共同幻想論大(澤)?解説.2
吉本にとっては、国家の最小限の条件は、
共同幻想が、直接(血縁的)関係から独立に現れること、
である。
- - -
この一言で、大澤さんは、政治学最大のテーマである国家生成の根幹を吉本さんから読み取っています。正当にして強力な読解力ですね。(この<血縁>からの離脱以降は<信用>が関係性の最重要ポイントになります。<国家>はその制度化であり構造化です。)
家族→親族→部族→民族→国家という対幻想の遠隔化(観念化)していく過程こそが国家生成の過程そのものであることを示してるワケです。ちなみに日本ではヤマト王権を支える豪族の婚姻関係が奈良盆地の外部へ遠隔化していく過程が国家生成の空間的なあらわれです。
これを説明するために吉本さんは「古事記」を素材としたワケですが、大澤さんは見事にその意図に則って正当に以下のように読解しています。
- - -
対幻想は、共同幻想論の構成の中で決定的な役割を演ずる。
対幻想こそが、国家形成への媒介の位相を形成するからである。
吉本の考えでは、日本において古代国家へと変遷するのは
「姉妹(宗教権)-兄弟(政治権)」の対幻想のつながりを
基底にした、母系的かつ母権的な氏族共同体である。
- - -
そしてラカニアンやDG派をはじめ共同性や共同体と個人との関係を考えるものが学ばなければいけないような対幻想への重要な指摘がされています。
それが次の一言。
- - -
他方では、対幻想は、国家の共同性にとっては、拮抗でもある。
- - -
この「共同性」と「拮抗」するという「対幻想」の状態こそ、主体が自らの観念の中で行っている認識のシーソーです。
このシーソーのバランスを自己幻想か共同幻想のどちらかへ動かそうとする本質的な力がいわゆる強度。
これはある種の志向性ですが選択可能な方向の範囲は相反する2つの方向しかありません。
さらに哲学や言語学それらと不可分の心理学といったジャンルを俯瞰し通底するかのような要約がされています。
- - -
「普遍性」との関係では、対幻想は、
そこへと至る媒介でありつつ、
同時にその障害でもあるという両義性を呈することになる。
- - -
「普遍性」を「象徴界」に「対幻想」を「想像界」に置き換えるとラカニアンにとっても大きな参考になるでしょう。
以上のところまで、とっても役に立つガイドなんですが、次のような危ういところもあります。
- - -
吉本は、
自己幻想と共同幻想の中間に対幻想の領域が存在している、としたのである。
- - -
対幻想の機能としての位置づけは中間的かもしれませんが、対幻想は幻想性としてはゼロ記号そのものであって、岸田秀さんやその他の幻想論とは全く異なるし、また対幻想のなかにある自己や共同性への幻想が無くなることはありません。ラカンの三界の相互関係と同じで、3つの幻想は不可分です。
自己幻想さえもその基本は自己を対象化した対自認識としての対幻想です。このオリジナルな認識は『心的現象論序説』によって提示されたものですが、その後説明が簡略化され、安易な誤解だけが伝わるようになっています。特に『世界認識の方法』で吉本理論が総括的に解説されたときにタームの解釈が簡略化されてしまいました。以後のほとんどの論議はオリジナルな『心的現象論序説』の原理を参照することなく行なわれていて面白味もなければ豊富な展開も期待できません。オリジナルなラカニアンやシステム論者の方が吉本理論との共有しうる面が大きく、実際そういった可能性を追究するほうが楽しく豊富な内容が得られる可能性があり、それは、今後の大きなテーマだと思います。
(2003/10/19)
―――――――――――――――――――――――――――――
池田信夫blogで無神論者だったハイエクが最晩年の書「致命的な思いあがり」で共同体のための宗教を認めつつラジカルな問題提起をしていることが紹介されています。
(2009/2/3)
« 共同幻想論大(澤)?解説.1 | トップページ | 吉本理論は難解か? »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント