<はこれねよ?パンだ>
はこれねよ?パンだ
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コレは何か?というと、コレはある文です。
どっかの外国語で「パンダ」や「パン」について語っているのかもしれませんが、一応、ココ日本で、日本語で語られている日常的な会話のひとつである<これはパンだよね?>という文をバラバラにしてみたものです。
バラバラといっても単語や音韻までコワしていません。
詞や語をコワさないで、それらの順番を変えただけです。
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これ.は.パン.だ.よ.ね.?
↓
は.これ.ね.よ.?.パン.だ
↓
これ.?.パン.よ.ね.だ.は
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<は.これ.ね.よ.?.パン.だ>でも<これ.?.パン.よ.ね.だ.は>でも、たいした変化はありません。共通するのは日本語として通用しないということでしょう。
詞や語をコワさないで、順番を変えただけで日本語として通用はしなくなるワケです。
正確には、日本語の<文>としては通用しないということですね。
一つ一つの詞や語としては間違っていませんが、バラバラではそれぞれの意味を確定するのは困難か不可能です。
たとえば、
<は><だ><よ><ね>がどのような助詞なのか副詞なのかといったことはわかりません。
<これ>は何かを指示していることはわかりますが、何が指示されているかはわかりません。
<パン><?>が名詞と記号化した疑問詞だということがわかるだけです。
すると次のことがわかります。
<は><だ><よ><ね>といった助詞や副詞と思われるものは、文全体との関係がないと判断できないということ。
<パン><?>という名詞と記号は単独でも意味があるということ。
<これ>は指示代名詞で、助詞と名詞の中間のようなタイプだと考えられます。
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助詞や副詞は単独では意味が確定できない。
名詞や記号は単独でも意味がある。
代名詞はそれらの中間で、何かを示しながら示されたものが何であるかは不明です。
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基本的に言語は、この助詞から名詞までのグラデーションなかのどこかに位置づけられるというのが、吉本理論の根本にあります。
つまり、
この助詞から名詞までのグラデーションを主体の表出の度合いの差異と考え、そこに主体性を見出すワケです。
別のいいかたをすれば、パフォーマティブからコンスタティブへのグラデーションということです。
また、
名詞のように主体の表出としての価値はゼロでありながら、他者が容易に認識でき、共同性のコードとして機能するものがあります。
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吉本理論的には助詞や副詞が自己表出で、名詞は指示表出です。
助詞が遠隔化したものが名詞だとも考えられます。
主体の発声が客体化され、主体から完全に切り離されたものの典型が名詞だということです。
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ところで現実的な問題として、
<これはパンだよね?>の<は>の問題があります。
<は>は単なる助詞ではありません。
限定か主格か? <は>の指し示している属性はそのTPOや状況からしか判断できません。場所を捨象し、文脈を無視して言語や理論だけ取り出しても意味は無いワケです。
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たとえばアートとしてすぐれた表現というのは、名詞に助詞の意味をもたせるようなもので、それは享受サイドの鋭敏さ(読解力)も要求されるものです。
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