はじまりは<自他不可分>
日頃の問い・・・
哲学界の天皇陛下こと広松渉先生でも、どこの大家でもいいんですが、そういった人々が提起しつつ、解答できずに、自問自答の嵐の中へ突入していって、誰も帰って来なかったとでもいうような、問題があります。鈴木大拙のような方も、究極にはそういった問題に辿りついていたのではないでしょうか。
それは、たとえば、左手と右手が感じ合うことだったりします。
左手と右手を合わせて、どちらがどのように対象を感得し決定しているのかというような問題です。お風呂なんかでもこういったラジカルで大きな問題が確認することができます。ちなみに『世界の共同主観的存立構造』などの本を読んでもこの問題の解答は見つかりません。
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自他不可分・・・
自分の体温と同じ36℃程度の温度のお風呂に入ると、お湯の存在を感じにくくなります。そうっと静かに入って、お湯に波を立てず、お湯の動きが無い場合なら、ほぼ何も感じないでしょう。感覚的にも意識(観念)的にも<ゼロ>の状態として同定できます。
感覚器は自己と対象を判別できない状態にあるわけです。
ただし「判別」できないけど、マテリアルには「自分」と「お湯」は別物です。
ここに認識と事実の大きなギャップがあります。
もうすこし詳しく説明すると、この<自分>は2重になっています。
<身体>と<心>の2重です。
<身体>と<心>は相互に疎外し合っています。
しかし
<心>は<身体>をとおしてしか発現できず、
<身体>は<心>によってでしか機能しません。
この<心>と<身体>2重の疎外のうえで、さらに<自分>と「お湯」という<外部>とを判別できない状態があるわけです。これを<身体>と<心>と<外部>の区別がついていない状態として位相学的に<純粋疎外>の構造を想定できます。心的現象における<ゼロ>の発見です。
この状態の感覚が<純粋感覚>であり、それが視覚ならば<純粋視覚>ということになります。
この<純粋疎外>と形容される位相と、生きているというコトだけで成立する、生命と環界との異和である<原生的疎外>の位相。
この2つの位相の差異=ベクトル変容が<心的現象>あるいは<観念>そのものだと定義されます。
この<自他不可分>の状態とは、現実のなかで一瞬垣間見ることができる<純粋疎外>の状態です。
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内部と外部・・・
自己と対象の峻別の問題は、心的現象の基本的な概念設定における根本的な重大な問題です。
入力に対してダブルバインドな<決定不能性>が生じるのはベイトソンの指摘を待つまでもなく大きな問題であり、同時に日常的なシーンですが、自己と対象の峻別が不能となり混乱をきたす<自他不可分>の状態も日常的であり、必然であるとともに心的現象の根源を左右する問題です。
心的現象には2つの基本的で不可避な問題が想定できるワケです。
論理的に考えてその内部における決定不能性と、外部との関係である自他不可分。前者は自己言及におけるゲーデル的な必然的な矛盾であり、後者はシステム論的な位相性の境界の混乱です。
精神的なものから身体的なものまで、障害とか病気とか、偏差とか異常というものは、すべてこれらの混乱や錯乱として考察することができます。
プレエディパルには<自他不可分>は常態でもあり、この乳幼児期の認識の分節化そのものが認識の基礎の生成そのものであるといえます。
(2004/4/23、2007/7/28)
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●世界との関係
<世界>と自己は不可分ですが、部分的に可分となり対象化することが可能になります。
赤ちゃんは空腹になるとオッパイが欲しくて泣きます。
泣くとオッパイがもらえて空腹が満たされます。
これらが反復されてある認識が成立します....... [続きを読む]
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