3部作のラジカル
日本オリジナルの思想を目指した吉本さんの成果が、この3部作。もちろんここから拡張されたのがハイ・イメージ論とかマス・メージ論です。
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『共同幻想論』
『言語にとって美とはなにか』
『心的現象論序説』
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日本オリジナルというのは日本語とそれによって構築されている環境への解析が前提であり、その点で、翻訳による思想とは決定的に違っています。
たとえば構造主義の発端は毛沢東の「矛盾論」で、それをテルケルタームで再構築したワケですが。パンフレットみたいに薄い革命の書「矛盾論」に込められたダイナミズムにアルチュセールがノックアウトされたという事実は、翻訳されただけの本だけからでは伝わって来ません。
日本が欧米化した程度に比例してそのカウンターインテリジェンスも欧米のものが有効でしょう。でも日本が日本であるなら日本オリジナルの思想やインテリジェンスがないと根本的な認識も批評もできないワケです。その点で難解な日本語は手強い障壁にもなっています。
宮台真司さんなどはある意味でそれを天皇制(論)に見い出しています。
リングドーナツの魅力はドーナツの穴にある、というようなこと。つまり「空」が魅力の中心だという村上春樹ワールド的な世界観は実はすごく日本的で、バルトの東京論のように、それは東京が虚構だからこそ周囲を魅惑してるのと同じです。ボードリヤールなどの化粧論や誘惑論もコンセプトはそのへんであるはずです。
ところで「対幻想」というのはキーポイントですが、それはいったい何なのか?
いちばんムヅカシイところでもあるでしょう。
この対幻想を基点に共同幻想と個的幻想へ観念が向かっていくワケですが、そのことを吉本さんは「遠隔対称性」というオリジナルな概念で説明しています。この「対称性」を「対象性」の間違いだと主張する人(学者や評論家などのプロの人)がいるほど、理解されていません。
浅田彰さんはこういう吉本理論を「用語が我流で、しかも論理的につながっていない」とか激しく批判。「とにかくわからないんだもの」(『近代日本の批評』)とか。
どうして「わからないんだ」かよく考えてみましたが、東浩紀さんの問題意識を考えると浅田さんが意識しない(わからないことのラジカルな原因)・してない・できないことが浮彫りになってきて、東さんの登場以後浅田さんへのチェック厳しくなりました。排中の論理によるチェックですが。
たとえば限定可能性の助詞が理解できるかどうかというような日本語の問題であり、助詞や助動詞や副詞の使い方と理解の仕方で人間の表現力や認識力が明らかになります。もちろん詩人は石とも話すワケだから、その感性の鋭さは同時に言語への鋭敏さでもあるワケでしょう。
だから浅田さんの本は売れたけど、読まれたのは東さんの本だと思います。
そして現在は読まれるべき優先度も必然性もその順位でしょう。
読み返すたびに面白い『ハイ・イメージ論』ですが、TKマジックへの唯一の研究書?である『楕円とガイコツ』と比べたくなるような「像としての音階」のように、浅田さんら熱狂的なケージファンのケージ論より吉本さんのケージへの考察の方が格段に深く面白い事実は何を示しているのでしょうか?
(2000/6/21)
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