自閉症児ドナのこと
『文脈病』や『不過視なものの世界』などで斎藤環さんがサンプルにしてるドナという自閉症児の例があります。
ドナは5才の時にお祖父さんが死んでるのを見つけました。でも、お祖父さんの死がわかったのはそれから16年後のある日のこと。21才になってからお祖父さんの死を自己確定したドナは泣きました。
お祖父さんの死という事実を視覚情報として受容=指示決定してから、それを判断情報として自己確定するまで16年間の時間がかかってます。
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指示決定から自己確定まで16年間。
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斎藤さんはこれを「祖父の死の意味」の「理解」が「器質的排除」によって「欠如もしくは遅延」されたと説明し、自閉症の定義をこころみてます。
ところで、当時、お祖父さんが死んでるのを発見したドナは「嫌がらせ」で「自分をおいてきぼりにした」と思って腹を立てたそうです。そこには死への理解や悲しみはありません。
つまり、正確には....お祖父さんの死を知ってから悲しむまで16年かかっていますが、死を知った瞬間にも「自分をおいてきぼりにした」と怒っているので、....ちゃんとドナなりの感情や判断があったワケです。
また、ドナが当初は「自分をおいてきぼりにした」と怒り、そして16年後には悲しんだにしろ、そこには怒ったり泣いたりするハッキリとした主体(性)が確認できます。むしろ当初自閉症が重かったハズの時期である頃の怒りは、斎藤さんがドナに見い出している「主体化への恐れ」の反証になってしまう可能性があるでしょう。
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自閉症児に「一人称の不在」が顕著だとしても、それは主体化への恐れや主体性の不在ではなく、主体という象徴(性)を内在化させていく上での普通の人と比した場合の遅延や冗長性ではないか、と思います。
一見無表情無感動に思える自閉症児の表情やレスポンスは確かに感情が「欠如もしくは遅延」したり「主体化への恐れ」を感じさせ、「一人称の不在」を見い出すことができるかもしれません。しかし、それは表面的な観察かもしれません。
たとえば、無表情をよそおうコトが激しい内面を隠すためであるのは子供から大人までが身をもって経験することです。無反応性は野生動物から昆虫にまで確認できる表出行為でもあり、ラジカルな防衛機制として神経レスポンスのひとつです。
『心的現象論序説』で吉本隆明さんは『分裂病の少女の日記』のルネの破瓜状態を引用しながら....
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もっとも重要なことは、
このような外部観察からの無為状態とみえるものが、
けっして心的領域の内的な構造において無為ではなく、
意味で充たされていることをしめしている点である。
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....と主張し、無表情や無感動に示される内面の心的構造を分析してます。
そして感情から何らかの志向(性)に転換していく状態である中性感情の構造こそが「人間の観念作用の必然的な特性」だと分析し、感情の対象が遠隔化されていく構造を見い出しています。そこには対幻想が共同幻想へ転化する認識構造の基本もあるワケです。
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<異常>あるいは<病的>とみなされる精神の働きは、
一見すると外からは<感情>の喪失とみなされやすい<中性>の
<感情>のなかに、もっともあらわれると申すべきである。
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不安や怒りのような原始的な感情から高度?な認識に見える悟性や理性といったものまで、その対象への志向性を遠隔化させた関係意識 なのですが、それを遠隔化させる力動的なものは人間が自らの心身に内化させた本源的蓄積によるものです。
それは外界とのプラグである感覚器そのものを含めてTPOへのアプローチとTPOからのアフォードから積分形成されてきたワケですね。
(2000/10/20)
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