シーソーする象徴界と想像界
ラカンの誤読は、至るところにある。
つまり「象徴界を想像的に把握しうると信ずること」だ。
『戦闘美少女の精神分析』(斎藤環/筑摩書房)
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人間は人間に解決できることしか提起しません。
『戦闘美少女の精神分析』の問題提起から何か見つけられそうだと思いつつ、吉本理論との同定を探ると、やはりそこにはシーソーする認識のロジックがあります。
象徴界をどのように把握すると、ちゃんと把握できるのかという問題とその解ですね。
現実界から想像界を差し引いたものが象徴界?というような乱暴な、でも、基本的な認識が可能か? それには想像界と象徴界の排他的な連関を指摘できればとりあえずOKではないか....?
現実界という無限性の中にあって、どうにか想像力をめぐらしても、想像力の根拠なり依拠するトコを完全に対象化することは不可能。この想像力による決定不能の認識界こそ象徴界ということ、をラカン派の斎藤環さんが(意図せずに)自ら示していました。もちろん、この決定不能性はゲーデルの定理的な自己言及の矛盾です。
本当は順序が逆で、決定不能だからこそ象徴界だという位相もあるでしょう。だとするといろいろ考えるコトができます。
まず、認識力が形成される時間的順序から考えると、「想像力による決定不能」であれば、想像力が獲得される以前からの認識が象徴界だとわかります。
これは<負の記憶>(『心の起源』木下清一郎・中央公論新社)と呼ばれる本能の段階のレスポンスを可能とする認識の状態です。生命反応的なもので、これに刷り込みによる定型的な学習が加わり、現実の環境への認識が可能になっていきます。
想像界と象徴界は排他的な連関ですが、それは同時にシーソーのような関係です。
たとえば想像力が未熟であれば、それに応じて象徴認識に頼るしかなく、逆に象徴認識、刷り込み認識に依拠する分だけ想像力を必要としない....。
想像界と象徴界、この2つの認識はシーソーの関係にあり、また互いに遠隔対称化した関係にあるワケですね。以上は観念上の認識であり、現実界に対しては<力>によるアプローチがあります。
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戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)
著:斎藤 環
参考価格:¥840 価格:¥840 |
(2003/8/26,2009/4/10)
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