すべては<代入される空間性>
残念というか当然ながら<共同性>(≧国家・宗教などほか)というものはそれ自体として存在し得ない、あるいは、それ自体の存在を確認する術を人間は持っていない....ようです。人間は粘菌みたいに融合して共同態として大きな単一細胞になるワケではないので、マテリアルに同じ流行にとびついて観念の安定性?を求めるのも、ボルボックスや粘菌のようでもあって、必然かもしれませんね。
そんなワケで共同性は、いつも、幻想性としてしか存在し得ないし、幻想そのものなのでしょう....。
とりあえず、自己観念の中の自己コントロール出来ない部分を共同性として認知するのは、論理的にも納得のいく機序。だから共同性とは<常に既に><矛盾>であるし、<ゲーデル的決定不能性>そのものに表象されるようなものを根拠にしてるといえるワケです。
決定不能という根拠そのものが補償するのは、常にどこかへ向かってエクスプロイットしていく動因そのものであり、常にリーチングしてる志向性ということでしょう。
共同性そのものは幻想性でしかないので、その代同物をいつも保持してるワケです。もちろんその代同物が空間性を仮構して何らかの知覚対象化するのがあらゆる幻想のタネだったりそのものだったりします。もちろんこの知覚対象化は疑似的に、ということです。
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共同性の代同物として、
対象に<投射>された自己妄想から知覚が遠隔化される。
このことによって成立する観念は
知覚的属性を持たず、
しかも自由な想像力もない。
単に共同観念(の代同物)として、
何らかが代入される空間性として存在する。
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想像力が発展的に生成しない場合は代入するものもそれに応じます。とりあえずは自己イメージを代入するコトができます。だから神様などは擬人化されたタイプが多いワケですね。想像力が不自由な分だけ代入されたものの属性は自由で万能。これが神が全知全能である理由なのだと考えることもできます。
神とか宗教のというのは意外に簡単に理解できるかもしれません。問題はそれ以上に簡単に生成してしまうコトでしょうか。
中沢新一さんによれば甲州地方じゃただの丸い石が拝む対象になってるらしいですが、「ただの丸い石」というところがポイントかもしれません。ついでに拝む理由も無かったと思います。それは「代入される空間性」を象徴した典型的なサンプルだといえそうです。
また『心的現象論序説』には「私」を疑惑と恐怖に陥れそうな「空白」として症例からサンプリングされているものがあります。普通は可視できない共同性が視えてしまう患者の例です。そして文法がないピダハンの独特な共同性の発現というものもあります。ピダハンには宗教も神もないので、この共同性の発現の仕方は非常にユニークなものといえるのでしょう。
(2001/12/5,2009/03/30,2015/06/26,2015/7/7)
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