象徴界を超えるのは?
●象徴界を超える共同性
人が赤信号で止まる(進まない)のは象徴界の効果だとします。
すると「赤信号でも、みんなで進めばコワくない」のは何を意味してるのでしょうか? それは「みんなで」という認識が「象徴界」を超える可能性を示してるワケですよね? つまり、共同性は象徴界認識と同等かそれ以上の影響(力)があるかもしれないというコトではないでしょうか?
象徴界が意識や自覚によって生成する認識ではないとすれば、それに影響を与えるコトができる共同性は、意識や自覚の無い認識そのものを変更することが可能な認識だというコト、共同性の強度というものはスゴイものだというコトになりますよね?
●象徴界を超える想像力
「赤信号」で「止まる」というのは学習によって刷り込まれた認識であり、その結果として日常的に自動的に行使されるシンプルな象徴界認識。「青信号」で「進む」のも同じ。 ただし現実の「青信号」には危険があります。
「青信号」だから安全だというのは絶対ではありません。実際には「青信号」でも状況を判断して「進む」かどうか決めます。
想像力を行使して現実をリアルに認識するワケですね。
「赤信号」の場合も同じです。たとえば赤信号であっても現実に危険性が無いことが認識できれば「進む」ことができます。
現実をリアルに認識できれば象徴界認識は無効にすることもできるワケです。むしろ青信号であっても危険なコトがある現実というものこそシビアに認識しなければいけないでしょう。
TPOをリアルに認識しようとする想像界認識は象徴界認識を超えて現実界を認識し見切るコトができます。
どんなにメチャクチャな状況だろうと、想像界認識は生きていくための最大の力になるでしょう。
●「メチャクチャ」の意味するもの
それから「メチャクチャな状況」だというのもホントは現実界と象徴界の不整合そのものを示してるだけなんですね。
「青信号」でも現実に危険な状況と直面してる時に「青信号」というコンテクスト(または「コンテクスト・マーカー」あるいはリリーサー?)が示す内容を修正できない、つまり学習し直して同定認知することができない、そういう硬直しててかつ脆弱な認識の方が問題です。
つまり強固な象徴界に捉われてる者には現実がリアルに認識できない....ただソレだけのことかもしれません。
指示表出の代表例である名詞は象徴界認識の表出でもあり、指示決定と自己確定の関係は象徴界と想像界の関係でもあるといえそうです。
(2003/3/10)
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