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2007年1月20日 (土)

フーコーと吉本さんと

 吉本隆明さんが多くの隠れたリクエストに応えて『心的現象論序説』を角川書店から文庫版化したのが1982年。単行本や全集でも評価の高かった同書は同時に難解の書でもあって、心理学や精神科関係の専門家以外からはレスポンスもなく、ただ難解であるコトが話題になっていたほど。文庫化するにあたってテニオハなどの修正があったようですが。

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 ベルクソンが想定するような時間性の生じる起点における現存在の定義において、時間以前にどのような基本構造があるのかという孝察はフロイトエスの概念以外にはありません。この存在や認識の原点となる構造を想定しない限りは、どのような哲学も認識論も心的現象の解釈も極めてアヤフヤな蓋然性以外の何ものでもなくなってしまいます。

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 ところで心的システムも含めてシステム論では入力も出力も無い状態=閉鎖系を想定しているようなので、たぶんこのような問題はシステム論には存在しないのでしょう。また逆に、このような問題を提起できないのがシステム論だともいえます。
 オートポイエーシスの心的システム論では位相学的概念の設定を主張しながら、システムへの外部からの入力を錯乱としてしか定義し得ないという自己矛盾に陥っています。たとえば消化器官を設定しながら食事は禁止という矛盾ですね。入力と、そこからの組成と、その維持....システム論が汎用性が高いのは普遍的な前提に立っているからでありながら、入力を捨象しようとするスタンスは何故なのか?

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 あらゆる科学は蓋然性だと主張するサルトルの指摘は彼の実存主義のシニカルな表明に過ぎないことを喝破しうる可能性を、吉本理論に見出した人がいました。フーコーです。フーコーと吉本さんの対談に対する評価を見ても、正当な評価は少ないようです。

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 ところで<自己と対象を峻別できない状態>を吉本理論では<純粋>という概念を導入して定義します。たとえば視覚対象を捉えつつ対象と自己の峻別がつかない状態を<純粋視覚>と呼ぶわけです。 
 無機的環界に対して異和である生命そのものを原生的疎外とし、その原生的疎外をとおして環界を把握しようとする動きの構造を純粋疎外と定義します。この原生的疎外と純粋疎外のギャップが心=観念です。数学的な概念が駆使されている吉本理論では純粋疎外は原生的疎外のベクトル変容であるという明晰で的確な説明がされています。

 吉本理論では自己と対象との分ち難い状態を<純粋>概念として想定し、現実の自他不可分の認識そのものを<純粋>概念とします。
 現実に生起する問題と理念型のモデルとしての概念がギャップ無く想定され設定されるという大変に理想的で高度な理論を成立せしめていると考えられます。これは完成した論理モデルである心的現象論序説が、現実に心的現象が生起するところにフォーカスしようとする理論であり、同時に現実そのものを考察しアプローチすることを可能にしていることを示すものでしょう。

(2004/11/22)

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コメント

攪乱は外部からの入力ではありませんよ。外部からの影響をきっかけとして前提しますが、あくまでもシステムの自律的な作動です。しかも、攪乱が本当に存在したか、それとも外部からの影響がない自律的な作動に過ぎないかは、区別できません。夢や空想と実際の知覚が区別できないのは、そのためですね。入・出力が無いということは、閉鎖性とはまったく関係ないのです。

山人さんのblog?「オートポイエーシスの黒板(http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/)」はとても参考になり読ませていただいてます。
 「攪乱が本当に存在したか、それとも外部からの影響がない自律的な作動に過ぎないかは、区別できません」というシステム論の限界は同時にシステム論の成果ですね。なぜなら<区別できない>ことそのものを背理的に示してくれたわけですから。そしてだからこそステップアップのための次の設定の準備が可能なのだと考えます。それがここで示している<ゼロの発見>です。吉本論のタームでいえば<純粋疎外>という概念になります。ここではそれを<システムの内部と外部を峻別する<境界>の理論的な絶対値として<ゼロ>を措定できる>と定義したわけです。
 一般的には「夢や空想と実際の知覚が区別できない」という切実な問題があり、それによって精神病や神経(学)にとっての根源が問われているでしょうし同時に解もそこにあるとも思います。
 在野の吉本のメリットはノンジャンルで思索できたことではないでしょうか? あるジャンル内で思索するならばそのジャンルの限界に到達し(てから)ブレークスルーするという手順や工程がありますが、そういったものに束縛されない思索というものも根源には必要だと考えています。

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