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2007年1月22日 (月)

吉本隆明はポストモダンか?

●吉本隆明さんがポストモダンだあ?   どーでもいいけど

 03年11月5日、新聞に東工大で開かれた「吉本隆明をめぐるシンポジウム」のことが紹介されていて、「吉本氏は真のポストモダニスト」だという大澤眞幸さん(1.2.)の新説がフォーカスされていた。ニューアカはモダンのシニカルな変形で、彼らに批判された吉本氏こそポストモダンだったんだという。
 ニューアカがシニカルなモダンでしかないのはバブル経済とともに知も商品であることを自ら体現したニューアカそのものの趨勢をみれば明らかかも。

●ポストモダンそのものがフェイクじゃん   お馬のニンジン

 吉本さんがポストモダンのフェイクとして扱われるのは、その扱われ方そのものがポストモダンのフェイクなんだけど。「堕ちよ!さらば、吉本隆明」だっけか、あーゆーのを典型にしたモダンの露呈の方が個人的表現でしかない文芸としてはいいのでは....。

 ポストモダンの基本的なスタンスなんてH・ルフェーブルの主張やレーニンやトロツキーの態度にだって現れてるし、新しい見解だからOKとゆーのは発想そのものがモダン。反対派がスターリンに処分されるちゃう中央委員会で会議サボってバルザックなんか読んでたトロツキーのカッコよさはモダンかどうか....。もちろんトロツキーは敗北するけど、カッコよく負けるのや殿戦するのはモダンのなかでもいちばん難しいスタンスでしょー。

●解決はモダンの中にしかないよ    しかもバラバラ

 それよりむしろリゾームやノマドやスキゾという言葉遊びをポストモダンだと早合点した自分たちこそシニカルなモダンだったという反省や自己言及が大切。専門用語並べて自己表現するなんてコミュニケーションの面からは単なるサイテーで、考えなければいけないのは相手のコト、享受者のコトであるのは言うまでもないから。

 ニューアカがポストモダンだったのはインテリジェンスが商品で『構造と力』がファッションだったのを認めるところにしかないかもしれないし。カタカナがいっぱい並んでるのは、漢字がゴチャゴチャしてるより簡単に読めそうだったという感覚は結構大事かもしれない。

 そもそも真偽を問うことそのものがモダンの極致。大澤さんてマジメ過ぎで、彼こそシニカルなモダンでしょ。もちろん吉本さんは究極のモダン。なぜならば解決はモダンの中にしかないから。解決を目指す人はみんなモダニストだもんね。

●ポストモダンをモダンに語れよ   いろいろあるし

 ところで、吉本氏は真のポストモダンだとゆー主張を「かなりおもしろい」と評価するのが橋爪大三郎さん。「納得できる」と同意するが竹田青嗣さん。
 宮台真司さんを「そんなに日本的でいいのか?」とかなんとか批判した橋爪さんには、その宮台さんのポストモダンぶりがわかってないのかもしれないし、簡明な哲学ガイドの竹田さんには同意する以上のことはしないのかもしれない。
 日本語の入れ子構造にフォーカスした東浩紀さんや最近よく弁証法を主張する田中康夫さんの方がポストモダンかもね?

●アフリカという問題    温故知新かあ

 『アフリカ的段階について』を「天下の奇書」という大澤さん。アフリカの黒人哲学者フランツ・ファノンが「奇書」を書けなかったのはヘーゲルに代表される西欧哲学の範囲内でしか思考できなかったからで、インド・ヨーロッパ語以外の言語による哲学の可能性を予期していたニーチェやマルクスのささやかな先見性こそ大事でしょ?
 それにしても「「輸入学問」から脱皮しえていないと自認するアカデミズム」という指摘はステキでしかも笑えた。
 3度目以降は笑うだけと主張するマルクスは、モダンの極致としてサイコーかも。

●アンタッチャブルにタッチ   ドーナツの穴か

 このシンポジウムでも記事でも心的現象論にタッチできていないことこそがモダンの証拠かも。心的現象論を理解できた人はほぼいないかもしれないし....。
 とゆーワケで、今後とも『アフリカ的段階』と『心的現象論序説』は現代思想のブラックホールとして人に知られることなく、そして、だからこそドーナツの穴のようにあり続けるワケなんでしょーか?

 ついでに記事によると....『共同幻想論』では共同幻想と個人幻想の間に対幻想を設定した....と。
 時点ゼロでバランスしている対幻想の双数性こそが問題=遠隔対称性なんだけど、共同と個の間という定義は安易な気が....。

 『構造と力』で引用されている「根源的脱自態」というM・ポンチの概念を深化させればラジカルな展開ができた可能性はあるけど。それより18年も前に提出されていた「原生的疎外」という『心的現象論序説』のヘヴィなタームに圧倒されて沈黙した人は多いのかもしれないし。幸か不幸か思想の上でも父子相伝の物語りが日本では機能していないかもしれないし。

●ドーナツにタッチすると   穴へ逃げるか

 アフリカ的段階は宗教の初源でもあるけど、マテリアルな事実としてその成立にTPOが勘案されているとこが重要なポイント。マテリアルな条件、環境、環界、関係性の原点となるところ。ヘーゲルにモルガンからアメリカンネイティブの神話まで解析した上での見解はユニークでラジカル。

 場所を捨象するデリダみたいな認識論は100%の観念=幻想の中にしか成立しないでしょ。しかもその観念の主体だってあるTPO=場の中にしか存立できないので、ソレを自覚できてないとヤバイことになるかも。

 だからイカレタヤツらは「宇宙」や「来世」や「彼岸」を語るワケ。つまり理由はカンタンで自己の観念だけで処理できるコトをネタにするということですね。マテリアルに検証されちゃうと自分のアリバイがなくなっちゃうんで、非マテリアルな場や次元を主張するワケです。つまり第3者にも認識できちゃうことからは逃げるそれは現実から逃げてるっていうこと。逆に、だからデムパや宗教が現実に対して無効なワケでもあるわけでしょー。そこには第3者を排除することでしか自分のアイデンティティを求められない弱者の姿があるのかも。ただの脆弱な自己チューなわけ? でも基本的に第3者を否定してるワケで、それだけでも危険なんだね。この類は。

(2003/1/5)

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