するのは?
 事実はそれとは逆で、自閉症児にあるのは自らの主体を確立しようとする強い志向性ではないでしょうか。
 主体の確立という目標に到達してない分だけ強度を持った志向性だと考えられます。
 それが自閉症の特徴である反復行為、常同行為の強度でしょう。

       -       -       -

 主体を上手に確立してしまった(つもりの)健常者(のつもり)の常に意味(自分にとっての価値)を問う生き方からはなかなか理解しにくい強度ですね、コレって。
 少なくない精神分析、心理学関係、プロフェッショナルからの見解が間違ってる可能性もあります。
 自閉症を主体化への恐れだという斎藤さんの見解は逆だと思いますが、優れた可能性のある見解を示してるのも斎藤さんです。自閉症をとおして「器質的主体」を検討するトコなんかスゴイ元気。これなんかダイレクトに心的現象論の重要なポイントになる問題だし、浅田彰さんが『構造と力』「根源的脱自態」の概念を導入して封印しようとしたものを明らかにするような可能性さえあるかもしれません。

           
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(2001/1/4)

2007年2月 1日 (木)

病気の基本?

 吉本理論の基本的な用語で「指示決定」とか「指示表出」「自己表出」や「自己確定」などがあります。言語論や心的現象論で重要なタームです。
 これらをベースに共同幻想論を構想していくワケですね。
 現在ではハイ・イメージ論とマス・イメージ論として展開されています。

       -       -       -

「指示決定(指示表出)」の意味作用が優勢で、それを自己確定できない個体心理を歪めるのが精神分裂症。

 逆に

「自己確定(自己表出)」の意味が優勢で指示決定との差異が広がるのが躁鬱症。

 とも。

       -       -       -

 吉本理論の基本の認識論になる『心的現象論序説』に基づくとこういう説明になると思います。

(2000/6/28)

一人称の不在

 分裂病の基本的な特徴としての「三人称」「他人称」によるコミュニケーション

 自閉症の多くに見られる「二人称」による自己表出やコミニュケーション

       -       -       -

 以上は前者が吉本隆明さんが少女ルネの発病から治療までの記録『分裂病の少女の手記』から、後者は斎藤環さんが自閉症だったドナの『自閉症だったわたしへ』から、それぞれ読み取った基本的なものです。

 ここで分裂病と自閉症の共通点を抽出すると<一人称の不在>ということになります。主体性の不在ですね。より正確には主体性が不在であるかのような表出ということです。

 斎藤さんによれば自閉症の場合の「一人称の不在」の理由は「主体化への恐れ」だということですが、これは、むしろ逆に考えるとトーナリティのある解釈が可能です。自閉症児にあるのは主体を確立しようとする志向性の強度だと考えられるのです。

       -       -       -

 「主体化への恐れ」のニュアンスはむしろ分裂病を説明するのに合理的。
 なぜなら分裂病指示決定(表出)を主体的に自己確定できない病であり、むしろ逆に指示決定でしかないものから自己(決定)が影響されてしまう病だからです。

 通常の認識では認識の過程や自己決定していく経緯を自己言及的に自己が確認しています。対自的認識が常時自己決定の経過を認知しているワケです。
 ところが自己決定の過程の自覚が無く、認識が<常に-既に>されているような認識があります。分裂病的な認識です。
 それは自己決定の介在の余地がないような認識つまり指示決定的な認識です。
 指示決定の代表的なものは名詞ですが、これは主体の認識の意識的な介在なしで<常に-既に>決定されている認識です。コンスタティヴな認識の典型でもあるでしょう。ア・プリオリな認識ともいえるかもしれません。象徴界的認識であり、非想像界的認識です。

 そしてそれは共同幻想を成立せしめる最大のファクターでもあるかもしれません。

(2001/3/3)

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