共同幻想論大(澤)?解説.1
『現代詩手帖』の10月号(2003年)の特集が「吉本隆明とはなにか」。高橋源一郎さんや大澤眞幸さんが吉本隆明さんとその理論を自由に語っています。
『自由を考える』で最高位訓詁学者風オシャベリを披露してるだけある大澤さん。さすがにスルドイ指摘をしていて、貫禄モンのテキストがいい感じです。大澤さんの主張だけが新人類以降のものなので、それだけでも新鮮。とっても貴重なテキストでしょう。内容は事前に行なわれた東工大でのシンポジウムのマトメでもあるらしいので、その点でも、今回いちばん注目される見解なんだと思います。
大澤文のタイトルは「<ポストモダニスト>吉本隆明」で、「現在形の読解」というコーナーの3つのテキストのひとつです。
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1980年代の日本では、「ポストモダニスト」たちにとって、
吉本隆明を批判することが、踏み絵的な儀式であったことが
ある。
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この踏み絵をリードしたオサレなポストモダニストといえば『構造と力』の浅田彰さんでしょう。
大澤さんは「ハーバーマスによれば」「マルクス-ニーチェ-フロイト」が「ポストモダニスト」の教祖だという指摘をしつつ、その方法こそが「モダニズムの理論の常套手段」だとし、「吉本隆明が、「マチウ書試論」で試みたのも」そのひとつだと説明します。
大澤さんのこのテキストは、いちばんまっとうな吉本理論のガイドかもしれません。しかし、難解で有名な心的現象論については守備範囲外なようです。それでも世界視線やアフリカ的段階について大澤さんチックな特徴がでている解釈なんですがとにかく説明してるところが親切で、参考になります。
いちばんポピュラーな吉本理論といえば共同幻想論ですが、それを「国家の起源を問う試みである」というシンプルにそのままスバリと指摘してるとこがステキです。
政治的な思い入れがある人は共同幻想論を幻想(=国家)を解体しようとする理論と読み、哲学や心理学的な興味がある人はそれをすべては幻想なんだよとひとり納得しちゃうんですが、どちらも読みたいように読んでるという点では同じ。その点、大澤さんはそうゆう読みたいように読むという自己のエゴからは離れることができてます。思想はマイブームじゃ語れないからですね。
その共同幻想論が「遠野物語」と「古事記」という日本ローカルな素材を使っているのは日本という現実において有効な理論にしたいという吉本さんのハゲシイ願望によるもの。思索の対象も含めて抽象化するだけのありがちな理論とは違うワケです。
ちなみにハイ&マス・イメージ論はその現在形。そういう点では『動物化するポストモダン』は東浩紀さんの共同幻想論ということもできます。こういう認識はけっこう大事かもしれません。
大澤さんの共同幻想論の要約もオリジナルの主張にそっていてイイです。
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「遠野物語」を素材に
「未知に対する素朴な恐怖の共同体が作りなす原初的な共同幻想が」
「「他界」の観念を獲得するまでが描かれる」
「古事記」を素材に
「その共同幻想が、「国家」へと結晶する機序が論じられる」
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今や少なくない人がテキトーに使っちゃう共同幻想というタームと、たぶん発言者の数だけある吉本理論への批評やコメントのなかで、ほぼ唯一のストレートで完ペキな解説は、この大澤さんのこのテキストだけかもしれません。わずか14行、輝く第一段落という感じのイントロダクションです。
(2003/10/15)
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