<物語>のもとになる7つの反応
大塚英志さんは『物語消滅論―キャラクター化する「私」イデオロギー化する「物語」』という本ですべてを物語論で説明しようとしています。たしかに神話が世界すべてを説明するように物語論でほとんどのモノゴトの説明が可能かもしれません。
大塚さんはプロップの形態論、ロシアフォルマリズムなどの論考をもとに物語論を展開し、アニメも、事件も、ウヨサヨ問題も納得できる分析や批判がされています。このイデオロギーから物語への移行というパースペクティブは、それこそ世界観そのものの解析であってイデオロギーそのものに代わる世界観を提示するという新たな、ラジカルな、いい意味でのイデオロギーそのものだといえるかもしれません。
ところで、その根本にある「物語」、分析の根拠になっている「物語」、認識のパースペクティブになっている「物語」....その<物語>そのもの....は....いったい何なんでしょう? 参考になりそうなドキュメントを以前NHKでやっていました。キューブラー・ロスへのインタビューです。
キューブラー・ロスは臨終を迎える患者が安らぎを得られるように研究しホスピスを指導した心理学者で医者です。○○千人ものやがて臨終を迎える患者にインタビューとカウンセリングを繰り返し、あるコトを発見します。それは〝死〟という不可避の、最大のストレスを迎える患者の反応パターンが一定していることでした。
パターンの内容は7種類前後。つまり人間は〝死〟に対して7種類の反応をするということです。そして、その反応の順番もほぼ決まっていました。A反応の次はB反応、その次はC反応というように時系列で生成する反応の順番がほとんど固定しているのです。
<物語>というのは、あるデキゴトに対する反応とその連続性のことであり、その集積です。キューブラー・ロスが人間にとっての究極のデキゴトである〝死〟に関してその反応を探究したというコトは、物語の究極を考察したコトになります。
ロスは普遍的な7つ程の反応内容とその順序を知ったワケです。
このロスの研究成果なども取り入れて展開されているのが吉本隆明さんの理論(『母型論』など)です。
反応の両極をワンセットにして捉えると、すべての反応は両極の中間のどこかにあるものとして把握できます。
人間が生きていくことの反応や価値の両極は〝生〟そのものと〝死〟です。
どんなエライ人の人生も、ヒッキーの生活も、ダメな分だけシブトイ人の生き様も、秋葉原でマグネシウム色のノトパソをキラキラさせてメイド喫茶で無表情に盛り上がってるオタクも、<生>と<死>という両極の中間を生きているだけです。
みんな同じです。
例外は、ゼロ。
そのなかで人間がいちばん強い反応を示すのが<死>に向かうときです。この時の反応=価値判断は強固なものです。
強い反応とは強度の表出の度合いのことで、もっと別のいい方をすると象徴界がムキダシになる度合いでもあり、それが変成される度合いでもあります。
さらに別の表現をすると想像界が自由を失う度合いでもあります。
ハイデガーが指摘するとおり、資本主義ではすべてが交換可能ですが〝死〟だけは交換できません。この交換できない最大のイベントである〝死〟に関して生成する反応も交換できないものと考えられます。そこには揺るぎない価値判断、個別的現存としてラジカルなジャッジがあるとも考えられます。
この交換可能というのは<共同幻想>と質的に同定できるものになります。資本主義の末端、消費者が感覚的に感受できるものとしては<商品>に代表されます。
(2005/1/14,2009/4/19)
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