*現在とガチンコする『ハイ・イメージ論』
●<組み込み>というマジック
ホント?にマルクスを読んだ人間ならばワカルコトに「組み込み」とか「埋め込み」という概念があります。ヘタな例えをすれば、免疫の仕組みやオートポイエーシスのシステム論のようなもの。体内に入った異物は白血球によって捕捉されてはじめて<異物>つまり自分とは違うものとして認識されます。つまり異物は白血球の内部に<組み込>まれてはじめて<異物>として認知されるワケです。免疫機構は<異物>を<組み込>むコトで<対象化>するという仕組みになっています。
マルクスは同じように<人間>は<労働>を媒介にして<自然>を<組み込>んでいく....と考えました。マルクスのいちばん難解?な<人間的>とか<有機的自然><非有機的>だの<自然的>とか<人間的自然>とかいう概念の定義や相互関係は、この<組み込>の論理によってトーナリティを持ち、それがマルクスの世界観の基礎を形成しています。また唯物論そのものがこの<組み込>みを通してマルクスの思想に内化されているともいえます。
●マルクスの<組み込み>への批判
<自然>を<組み込>むことで構成される<人間的>世界は、それがひとつの時空間の系として<入れ子>となり単独の世界を構成しています。
これに対しての批判的な検討というものを見たことはありませんが、吉本さんが『ハイ・イメージ論Ⅱ』の「自然論」でライプニッツの神から必然性を導き出し、ヘーゲルから自然の人間への組み込みを考察し、そこからマルクスの<組み込み><埋め込み>概念の検討へという仕事をしています。その論考そのものが貴重なものですが、驚くべきは、そこで吉本さんがマルクス批判をしていることです。
この<組み込>まれるものを<精神>に置き換えた論議は吉本さんとフーコーの対談でのテーマでしたが、両者が相手に可能性を見出そうとするところで終わっており、残念であるのは吉本さんの読者共通の思いかもしれません。
『ハイ・イメージ論Ⅱ』収録の「自然論」におけるマルクス批判は以下のようなもの。
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P180)
本来的にいえば摂動(ゆらぎ)として、余裕、反響、戯れ、遊び
として存在した交換作用を、ぬきさしならない「組みこみ」の概
念に転化してしまった・・・
P180.181)
ほんとうは人間という自然の一階程は、そのなかに非有機的な
階程と、植物的な階程と動物的な階程をぜんぶふくんでいて、
これが余裕、反響、戯れ、遊びとしての摂動(揺らぎ)を人間に
あたえているにちがいないのだ。これは本質的にだけいえば人
間の不変の条件としてあるはずなのに、マルクスの人間という
自然からは消えてしまった。
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●<考えられらたもの>の限界
科学的な認識だの論理的な孝察が概念の均一性を前提としたある蓋然性に依拠したものであるという思考の限界の中で、たとえばフーコーは中国の分類方法に何らかの可能性を見出そうとし、最期には、それもある蓋然性でしかないことに気がつき『言葉と物』における自身の方法論に懐疑を持ちます。
フランス革命を準備した百科全書だろうが、世界を革命できると説いた唯物論弁証法だの史的唯物論だろうが、自然と人間の入れ子構造のトーナリティである関係をマテリアルの基本に据えつけたマルクスだろうが、それが思念されたもの、考えられたものでしかない....という限界に、吉本さんは気がついてしまいます。
奇書とさえいわれる『アフリカ的段階について』のベースにある問題意識はそういうものです。そして、そういうスタンスこそがフーコーが可能性を見出そうとした博物学や民俗学からの成果を現実のものとして探究のなかに取り込んでいける唯一の可能性でしょう。
●<身体>の<階程>へ
A.スミスの論考に労働から哲学が生じるポイントを見出したり、価値の差異を身体の内臓の差異にまで還元する論理を探し当てたりした吉本さんは、ついにマルクスの<組みこみ>の概念にも限界を見つけてしまったわけです。
しかもこれは三木成夫の解剖学をはじめとするあくまでマテリアルな基礎を前提とするもの。身体内に植物的階程と動物的階程を峻別することによってはじめて可能となる孝察であり、それぞれの階程とその環界に対するそれぞれのレスポンスを統合的に内化していくシステムとしての身体にあらたな人間主体を見出したともいえるでしょう。もちろんそのような概要なり前提が理解できないものには「奇書」という評価が限界かもしれないのが、現在のレベルであることも確かかもしれません。
コジェーヴがアメリカに見出した「動物化」はマルクスが資本主義に見出した「動物」そのもの。しかし吉本さんはそのマルクスの「動物」的概念を、個々人に内在する動物的階程への還元という....A.スミスが労働する身体に哲学や価値を見出したのと同じ手つきで....ベクトルで探究していきます。
『ハイ・イメージ論Ⅲ』の「消費論」では現在の消費資本主義の日本をテーマに「動物」概念が考察され、その後の展開は広く開かれたまま終わります。
『ハイ・イメージ論』は批判学ですが、『アフリカ的段階について』他いくつかの言説ではまったくちがったベクトルを見出せるものもあり、人間の肯定としてのそれらの論は文芸をはじめとしたあらゆる表現への賛辞としての趣をもっています。そのスタンスで書かれたのがコム・デ・ギャルソンへの評価であり、J.ケージ論です。
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読書と映画をめぐるプロムナードの「音と言葉の交流、「音楽機械論─ELECTRONIC DIONYSOS」(吉本隆明、坂本龍一著)」にポストモダンに突入(超高度経済成長をはじめた)した日本を、音楽の面から語った教授(坂本)と思想家(吉本)の対談本が紹介されています。引用されている小沼純一さんの「実はそういうところから音っていうのは作られるんだよ」という言葉がデジタルへのラディカルなクリティークになっていたり、今こそ新鮮で必要なテキストかもしれません。
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「哲学の科学」では「哲学は、なぜいつも間違うのか?」などほか科学をベースにさまざまなアプローチで人間、言葉、思考、感覚といったものへの思索がめぐらされています。その根源的な問いは現代社会だからこそ新鮮。必読のWEBです。
(2004/12/7,2010/10/17,2011/12/31)
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