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2007年1月31日 (水)

自閉症児ドナのこと

 『文脈病』『不過視なものの世界』などで斎藤環さんがサンプルにしてるドナという自閉症児の例があります。

 ドナは5才の時にお祖父さんが死んでるのを見つけました。でも、お祖父さんの死がわかったのはそれから16年後のある日のこと。21才になってからお祖父さんの死を自己確定したドナは泣きました。

 お祖父さんの死という事実を視覚情報として受容=指示決定してから、それを判断情報として自己確定するまで16年間の時間がかかってます。

       -       -

 指示決定から自己確定まで16年間。

       -       -

 斎藤さんはこれを「祖父の死の意味」の「理解」が「器質的排除」によって「欠如もしくは遅延」されたと説明し、自閉症の定義をこころみてます。

 ところで、当時、お祖父さんが死んでるのを発見したドナは「嫌がらせ」で「自分をおいてきぼりにした」と思って腹を立てたそうです。そこには死への理解や悲しみはありません。

 つまり、正確には....お祖父さんの死を知ってから悲しむまで16年かかっていますが、死を知った瞬間にも「自分をおいてきぼりにした」と怒っているので、....ちゃんとドナなりの感情や判断があったワケです。

 また、ドナが当初は「自分をおいてきぼりにした」と怒り、そして16年後には悲しんだにしろ、そこには怒ったり泣いたりするハッキリとした主体(性)が確認できます。むしろ当初自閉症が重かったハズの時期である頃の怒りは、斎藤さんがドナに見い出している「主体化への恐れ」の反証になってしまう可能性があるでしょう。

       -       -

 自閉症児に「一人称の不在」が顕著だとしても、それは主体化への恐れや主体性の不在ではなく、主体という象徴(性)を内在化させていく上での普通の人と比した場合の遅延や冗長性ではないか、と思います。

 一見無表情無感動に思える自閉症児の表情やレスポンスは確かに感情が「欠如もしくは遅延」したり「主体化への恐れ」を感じさせ、「一人称の不在」を見い出すことができるかもしれません。しかし、それは表面的な観察かもしれません。
 たとえば、無表情をよそおうコトが激しい内面を隠すためであるのは子供から大人までが身をもって経験することです。無反応性は野生動物から昆虫にまで確認できる表出行為でもあり、ラジカルな防衛機制として神経レスポンスのひとつです。

 『心的現象論序説』で吉本隆明さんは『分裂病の少女の日記』のルネの破瓜状態を引用しながら....

       -       -

 もっとも重要なことは、
 このような外部観察からの無為状態とみえるものが、
 けっして心的領域の内的な構造において無為ではなく、
 意味で充たされていることをしめしている点である。

       -       -

 ....と主張し、無表情や無感動に示される内面の心的構造を分析してます。
 そして感情から何らかの志向(性)に転換していく状態である中性感情の構造こそが「人間の観念作用の必然的な特性」だと分析し、感情の対象が遠隔化されていく構造を見い出しています。そこには対幻想共同幻想へ転化する認識構造の基本もあるワケです。

       -       -

 <異常>あるいは<病的>とみなされる精神の働きは、
 一見すると外からは<感情>の喪失とみなされやすい<中性>の
 <感情>のなかに、もっともあらわれると申すべきである。

       -       -

 不安や怒りのような原始的な感情から高度?な認識に見える悟性や理性といったものまで、その対象への志向性を遠隔化させた関係意識 なのですが、それを遠隔化させる力動的なものは人間が自らの心身に内化させた本源的蓄積によるものです。

 それは外界とのプラグである感覚器そのものを含めてTPOへのアプローチとTPOからのアフォードから積分形成されてきたワケですね。

(2000/10/20)

「二人称」と「三人称」

 『心的現象論序説』で吉本隆明さんが参考資料として精緻に読み込んでいるのが、少女ルネの分裂病の発病から治療までの記録『分裂病の少女の手記』ですね。
 斎藤環さんがよく参考にしてるのが自閉症だった女性ドナの『自閉症だったわたしへ』という本人の手記です。

 吉本さんがルネの記録から考察したのは分裂病の基本的な特徴としての「三人称」「他人称」によるコミュニケーション。
 斎藤さんがドナや臨床の現場から見い出しているのが自閉症の多くに見られる「二人称」による自己表出やコミニュケーション。

       -       -

 斎藤さんはそこで....
 「二人称」による自己表出という「一人称の不在」の理由は「主体化への恐れ」だと主張しています。これについては「その「恐れ」ている主体は何なのか?」という疑問や「主体に先立つもの」についての孝察があるでしょう。

 吉本さんの主張はちょっと複雑になります。
 それは、そこにはそこから共同幻想(論)へと遠隔対称化(転回・展開)されていく理由そのものが含まれているからです。

       -       -

 独解してみると....
 「三人称」でのコミュニケーションが成立するのは、任意の「三人称」である指示決定は自己確定の可能性が高いからです。これは自己確定可能な指示表出を任意に設定できる場合はコミュニケーションが成立する、ともいえます。
 逆にいえば「一人称」や「二人称」での自己確定の失敗や不可能性がコミュニケーション不全=分裂病(のトリガー)であり、また「一人称」「二人称」でのコミュニケーションが可能ならば「三人称」でのコミュニケーションがいくら多様化しても、それは正常であり、観念の自由度の高さを示していることになります。

       -       -

 そして....
 「三人称」や「他人称」にさまざまなものを代入していく過程そのものが共同幻想化、観念の遠隔対称化ですね。この「三(他)人称」に代入できるアイテムを増加させ生産していくのが資本主義です。
 サブカルとはこの代入できるモノゴトについてのカルチャーそのもののことです。

 それはPOPであってもマスとは限らず、流行であっても必然とは限らない、大衆ベースのしかも大衆意識の異和そのものであるようなモノゴトでしょう。たとえば東京とか<アキバ>はそうしたものが具現化された街だと考えられます。

(2001/1/3,2010/6/22)

志向性としての時間性・空間性

 対象に関する志向性(≦了解の時間性)は作為体験として、
 対象との関係そのものに関する志向性(≦関係の空間性)は<不可避体験>として、表出する。

 

 原認識の原時間性と原空間性そのものが<受動態>としてしか構造化しないのは、心的世界そのものが先験的に存在する環界との関係性においてのみ生成するものだからである。

 

 正常な意志の<恣意性>は、対象に対する自由な<選択性>である。

       -       -       -

 観念の志向性やベクトル変容の方向性は原理としてはシンプルです。

 フロイトが主張したようにエスから離脱する自我の動向という一方向のトレンドがすべてのスタートであり、個人は常のその錯合した構造の特異点として存在するワケです。

『心的現象論序説』が探究し、考察した、人間の根源についての考察がここにあります。

(2001/7/16,2014/7/5)

2007年1月30日 (火)

<遠隔化>と非リアル化と意味化

 感性から意味が遠隔化され、
 意味から感性が遠隔化される。

 対幻想から共同幻想が遠隔化される。

       -       -

........以上の事由から
 「生の凝縮されたスタンスとしての非リアル化と意味化....」という人間の定向進化的なトレンドが考えられます。それは以下のように説明できるかもしれません。

       -       -

 「非リアル化」身体を含めた自然的環界との乖離の進行を、
 「意味化」指示表出化、コンスタティブ化である。(スターリン言語学で指摘されるようなコンピュータ言語化、形式論理化などもこれに含まれる)

 2者関係(≦対幻想性)における充足をゴールとするのが価値化である。

 2者関係(≦対幻想性)に公準とか客観とか第三者の観点からのジャッジが導入されるコトに対する抵抗が不安の根源である。(コミュニケーション不全とか郵便的不安と呼ばれるような事態も包含する)

 対幻想への禁制という否定性が共同幻想を生成する。

(2001/7/21,2010/10/4)

2007年1月29日 (月)

<遠隔化>されるということ

 現実の世界がモノゴトそのものとして把握されるならば、
 モノゴトそのものについてのイメージは生成しない。
 (視覚・聴覚以外の知覚にこの傾向は顕著)

 

 逆に、
 モノゴトそのものについてのイメージが生成するのであれば、
 モノゴトそのものについての知覚遠隔化される。

 身体的なマテリアルとしては
 感覚器の分子レベルの代謝からは神経が遠隔化され、
 脳神経の情報レベルの交通からは分子が遠隔化される。

 

 以上の反応過程をへて、
 感性から意味が遠隔化され、
 意味から感性が遠隔化される。

       -       -       -

指示決定から自己決定への過程と
そのマテリアルなシステム
生の凝縮されたスタンスとしての非リアル化と意味化....
というようなメモなんですが........考え中....。

(2001/7/17)

2007年1月28日 (日)

感情の生成するとこ

<感情>とは
<時間>として了解すべき判断を
<空間>として作動させている状態である。

 
あるいは
了解作用の<時間>性が
<空間>性として疎外されている状態である。

 
空間化された了解作用が、
対象を受容するための本来の空間化作用と二重に錯合して対象を措定するのが
感情である。

 
<感情>は消滅するのではなく、
心的な時間性の<空間>化という本質的な作用の強度に転化する。

 
対象に対する知覚の空間化度と
対象への了解の時間性が空間化した感情がシンクロした場合、
これを<純粋感情>とする。

       -       -       -

ハイデガーだと....

世界・内・存在の仕方とし、この存在そのものから立ち昇ってくる

 

............ですが。

(2001/7/29)

<はこれねよ?パンだ>

   はこれねよ?パンだ

       -       -

 コレは何か?というと、コレはある文です。
 どっかの外国語で「パンダ」や「パン」について語っているのかもしれませんが、一応、ココ日本で、日本語で語られている日常的な会話のひとつである<これはパンだよね?>という文をバラバラにしてみたものです。

 バラバラといっても単語や音韻までコワしていません。
 詞や語をコワさないで、それらの順番を変えただけです。

       -       -

   これ.は.パン.だ.よ.ね.?

        ↓

   は.これ.ね.よ.?.パン.だ

        ↓

   これ.?.パン.よ.ね.だ.は

       -       -

 <は.これ.ね.よ.?.パン.だ>でも<これ.?.パン.よ.ね.だ.は>でも、たいした変化はありません。共通するのは日本語として通用しないということでしょう。
 詞や語をコワさないで、順番を変えただけで日本語として通用はしなくなるワケです。
 正確には、日本語の<文>としては通用しないということですね。

 一つ一つの詞や語としては間違っていませんが、バラバラではそれぞれの意味を確定するのは困難か不可能です。

 たとえば、
 <は><だ><よ><ね>がどのような助詞なのか副詞なのかといったことはわかりません。

 <これ>は何かを指示していることはわかりますが、何が指示されているかはわかりません。

 <パン><?>が名詞記号化した疑問詞だということがわかるだけです。

 すると次のことがわかります。
 <は><だ><よ><ね>といった助詞や副詞と思われるものは、文全体との関係がないと判断できないということ。
 <パン><?>という名詞と記号は単独でも意味があるということ。
 <これ>は指示代名詞で、助詞と名詞の中間のようなタイプだと考えられます。

       -       -

 助詞や副詞は単独では意味が確定できない。
 名詞や記号は単独でも意味がある。
 代名詞はそれらの中間で、何かを示しながら示されたものが何であるかは不明です。

       -       -

 基本的に言語は、この助詞から名詞までのグラデーションなかのどこかに位置づけられるというのが、吉本理論の根本にあります。

 つまり、
 この助詞から名詞までのグラデーションを主体の表出の度合いの差異と考え、そこに主体性を見出すワケです。
 別のいいかたをすれば、パフォーマティブからコンスタティブへのグラデーションということです。

 また、
 名詞のように主体の表出としての価値はゼロでありながら、他者が容易に認識でき、共同性のコードとして機能するものがあります。

       -       -

 吉本理論的には助詞や副詞が自己表出で、名詞は指示表出です。
 助詞が遠隔化したものが名詞だとも考えられます。
 主体の発声が客体化され、主体から完全に切り離されたものの典型が名詞だということです。

       -       -

 ところで現実的な問題として、
 <これはパンだよね?>の<は>の問題があります。

 <は>は単なる助詞ではありません。
 限定か主格か? <は>の指し示している属性はそのTPOや状況からしか判断できません。場所を捨象し、文脈を無視して言語や理論だけ取り出しても意味は無いワケです。

       -       -

 たとえばアートとしてすぐれた表現というのは、名詞に助詞の意味をもたせるようなもので、それは享受サイドの鋭敏さ(読解力)も要求されるものです。

           
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(2004/5/25)

指示決定から自己確定まで

ここに、バナナ3本、リンゴ3個があります。
それをどう認識していくか?....という簡単な過程に
認識の問題の重要なポイントがあります。

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

1.キワめてカンタンな説明です。

●指示決定(表出)とは

 <リンゴ>や<3個>....といった概念(とそれを現す言葉)です。

 フツーにいうと客観的な情報ですね。
 ちなみに、指示表出の代表的なものは名詞です。

●自己確定(表出)とは

 リンゴ3個とバナナ3本があるな....などと認識すること。

 指示決定を認識すること。指示表出から確認できること、です。

       -       -

2.キホン的な意味とかです。

●指示決定とは

 <リンゴ><3個>
 <バナナ><3本>....

 思考しなくても認識できるモノゴト。
 思考の介在なしで認識すること

●自己確定とは

 <リンゴ>や<バナナ>があるな....
 <リンゴ>も<バナナ>も
 <3>個と<3>本で同じ数づつだな、などと認識すること。

 自己にインテグレートされている認識(のアーカイブ)と照応して確認すること。
 自己確定の代表は納得することです。

       -       -

3.フツーに日常的に無意識に行なわれる認識にこそ重要なポイントがあります。

●指示決定とは

 思考の関与しない認識。 → 象徴界認識
 思考(主体的)を介在させたくないモノゴト。 → 1or2人称の消失、統合失調症的
 思考を排除した肯定性。 → 思考への否定性を動因とする認識(志向性)

●自己確定とは

 自己にインテグレートされている認識と照応させる(時に)思考がスタートします。

 指示決定を抽象し、
 再び構成して自己確定していきます。

 指示表出上の差異を超えて
 同一性を見い出すコトがポイントです。

 2つ以上の<違う>モノゴトを<同じ>と見なすコト
 差異を超えて同定するコト。
 これは共同性を成立させる最重要な認識です。
 構成同一性などと呼ばれる認識です。

(2004/5/5)

<う>の指示表出・自己表出

 コミュニケーションや表現のポイントとして「助詞」の使い方は重要です。もちろん言語論としてはスターリン言語学の透徹した問題意識だってグレートだし、関係もあります。

 ところで「コンスタティヴ」「パフォーマティヴ」という東浩紀さんの問題設定は、吉本理論では「指示表出」「自己表出」の関係になるでしょう。

 『言語にとって美とはなにか』に狩猟人がはじめて海岸へ迷い出て、海を見て<う>と叫ぶというシーンを設定して説明してるところがありますが、「指示表出」「自己表出」について、ここでも「う」で説明したりするとすると...(『言語美』での説明とは違います)。

       -       -       -

 「う」と発声されただけの次元では「指示表出」か「自己表出」か決定不能です。
 「う」という発声は空気振動というマテリアルな事実として確認したり再現したりできます。
 でも「指示表出」か「自己表出」かはマテリアルからは決定できません。

 「う」が「指示表出」となるのは、その対象となるモノゴト(この場合は海)を他者へ伝えようとする時です。
 ここからコミュニケーションがはじまります。

 「う」が「自己表出」となるのは、「う」の発声によって「自己確認」する(自意識)時です。
 ここから思考がはじまります。

       -       -       -

 このように「う」そのものだけで指示表出か自己表出かは定義できません。
 情況によって、つまりTPOや場所的限定によって決定されるワケです。
 「う」は可能性として「指示表出へのベクトル」と「自己表出へのベクトル」の両方を持っています。
 TPOによってどちらにも機能するワケです。
 しかも、これは固定した静態的な決定ではありません。

       -       -       -

 「う」と声を出したら「海」のことだ、という2者間の合意があって成立するもの。
 それが対幻想です。
 共同体レベルであれば共通コードの成立でしょう。
 それが共同幻想です。
 そして発声の分節化が進めばやがてそれは各種の「品詞」の登場を意味するワケです。
 それが、言葉の進歩ですね。

(2000/7/6)

2007年1月27日 (土)

妹・コモート・ソモートか?

ソシュールでは.......

 「妹」という言語は「妹」という概念(記号的にみればシニフィエ)<イモート>という音像(シニフィアン)とがむすびついたものになります。

吉本理論では.......

 「妹」という言語は〔妹〕という概念に対応する表現体(実体)です。

そしてソシュールに対して、次のような正当な疑問が示される.......

 〔妹〕という概念が<イモート>という発音と結びついていなければならない必然はもともとありません。つまり<イモート>でなく<コモート>でも<ソモート>でもいいはずです。


 ソシュールもチョムスキーも紹介される以前に、マルクスの疎外論などから言語論を構築した吉本さんは、『ハイ・イメージ論Ⅱ』の「拡張論」ではソシュールを読みながら再度マルクスの経済理論を参照しつつ言語論の拡張を略っています。

 ソシュールが<話すコト>と<聴くコト>を対象にし、<文字>や<書くコト>を捨象した理由を探ることによって、ソシュールの真意を明らかにし、自らの言語論の説明とされていきます。また、発話行為を説明できても、発話の動機、発話を続ける理由がソシュールには説明できないことを指摘。その静態的な理論こそが既存の理論を内破し、それこそがソシュールの意図だったのではという示差はスリリングです。

 ソシュールへの検討は批判的にみえながら、大逆転であるかのようにソシュールのラディカルな破壊的な意図を指摘し、同時に自らの段階論への基本的なアプローチを示すなど余裕と可能性にあふれた内容です。

(2004/8/27)

象徴界を超えるのは?

●象徴界を超える共同性

 人が赤信号で止まる(進まない)のは象徴界の効果だとします。
 すると「赤信号でも、みんなで進めばコワくない」のは何を意味してるのでしょうか? それは「みんなで」という認識が「象徴界」を超える可能性を示してるワケですよね? つまり、共同性は象徴界認識と同等かそれ以上の影響(力)があるかもしれないというコトではないでしょうか?
 象徴界が意識や自覚によって生成する認識ではないとすれば、それに影響を与えるコトができる共同性は、意識や自覚の無い認識そのものを変更することが可能な認識だというコト、共同性の強度というものはスゴイものだというコトになりますよね?

●象徴界を超える想像力

 「赤信号」で「止まる」というのは学習によって刷り込まれた認識であり、その結果として日常的に自動的に行使されるシンプルな象徴界認識。「青信号」で「進む」のも同じ。 ただし現実の「青信号」には危険があります。
 「青信号」だから安全だというのは絶対ではありません。実際には「青信号」でも状況を判断して「進む」かどうか決めます。
 想像力を行使して現実をリアルに認識するワケですね。
 「赤信号」の場合も同じです。たとえば赤信号であっても現実に危険性が無いことが認識できれば「進む」ことができます。
 現実をリアルに認識できれば象徴界認識は無効にすることもできるワケです。むしろ青信号であっても危険なコトがある現実というものこそシビアに認識しなければいけないでしょう。

 TPOをリアルに認識しようとする想像界認識は象徴界認識を超えて現実界を認識し見切るコトができます。
 どんなにメチャクチャな状況だろうと、想像界認識は生きていくための最大の力になるでしょう。

●「メチャクチャ」の意味するもの

 それから「メチャクチャな状況」だというのもホントは現実界と象徴界の不整合そのものを示してるだけなんですね。
 「青信号」でも現実に危険な状況と直面してる時に「青信号」というコンテクスト(または「コンテクスト・マーカー」あるいはリリーサー?)が示す内容を修正できない、つまり学習し直して同定認知することができない、そういう硬直しててかつ脆弱な認識の方が問題です。
 つまり強固な象徴界に捉われてる者には現実がリアルに認識できない....ただソレだけのことかもしれません。


 指示表出の代表例である名詞は象徴界認識の表出でもあり、指示決定と自己確定の関係は象徴界と想像界の関係でもあるといえそうです。

(2003/3/10)

三界論と<力>と

 

 100パーセントコントロール可能なのが想像界、
 コントロールしてるつもりで実はされてるのが象徴界
 絶対的にコントロール不可能なのが現実界ですよ。

            (『網状言論F改』/鼎談/斉藤環)

       -       -       -

 ジャブの応酬でそれぞれの立場をハッキリさせただけでも一読の価値ある『網状言論F改』。特に斉藤環さんはいくつかの場面で大胆に原理を主張してラカンをはじめとした認識への理解を導いてくれてます。
 その一つがこのラカンの三界論のカンタンな説明ですね。

 『文脈病』なども参考にすれば「100パーセントコントロール可能」な「想像界」ベイトソンの「学習Ⅱ」や「学習Ⅲ」の世界?
 それは、いわゆる構成同一性「同定認知」によって認識される世界でしょう。

 「象徴界」が「コントロールしてるつもりで実はされてる」というのは、世界観の象徴界化も対象の象徴化も主体的に選択し獲得できるものではないということ。刷り込みや条件反射などによる神経レスポンスと認識がそうです。より観念的には指示決定の不変性(たとえば名詞の普遍性)という父性(性)は闘争(想像力を駆使した強度?)の対象となりますが、その闘争を可能にしているのはその父性(性)そのものです。

 「現実界」は認識上は「絶対的にコントロール不可能」です。マテリアルそのものである現実は認識を左右することはあってもその逆はありません。
 現実=マテリアルを左右できるのは力を媒介にした時だけです。これが浅田彰さんの『構造と力』の<力>ですね。マルクス的には<労働>です。

(2003/3/3)

対幻想のホットとクール(!)

 マルクスが27歳のときの切実なテーマが<個人と人類の関係>です。
 人間は具体的には<個別的現存>にすぎないのに、なぜ<人類>が成り立つのか?という問題ですね。それは商品は具体的(使用価値)なのに、貨幣は抽象的(交換価値)なのはなぜか?というような問題とパラレルでもあるでしょう。

 人類が成り立っている直接の契機は<性関係>であり男女の関係によります。
 生物学的には生殖なのですが、それが恋愛であり、愛や憎しみという感情をとおして社会全域にわたって人間を人間たらしめている根本的な動因でもあり、文化から戦争、政治から宗教まで、あらゆる人間活動の源泉であり目的そのものでしょう。
 それを吉本理論では<対幻想>と呼称し最重要概念として定義しました。愛が憎に憎が愛に、個人が共同性にそしてその逆に、意識の志向性が容易に転化し拡大(あるいは縮小)することの論理的な説明が<遠隔対称性>です。
 個体は環界の中で遠隔対称性を行使しシーソーのようにバランスしながらアイデンティティを維持しています。

       ・       ・       ・

 遠隔対称性は対幻想という多義的なタームを構成しその中心となる概念であり、より抽象化されたもの。原生的疎外純粋疎外についての正当な解釈がすくないように、この遠隔対称性についての理解もほぼ見当たりません。しかも、このタームは吉本理論解読の最重要ポイントでもあるハズです。

 マルクスはヘーゲルの観念論を逆立させた....という認識はかつて常識だったかもしれません。そのような状況のなかで書かれた吉本理論は、そのような常識を前提にしていて、あえて〝共同幻想が対幻想と逆立する〟ことや〝自意識が遠隔対称化されて共同幻想を生成していく〟ことなどの説明において、「逆立」や「遠隔対称性」についての仔細な説明、注釈の類は少なく読者の理解力が試されています。

       ・       ・       ・

....ということで、実にクールな論でもある、と思っちゃうこともあるワケです。

(2003/9/23)

2007年1月26日 (金)

対幻想は時点ゼロ(脱力風)

 心的現象論のオリジンであり原点は、純粋な関係意識=対幻想を時点ゼロとして定立させ、そこから生成していく感動を動因に認識が遠隔対称化することを理論化したこと。

 この時の感動の力価とベクトルをグレード化し、各感覚器官からのインプットを変数として、総合認識=観念とその自己言及性を係数に心的現象を追究していく....そのパースペクティヴは、ラカンの三界論などを超えているのではないか。

 人間の各人が持っている象徴界認識の祖型が心身の形成段階のある錯合の結果として把握されるならば、その溯行的分析が象徴界認識をはじめとした全認識の再構築の可能性として保障されるだろう。

       -       -       -

こーゆー風にクール?に書いてったらいいかなあと思いつつ、
持続力ゼロなんで、時点ゼロ作戦へカムバックして、
毎日自分が時点ゼロだったりしまうすー。

(2001/12/18)

2007年1月25日 (木)

遠隔対称化する三界(ロック風?)

 身体の拡張なんて、モロに、遠隔対称性だからね。
 ラカン三界論の想像界・象徴界・現実界の相互の関係もそーでやんすが。

 

....などとゆーエライ?ことを書いちゃったけど、自らビビッちまうのは、
こーゆーことを主張してしまう文責の重さなんかじゃなくて、
こんなに真理はシンプルなんだね、とゆー事実と、
それがこんなにカンタンに表出できるんだね、
とゆー現代のコンビニエンスな便利さについてなんだよーん、と。

そーゆーワケで....

       -       -

  想像界が遠隔対称化すると象徴界に、
  象徴界が遠隔対称化すると現実界に、
  現実界が遠隔対称化すると想像界に、
  想像界が遠隔対称化すると....
  ....∞....

       -       -

....と、無限ループするのが生きるつーことですが、
ま、アタマの限界とかマテリアルな限界がストップをかけてくれたりします。
もちろん、それは、ビョーキとか、死、でしょ。

(2003/8/18)

2007年1月24日 (水)

シーソーする象徴界と想像界

 ラカンの誤読は、至るところにある。
 つまり「象徴界を想像的に把握しうると信ずること」だ。

      『戦闘美少女の精神分析』(斎藤環/筑摩書房)

       -       -       -

 人間は人間に解決できることしか提起しません。
 『戦闘美少女の精神分析』の問題提起から何か見つけられそうだと思いつつ、吉本理論との同定を探ると、やはりそこにはシーソーする認識のロジックがあります。

 象徴界をどのように把握すると、ちゃんと把握できるのかという問題とその解ですね。

 現実界から想像界を差し引いたものが象徴界?というような乱暴な、でも、基本的な認識が可能か? それには想像界と象徴界の排他的な連関を指摘できればとりあえずOKではないか....?
 現実界という無限性の中にあって、どうにか想像力をめぐらしても、想像力の根拠なり依拠するトコを完全に対象化することは不可能。この想像力による決定不能の認識界こそ象徴界ということ、をラカン派の斎藤環さんが(意図せずに)自ら示していました。もちろん、この決定不能性はゲーデルの定理的な自己言及の矛盾です。

 本当は順序が逆で、決定不能だからこそ象徴界だという位相もあるでしょう。だとするといろいろ考えるコトができます。
 まず、認識力が形成される時間的順序から考えると、「想像力による決定不能」であれば、想像力が獲得される以前からの認識が象徴界だとわかります。
 これは<負の記憶>『心の起源』木下清一郎・中央公論新社)と呼ばれる本能の段階のレスポンスを可能とする認識の状態です。生命反応的なもので、これに刷り込みによる定型的な学習が加わり、現実の環境への認識が可能になっていきます。

 想像界と象徴界は排他的な連関ですが、それは同時にシーソーのような関係です。
 たとえば想像力が未熟であれば、それに応じて象徴認識に頼るしかなく、逆に象徴認識、刷り込み認識に依拠する分だけ想像力を必要としない....。

 想像界と象徴界、この2つの認識はシーソーの関係にあり、また互いに遠隔対称化した関係にあるワケですね。以上は観念上の認識であり、現実界に対しては<力>によるアプローチがあります。

           
戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

著:斎藤 環
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(2003/8/26,2009/4/10)

2007年1月23日 (火)

はじまりは<自他不可分>

日頃の問い・・・

 哲学界の天皇陛下こと広松渉先生でも、どこの大家でもいいんですが、そういった人々が提起しつつ、解答できずに、自問自答の嵐の中へ突入していって、誰も帰って来なかったとでもいうような、問題があります。鈴木大拙のような方も、究極にはそういった問題に辿りついていたのではないでしょうか。

 それは、たとえば、左手と右手が感じ合うことだったりします。
 左手と右手を合わせて、どちらがどのように対象を感得し決定しているのかというような問題です。お風呂なんかでもこういったラジカルで大きな問題が確認することができます。ちなみに『世界の共同主観的存立構造』などの本を読んでもこの問題の解答は見つかりません。

       -       -       -

自他不可分・・・

 自分の体温と同じ36℃程度の温度のお風呂に入ると、お湯の存在を感じにくくなります。そうっと静かに入って、お湯に波を立てず、お湯の動きが無い場合なら、ほぼ何も感じないでしょう。感覚的にも意識(観念)的にも<ゼロ>の状態として同定できます。
 感覚器は自己と対象を判別できない状態にあるわけです。
 ただし「判別」できないけど、マテリアルには「自分」と「お湯」は別物です。
 ここに認識と事実の大きなギャップがあります。

 もうすこし詳しく説明すると、この<自分>は2重になっています。
 <身体>と<心>の2重です。
 <身体>と<心>は相互に疎外し合っています。
 しかし
 <心>は<身体>をとおしてしか発現できず、
 <身体>は<心>によってでしか機能しません。

 この<心>と<身体>2重の疎外のうえで、さらに<自分>と「お湯」という<外部>とを判別できない状態があるわけです。これを<身体>と<心>と<外部>の区別がついていない状態として位相学的に<純粋疎外>の構造を想定できます。心的現象における<ゼロ>の発見です。

 この状態の感覚が<純粋感覚>であり、それが視覚ならば<純粋視覚>ということになります。
 この<純粋疎外>と形容される位相と、生きているというコトだけで成立する、生命と環界との異和である<原生的疎外>の位相。
 この2つの位相の差異=ベクトル変容が<心的現象>あるいは<観念>そのものだと定義されます。

 この<自他不可分>の状態とは、現実のなかで一瞬垣間見ることができる<純粋疎外>の状態です。

       -       -       -

内部と外部・・・

 自己と対象の峻別の問題は、心的現象の基本的な概念設定における根本的な重大な問題です。
 入力に対してダブルバインドな<決定不能性>が生じるのはベイトソンの指摘を待つまでもなく大きな問題であり、同時に日常的なシーンですが、自己と対象の峻別が不能となり混乱をきたす<自他不可分>の状態も日常的であり、必然であるとともに心的現象の根源を左右する問題です。

 心的現象には2つの基本的で不可避な問題が想定できるワケです。
 論理的に考えてその内部における決定不能性と、外部との関係である自他不可分。前者は自己言及におけるゲーデル的な必然的な矛盾であり、後者はシステム論的な位相性の境界の混乱です。

 精神的なものから身体的なものまで、障害とか病気とか、偏差とか異常というものは、すべてこれらの混乱や錯乱として考察することができます。

 プレエディパルには<自他不可分>は常態でもあり、この乳幼児期の認識の分節化そのものが認識の基礎の生成そのものであるといえます。

(2004/4/23、2007/7/28)

2007年1月22日 (月)

吉本隆明はポストモダンか?

●吉本隆明さんがポストモダンだあ?   どーでもいいけど

 03年11月5日、新聞に東工大で開かれた「吉本隆明をめぐるシンポジウム」のことが紹介されていて、「吉本氏は真のポストモダニスト」だという大澤眞幸さん(1.2.)の新説がフォーカスされていた。ニューアカはモダンのシニカルな変形で、彼らに批判された吉本氏こそポストモダンだったんだという。
 ニューアカがシニカルなモダンでしかないのはバブル経済とともに知も商品であることを自ら体現したニューアカそのものの趨勢をみれば明らかかも。

●ポストモダンそのものがフェイクじゃん   お馬のニンジン

 吉本さんがポストモダンのフェイクとして扱われるのは、その扱われ方そのものがポストモダンのフェイクなんだけど。「堕ちよ!さらば、吉本隆明」だっけか、あーゆーのを典型にしたモダンの露呈の方が個人的表現でしかない文芸としてはいいのでは....。

 ポストモダンの基本的なスタンスなんてH・ルフェーブルの主張やレーニンやトロツキーの態度にだって現れてるし、新しい見解だからOKとゆーのは発想そのものがモダン。反対派がスターリンに処分されるちゃう中央委員会で会議サボってバルザックなんか読んでたトロツキーのカッコよさはモダンかどうか....。もちろんトロツキーは敗北するけど、カッコよく負けるのや殿戦するのはモダンのなかでもいちばん難しいスタンスでしょー。

●解決はモダンの中にしかないよ    しかもバラバラ

 それよりむしろリゾームやノマドやスキゾという言葉遊びをポストモダンだと早合点した自分たちこそシニカルなモダンだったという反省や自己言及が大切。専門用語並べて自己表現するなんてコミュニケーションの面からは単なるサイテーで、考えなければいけないのは相手のコト、享受者のコトであるのは言うまでもないから。

 ニューアカがポストモダンだったのはインテリジェンスが商品で『構造と力』がファッションだったのを認めるところにしかないかもしれないし。カタカナがいっぱい並んでるのは、漢字がゴチャゴチャしてるより簡単に読めそうだったという感覚は結構大事かもしれない。

 そもそも真偽を問うことそのものがモダンの極致。大澤さんてマジメ過ぎで、彼こそシニカルなモダンでしょ。もちろん吉本さんは究極のモダン。なぜならば解決はモダンの中にしかないから。解決を目指す人はみんなモダニストだもんね。

●ポストモダンをモダンに語れよ   いろいろあるし

 ところで、吉本氏は真のポストモダンだとゆー主張を「かなりおもしろい」と評価するのが橋爪大三郎さん。「納得できる」と同意するが竹田青嗣さん。
 宮台真司さんを「そんなに日本的でいいのか?」とかなんとか批判した橋爪さんには、その宮台さんのポストモダンぶりがわかってないのかもしれないし、簡明な哲学ガイドの竹田さんには同意する以上のことはしないのかもしれない。
 日本語の入れ子構造にフォーカスした東浩紀さんや最近よく弁証法を主張する田中康夫さんの方がポストモダンかもね?

●アフリカという問題    温故知新かあ

 『アフリカ的段階について』を「天下の奇書」という大澤さん。アフリカの黒人哲学者フランツ・ファノンが「奇書」を書けなかったのはヘーゲルに代表される西欧哲学の範囲内でしか思考できなかったからで、インド・ヨーロッパ語以外の言語による哲学の可能性を予期していたニーチェやマルクスのささやかな先見性こそ大事でしょ?
 それにしても「「輸入学問」から脱皮しえていないと自認するアカデミズム」という指摘はステキでしかも笑えた。
 3度目以降は笑うだけと主張するマルクスは、モダンの極致としてサイコーかも。

●アンタッチャブルにタッチ   ドーナツの穴か

 このシンポジウムでも記事でも心的現象論にタッチできていないことこそがモダンの証拠かも。心的現象論を理解できた人はほぼいないかもしれないし....。
 とゆーワケで、今後とも『アフリカ的段階』と『心的現象論序説』は現代思想のブラックホールとして人に知られることなく、そして、だからこそドーナツの穴のようにあり続けるワケなんでしょーか?

 ついでに記事によると....『共同幻想論』では共同幻想と個人幻想の間に対幻想を設定した....と。
 時点ゼロでバランスしている対幻想の双数性こそが問題=遠隔対称性なんだけど、共同と個の間という定義は安易な気が....。

 『構造と力』で引用されている「根源的脱自態」というM・ポンチの概念を深化させればラジカルな展開ができた可能性はあるけど。それより18年も前に提出されていた「原生的疎外」という『心的現象論序説』のヘヴィなタームに圧倒されて沈黙した人は多いのかもしれないし。幸か不幸か思想の上でも父子相伝の物語りが日本では機能していないかもしれないし。

●ドーナツにタッチすると   穴へ逃げるか

 アフリカ的段階は宗教の初源でもあるけど、マテリアルな事実としてその成立にTPOが勘案されているとこが重要なポイント。マテリアルな条件、環境、環界、関係性の原点となるところ。ヘーゲルにモルガンからアメリカンネイティブの神話まで解析した上での見解はユニークでラジカル。

 場所を捨象するデリダみたいな認識論は100%の観念=幻想の中にしか成立しないでしょ。しかもその観念の主体だってあるTPO=場の中にしか存立できないので、ソレを自覚できてないとヤバイことになるかも。

 だからイカレタヤツらは「宇宙」や「来世」や「彼岸」を語るワケ。つまり理由はカンタンで自己の観念だけで処理できるコトをネタにするということですね。マテリアルに検証されちゃうと自分のアリバイがなくなっちゃうんで、非マテリアルな場や次元を主張するワケです。つまり第3者にも認識できちゃうことからは逃げるそれは現実から逃げてるっていうこと。逆に、だからデムパや宗教が現実に対して無効なワケでもあるわけでしょー。そこには第3者を排除することでしか自分のアイデンティティを求められない弱者の姿があるのかも。ただの脆弱な自己チューなわけ? でも基本的に第3者を否定してるワケで、それだけでも危険なんだね。この類は。

(2003/1/5)

3部作のラジカル

 日本オリジナルの思想を目指した吉本さんの成果が、この3部作もちろんここから拡張されたのがハイ・イメージ論とかマス・メージ論です。

       -       -       -

   『共同幻想論』
   『言語にとって美とはなにか』
   『心的現象論序説』

       -       -       -

 日本オリジナルというのは日本語とそれによって構築されている環境への解析が前提であり、その点で、翻訳による思想とは決定的に違っています。

 たとえば構造主義の発端は毛沢東「矛盾論」で、それをテルケルタームで再構築したワケですが。パンフレットみたいに薄い革命の書「矛盾論」に込められたダイナミズムにアルチュセールがノックアウトされたという事実は、翻訳されただけの本だけからでは伝わって来ません。
 日本が欧米化した程度に比例してそのカウンターインテリジェンスも欧米のものが有効でしょう。でも日本が日本であるなら日本オリジナルの思想やインテリジェンスがないと根本的な認識も批評もできないワケです。その点で難解な日本語は手強い障壁にもなっています。
 宮台真司さんなどはある意味でそれを天皇制(論)に見い出しています。
 リングドーナツの魅力はドーナツの穴にある、というようなこと。つまり「空」が魅力の中心だという村上春樹ワールド的な世界観は実はすごく日本的で、バルト東京論のように、それは東京が虚構だからこそ周囲を魅惑してるのと同じです。ボードリヤールなどの化粧論誘惑論もコンセプトはそのへんであるはずです。

 ところで「対幻想」というのはキーポイントですが、それはいったい何なのか?
 いちばんムヅカシイところでもあるでしょう。
 この対幻想を基点に共同幻想と個的幻想へ観念が向かっていくワケですが、そのことを吉本さんは「遠隔対称性」というオリジナルな概念で説明しています。この「対称性」を「対象性」の間違いだと主張する人(学者や評論家などのプロの人)がいるほど、理解されていません。

 浅田彰さんはこういう吉本理論を「用語が我流で、しかも論理的につながっていない」とか激しく批判。「とにかくわからないんだもの」(『近代日本の批評』)とか。

 どうして「わからないんだ」かよく考えてみましたが、東浩紀さんの問題意識を考えると浅田さんが意識しない(わからないことのラジカルな原因)・してない・できないことが浮彫りになってきて、東さんの登場以後浅田さんへのチェック厳しくなりました。排中の論理によるチェックですが。
 たとえば限定可能性の助詞が理解できるかどうかというような日本語の問題であり、助詞や助動詞や副詞の使い方と理解の仕方で人間の表現力や認識力が明らかになります。もちろん詩人は石とも話すワケだから、その感性の鋭さは同時に言語への鋭敏さでもあるワケでしょう。

 だから浅田さんの本は売れたけど、読まれたのは東さんの本だと思います。
 そして現在は読まれるべき優先度も必然性もその順位でしょう。

 読み返すたびに面白い『ハイ・イメージ論』ですが、TKマジックへの唯一の研究書?である『楕円とガイコツ』と比べたくなるような「像としての音階」のように、浅田さんら熱狂的なケージファンのケージ論より吉本さんのケージへの考察の方が格段に深く面白い事実は何を示しているのでしょうか?

(2000/6/21)

2007年1月21日 (日)

マテリアルとテクノロジー

 『ハイ・イメージ論』の「映像の終わりについて」に....

       -       -       -

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

       -       -       -

....というすさまじいジャッジが述べられています。しかし、考えてみれば「社会像の転換」に「寄与」しているのはマテリアルとテクノロジーだ、という透明なほど当り前なことが指摘されているワケです。クールでシンプルな吉本さんのスタンスの表明がここにあります。

 「高度情報化」しつつある現代社会を解析するための重要キーワードであり概念であるのが<世界視線>。

 『言語にとって美とはなにか』の現在版としてのモチーフだという『ハイ・イメージ論』ですが、<世界視線>というタームの基本となるのは、個人の感覚能力と認識力であり、ダイレクトに『心的現象論序説』の内容にかかわってきます。
 しかも、想像力や感覚、視覚的直観像といったM・ポンティやサルトル、そして認知心理学や哲学全般がだせなかったテーマへの解答にもなっています。(オタクの問題としては斎藤環さんの『戦闘美少女の精神分析』がすぐれた孝察をしています。)

 <世界視線>の問題は、指示決定や象徴界認識の問題であり、そこにはさまざまな社会的なデキゴトやサヨクへの否定的評価から大ヒットを連発した小室ミュージックの盛衰の理由までも解析しうるヒントがあり、非常にラジカルな歴史やリアルタイムの現在の問題にもなっています。

(2004/5/18)

<世界視線>について

 吉本理論の初期3部作の用語として有名になったのが<対幻想>や<共同幻想>という言葉。
 その3部作のなかの『言語にとって美とはなにか』を発展させた『ハイ・イメージ論』で登場したキーワードが<世界視線>です。
 Y理論的?には以下になります。

       -       -       -

   世界視線=過視的な世界像・世界観

       -       -       -

 「世界視線」は簡単にいえばCG映像のような視覚イメージ。

 対象の表も裏も、前も後ろも、上面も下面も側面も自由自在に見ることができるのが世界視線で、すべての方向方角において等価な視線です。それとともに、同時にその視点の在りかそのものも見えている視線です。

 <純粋視覚>について」で説明しましたが視覚像に以下の各レベルがあります。ヒエラルカルな関係であるとともに、それぞれに不可換な属性があり、まったく独立した位相が考えられます。

       -       -       -

 対象的視覚像
 視覚センサーに入力されたデータ

 知覚的視覚像
 自己確定(決定)された視覚像

 想像的視覚像
 経験値データによる範囲内。

 世界視線による視覚像
 予期データによって拡張形成された想像的視覚像。

       -       -       -

 マテリアルなデータの入力から最終的な判断まで、その過程にはいくつかのステップがあり、それぞれのステップでコントロールの構成が違います。また、コントロール不能の状態として<感情>があります。

 サヴァン症候群に類似する視覚能力が言語野を抑制することで再現できることから、意識からのコントロールを解除することで世界視線的な視覚像が得られる可能性があり、これは臨死体験による自己客体視からも類推されます。

 問題は、CGとサヴァン的な視覚が対称的な理由によっていることです。CGは推論や予期データにより、サヴァンは抑圧のない器官化した身体感覚によりますが、共通するのはサヴァンもCGも入力データそのものが最大のファクターであること。また、推論プログラムにより最小限のデータから無限大へ向けて描画できるとすれば、この場合は当然推論プログラムそのものが最大のファクターになります。この推論プログラムは心的現象では想像力にあたります。また、データ入力は感覚器官による受容そのものです。

 世界視線の<予期データ>は動態的な視覚像や運動としての視覚をアフォードする、あるいは想像力という観念の運動をアフォードするためのデータです。

(2004/4/8)

2007年1月20日 (土)

<純粋視覚>について

 世界視線対幻想といったタームよりもラディカルで重要なのが、<純粋>概念とそこから派生するいくつかの概念の一つである<純粋視覚>です。

 認識のうえで<身体>と<心>と<外部>の区別がついていない状態を、位相学的に<純粋疎外>として設定します。この定義に相当するものがオートポイエーシスでは<境界>です。しかしオートポイエーシスでは<外部>を<撹乱>として捉え、有意な定義ができません。これはシステム論の限界を如実に表しているといえます。

 <純粋疎外>の概念は、個別の器官や特定の認識作用に際してある種の定点を仮構するものとして援用されます。初出は『心的現象論序説』ですが、その後の『イメージ論』をはじめとした批評理論の構築においても、理論の根幹を支えるもとのとして行使されています。

―――――――――――――――――――――――――――――
視覚像にいくつかのレベル≒種類があります。

 対象的視覚像
  視覚感覚器に反映された対象像。別の言い方をすれば
  「視覚センサーに入力されたデータ」です。

 知覚的視覚像
  対象像を認識した視覚像。意識された視覚像。
  自己確定(決定)された視覚像。

 想像的視覚像
  想像力(認識力)によって形成された視覚像。
  経験値データによる範囲内。

 世界視線による視覚像
  想像的視覚像が予想データによって拡張形成された視覚像。
  予期データによって拡張形成された想像的視覚像。

―――――――――――――――――――――――――――――

上記の定義に以下の<純粋(疎外)>概念に基づいた<純粋視覚>を設定することによって、いままで必要でありながら得られなかった定点と大きな可能性が確保できます。

       -       -       -

 純粋視覚
  視覚の対象と視覚そのものが自他不可分の状態にある視覚。

       -       -       -

 <純粋>概念は、静態的な状態としては第三世代システム論のオートポイエーシスにおける境界概念と重なりますが、境界の外部を対象化し得ないシステム論にはそれ以上の意味や可能性がありません。
 <純粋>概念は、常に能動的である認識そのものの特異点を定点として仮構したものです。これは<ゼロ>の発見として措定できます。その定点<ゼロ>からどちらにむかってベクトルがシフトするかというアプローチができ、そのことによって明晰な分析が可能になります。別のいいかたをすれば、微分的解析の陥る概念の微細化のようなデッドエンドを避けることができ、それは同時にデッドエンドから超越論的認識へという、科学を装った認識の宗教化を回避することもできるワケです。

(2004/6/7,2009/3/18)

フーコーと吉本さんと

 吉本隆明さんが多くの隠れたリクエストに応えて『心的現象論序説』を角川書店から文庫版化したのが1982年。単行本や全集でも評価の高かった同書は同時に難解の書でもあって、心理学や精神科関係の専門家以外からはレスポンスもなく、ただ難解であるコトが話題になっていたほど。文庫化するにあたってテニオハなどの修正があったようですが。

       -       -       -

 
 ベルクソンが想定するような時間性の生じる起点における現存在の定義において、時間以前にどのような基本構造があるのかという孝察はフロイトエスの概念以外にはありません。この存在や認識の原点となる構造を想定しない限りは、どのような哲学も認識論も心的現象の解釈も極めてアヤフヤな蓋然性以外の何ものでもなくなってしまいます。

       -       -       -
 
 ところで心的システムも含めてシステム論では入力も出力も無い状態=閉鎖系を想定しているようなので、たぶんこのような問題はシステム論には存在しないのでしょう。また逆に、このような問題を提起できないのがシステム論だともいえます。
 オートポイエーシスの心的システム論では位相学的概念の設定を主張しながら、システムへの外部からの入力を錯乱としてしか定義し得ないという自己矛盾に陥っています。たとえば消化器官を設定しながら食事は禁止という矛盾ですね。入力と、そこからの組成と、その維持....システム論が汎用性が高いのは普遍的な前提に立っているからでありながら、入力を捨象しようとするスタンスは何故なのか?

       -       -       -
 
 あらゆる科学は蓋然性だと主張するサルトルの指摘は彼の実存主義のシニカルな表明に過ぎないことを喝破しうる可能性を、吉本理論に見出した人がいました。フーコーです。フーコーと吉本さんの対談に対する評価を見ても、正当な評価は少ないようです。

       -       -       -
 
 ところで<自己と対象を峻別できない状態>を吉本理論では<純粋>という概念を導入して定義します。たとえば視覚対象を捉えつつ対象と自己の峻別がつかない状態を<純粋視覚>と呼ぶわけです。 
 無機的環界に対して異和である生命そのものを原生的疎外とし、その原生的疎外をとおして環界を把握しようとする動きの構造を純粋疎外と定義します。この原生的疎外と純粋疎外のギャップが心=観念です。数学的な概念が駆使されている吉本理論では純粋疎外は原生的疎外のベクトル変容であるという明晰で的確な説明がされています。

 吉本理論では自己と対象との分ち難い状態を<純粋>概念として想定し、現実の自他不可分の認識そのものを<純粋>概念とします。
 現実に生起する問題と理念型のモデルとしての概念がギャップ無く想定され設定されるという大変に理想的で高度な理論を成立せしめていると考えられます。これは完成した論理モデルである心的現象論序説が、現実に心的現象が生起するところにフォーカスしようとする理論であり、同時に現実そのものを考察しアプローチすることを可能にしていることを示すものでしょう。

(2004/11/22)

すべては<代入される空間性>

共同幻想≦ブラックホール?

 残念というか当然ながら<共同性>(≧国家・宗教などほか)というものはそれ自体として存在し得ない、あるいは、それ自体の存在を確認する術を人間は持っていない....ようです。人間は粘菌みたいに融合して共同態として大きな単一細胞になるワケではないので、マテリアルに同じ流行にとびついて観念の安定性?を求めるのも、ボルボックスや粘菌のようでもあって、必然かもしれませんね。

 そんなワケで共同性は、いつも、幻想性としてしか存在し得ないし、幻想そのものなのでしょう....。

 とりあえず、自己観念の中の自己コントロール出来ない部分を共同性として認知するのは、論理的にも納得のいく機序。だから共同性とは<常に既に><矛盾>であるし、<ゲーデル的決定不能性>そのものに表象されるようなものを根拠にしてるといえるワケです。
 決定不能という根拠そのものが補償するのは、常にどこかへ向かってエクスプロイットしていく動因そのものであり、常にリーチングしてる志向性ということでしょう。

 共同性そのものは幻想性でしかないので、その代同物をいつも保持してるワケです。もちろんその代同物が空間性を仮構して何らかの知覚対象化するのがあらゆる幻想のタネだったりそのものだったりします。もちろんこの知覚対象化は疑似的に、ということです。

       -       -       -

  共同性の代同物として、
  対象に<投射>された自己妄想から知覚が遠隔化される。

  このことによって成立する観念は
  知覚的属性を持たず、
  しかも自由な想像力もない。
  単に共同観念(の代同物)として、
  何らかが代入される空間性として存在する。

       -       -       -

 想像力が発展的に生成しない場合は代入するものもそれに応じます。とりあえずは自己イメージを代入するコトができます。だから神様などは擬人化されたタイプが多いワケですね。想像力が不自由な分だけ代入されたものの属性は自由で万能。これが神が全知全能である理由なのだと考えることもできます。

 神とか宗教のというのは意外に簡単に理解できるかもしれません。問題はそれ以上に簡単に生成してしまうコトでしょうか。

 中沢新一さんによれば甲州地方じゃただの丸い石が拝む対象になってるらしいですが、「ただの丸い石」というところがポイントかもしれません。ついでに拝む理由も無かったと思います。それは「代入される空間性」を象徴した典型的なサンプルだといえそうです。

 また『心的現象論序説』には「私」を疑惑と恐怖に陥れそうな「空白」として症例からサンプリングされているものがあります。普通は可視できない共同性が視えてしまう患者の例です。そして文法がないピダハンの独特な共同性の発現というものもあります。ピダハンには宗教も神もないので、この共同性の発現の仕方は非常にユニークなものといえるのでしょう。

(2001/12/5,2009/03/30,2015/06/26,2015/7/7)

2007年1月19日 (金)

いちばんの認識力

『共同幻想論』
『言語にとって美とはなにか』
『心的現象論序説』

     ‥     ‥

えー、
吉本隆明さんの3部作は
心的現象としての自己意識が
言語表出をとおして共同幻想化していく構造を描いてます。

     ‥     ‥

まあ、
意識≦幻想が
どーやって遠隔対称化するのか

とゆーとこがポイントですが。

     ‥     ‥

そこには
構成同一性とゆー基本的な認識力
とーても大切なものとしてあります。

     ‥     ‥

これは
対象を抽象して
共通項を見い出す能力
ですが
基本的に
自己と他者を見分ける能力の発達したもの
だと思われます。

     ‥     ‥

自己と他者の見分けは
親の対象化と親からの分離
原点
です。

     ‥     ‥

この時大切なのは
そもそも親との関係が
どのような質の関係であったか
とゆーことが問題です。

     ‥     ‥

関係がなければ分離はあり得ず、
関係の質こそ分離の質を決定する
大きなファクター
になります。

(2000/6/24)

2007年1月18日 (木)

「シーソー」宣言

対幻想とその論理的な機序である<遠隔対称性>ですが、
ボクはこれを「シーソー」として用語化します。W

ポスモダ風(&ソーカル風!)?に<時点ゼロの双数性>という表現ができるんだけど、<均衡>の概念を入れたいので<シーソー>の方が適当だし、わかりやすいでしょう。

 
 

     シーソー
     Seesaw

 
 

一応、シソーラスの意味も踏まえてますが。

(2003/8/24)

吉本理論は難解か?

 それなりに知られている「共同幻想」とか「対幻想」という言葉があって、思想や社会を語るときに使われたりするし、このタームの発案者であるハズの吉本さんやその思想を論議するときにも、当然のように使われます。

 ところで、その吉本さんの思想で、いちばん基本となっている著作が『心的現象論序説』です。この著作は難解なことでも有名で、おそらく日本の思想哲学などの類で最も解読困難なものなんでしょう。内容的には理系的概念が駆使されているので、ある意味では明晰な理論なのですが、実際には理解した上でと思われる批評や論議がほぼ皆無なことから、ほとんど理解されていないとも考えられます。

 当然のように語られている「共同幻想」や「対幻想」といったタームについても不思議なことがあります。吉本思想のいちばんの基本である、この『心的現象論序説』には「共同幻想」や「対幻想」といった言葉は出てきません。
 「幻想的共同性」と「幻想対」という言葉が角川文庫版(絶版?)ではP30に出てきますが、他には「共同観念」や「自己妄想」といった言葉があっても「自己幻想」や「個人幻想」といった言葉もありません。

 『心的現象論序説』には「原生的疎外」「純粋疎外」という、おそらく吉本思想のいちばんの基礎となる概念があります。フロイトの原理論をマルクスの疎外概念で考察し直したものをベースとしたものですが、現代を分析した『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』の重要な概念も、この「純粋疎外」を前提として形成されています。ところがよく使われる「共同幻想」や「対幻想」という言葉とは違って、この<純粋>概念に関してはほとんど言及されることさえありません。吉本思想のいちばんの理解者だと思われているある学者でさえ「ありがたくない概念だ」と否定していて、自らの理解が及ばないことを隠蔽しています。
 

 「世界視線」「パラ・イメージ論」で駆使される概念や論考も、この<純粋>概念を土台に構成されたものであり、そこでは自在にヴィットゲンシュタインやソシュールが批評されています。
 この<純粋>概念に近いものでとても優れた概念としてオートポイエーシスの「位相」概念があります。これは理論的孝察を推し進めるためにシステムの空間的位相を仮構しようとするもので、吉本理論において「原生的疎外」や「純粋疎外」の概念が用意されたのと同じ事由とみなせるものです。ただしオートポイエーシス理論ではシステムの外部からの情報を撹乱としてか定義していないようなので、現実の生きている心的システムを考察するには致命的な盲点があります。

(2004/7/31)

共同幻想論大(澤)?解説.2

 吉本にとっては、国家の最小限の条件は、
 共同幻想が、直接(血縁的)関係から独立に現れること、
 である。

       -       -       -

 この一言で、大澤さんは、政治学最大のテーマである国家生成の根幹を吉本さんから読み取っています。正当にして強力な読解力ですね。(この<血縁>からの離脱以降は<信用>が関係性の最重要ポイントになります。<国家>はその制度化であり構造化です。)

 家族→親族→部族→民族→国家という対幻想の遠隔化(観念化)していく過程こそが国家生成の過程そのものであることを示してるワケです。ちなみに日本ではヤマト王権を支える豪族の婚姻関係が奈良盆地の外部へ遠隔化していく過程が国家生成の空間的なあらわれです。
 これを説明するために吉本さんは「古事記」を素材としたワケですが、大澤さんは見事にその意図に則って正当に以下のように読解しています。

       -       -       -

 対幻想は、共同幻想論の構成の中で決定的な役割を演ずる。
 対幻想こそが、国家形成への媒介の位相を形成するからである。

 吉本の考えでは、日本において古代国家へと変遷するのは
 「姉妹(宗教権)-兄弟(政治権)」の対幻想のつながりを
 基底にした、母系的かつ母権的な氏族共同体である。

       -       -       -

 そしてラカニアンやDG派をはじめ共同性や共同体と個人との関係を考えるものが学ばなければいけないような対幻想への重要な指摘がされています。

 それが次の一言。

       -       -       -

 他方では、対幻想は、国家の共同性にとっては、拮抗でもある。

       -       -       -

 この「共同性」と「拮抗」するという「対幻想」の状態こそ、主体が自らの観念の中で行っている認識のシーソーです。
 このシーソーのバランスを自己幻想か共同幻想のどちらかへ動かそうとする本質的な力がいわゆる強度
 これはある種の志向性ですが選択可能な方向の範囲は相反する2つの方向しかありません

 さらに哲学や言語学それらと不可分の心理学といったジャンルを俯瞰し通底するかのような要約がされています。

       -       -       -

 「普遍性」との関係では、対幻想は、
 そこへと至る媒介でありつつ、
 同時にその障害でもあるという両義性を呈することになる。

       -       -       -

 「普遍性」を「象徴界」に「対幻想」を「想像界」に置き換えるとラカニアンにとっても大きな参考になるでしょう。

 以上のところまで、とっても役に立つガイドなんですが、次のような危ういところもあります。

       -       -       -

 吉本は、
 自己幻想と共同幻想の中間に対幻想の領域が存在している、としたのである。

       -       -       -

 対幻想の機能としての位置づけは中間的かもしれませんが、対幻想は幻想性としてはゼロ記号そのものであって、岸田秀さんやその他の幻想論とは全く異なるし、また対幻想のなかにある自己や共同性への幻想が無くなることはありません。ラカンの三界の相互関係と同じで、3つの幻想は不可分です。

 自己幻想さえもその基本は自己を対象化した対自認識としての対幻想です。このオリジナルな認識は『心的現象論序説』によって提示されたものですが、その後説明が簡略化され、安易な誤解だけが伝わるようになっています。特に『世界認識の方法』で吉本理論が総括的に解説されたときにタームの解釈が簡略化されてしまいました。以後のほとんどの論議はオリジナルな『心的現象論序説』の原理を参照することなく行なわれていて面白味もなければ豊富な展開も期待できません。オリジナルなラカニアンやシステム論者の方が吉本理論との共有しうる面が大きく、実際そういった可能性を追究するほうが楽しく豊富な内容が得られる可能性があり、それは、今後の大きなテーマだと思います。

(2003/10/19)

―――――――――――――――――――――――――――――

池田信夫blogで無神論者だったハイエクが最晩年の書「致命的な思いあがり」で共同体のための宗教を認めつつラジカルな問題提起をしていることが紹介されています。

(2009/2/3)

2007年1月17日 (水)

共同幻想論大(澤)?解説.1

 『現代詩手帖』の10月号(2003年)の特集が「吉本隆明とはなにか」。高橋源一郎さんや大澤眞幸さんが吉本隆明さんとその理論を自由に語っています。

 『自由を考える』で最高位訓詁学者風オシャベリを披露してるだけある大澤さん。さすがにスルドイ指摘をしていて、貫禄モンのテキストがいい感じです。大澤さんの主張だけが新人類以降のものなので、それだけでも新鮮。とっても貴重なテキストでしょう。内容は事前に行なわれた東工大でのシンポジウムのマトメでもあるらしいので、その点でも、今回いちばん注目される見解なんだと思います。

 大澤文のタイトルは「<ポストモダニスト>吉本隆明」で、「現在形の読解」というコーナーの3つのテキストのひとつです。

       -       -       -

 1980年代の日本では、「ポストモダニスト」たちにとって、
 吉本隆明を批判することが、踏み絵的な儀式であったことが
 ある。

       -       -       -

 この踏み絵をリードしたオサレなポストモダニストといえば『構造と力』浅田彰さんでしょう。

 大澤さんは「ハーバーマスによれば」「マルクス-ニーチェ-フロイト」が「ポストモダニスト」の教祖だという指摘をしつつ、その方法こそが「モダニズムの理論の常套手段」だとし、「吉本隆明が、「マチウ書試論」で試みたのも」そのひとつだと説明します。
 大澤さんのこのテキストは、いちばんまっとうな吉本理論のガイドかもしれません。しかし、難解で有名な心的現象論については守備範囲外なようです。それでも世界視線アフリカ的段階について大澤さんチックな特徴がでている解釈なんですがとにかく説明してるところが親切で、参考になります。

 いちばんポピュラーな吉本理論といえば共同幻想論ですが、それを「国家の起源を問う試みである」というシンプルにそのままスバリと指摘してるとこがステキです。
 政治的な思い入れがある人は共同幻想論を幻想(=国家)を解体しようとする理論と読み、哲学や心理学的な興味がある人はそれをすべては幻想なんだよとひとり納得しちゃうんですが、どちらも読みたいように読んでるという点では同じ。その点、大澤さんはそうゆう読みたいように読むという自己のエゴからは離れることができてます。思想はマイブームじゃ語れないからですね。

 その共同幻想論が「遠野物語」「古事記」という日本ローカルな素材を使っているのは日本という現実において有効な理論にしたいという吉本さんのハゲシイ願望によるもの。思索の対象も含めて抽象化するだけのありがちな理論とは違うワケです。
 ちなみにハイ&マス・イメージ論はその現在形。そういう点では『動物化するポストモダン』東浩紀さんの共同幻想論ということもできます。こういう認識はけっこう大事かもしれません。

 大澤さんの共同幻想論の要約もオリジナルの主張にそっていてイイです。

       -       -       -

 「遠野物語」を素材に
 「未知に対する素朴な恐怖の共同体が作りなす原初的な共同幻想が」
 「「他界」の観念を獲得するまでが描かれる」

 「古事記」を素材に
 「その共同幻想が、「国家」へと結晶する機序が論じられる」

       -       -       -

 今や少なくない人がテキトーに使っちゃう共同幻想というタームと、たぶん発言者の数だけある吉本理論への批評やコメントのなかで、ほぼ唯一のストレートで完ペキな解説は、この大澤さんのこのテキストだけかもしれません。わずか14行、輝く第一段落という感じのイントロダクションです。

(2003/10/15)

2007年1月16日 (火)

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>

 共同幻想(≧国家・宗教などほか)や共同性(市場など)が個人の観念の中の、どこで、どーやって、ナゼ生成するのか..とか感覚受容認識情報の心的な処理や観念化..ということへの一応の理解をつけてみました。

 今までモノゴトを考えるのに共同幻想や共同性を「100人の社会・世界から100名分の人生を捨象しても残るもの。」....

  歴史-人生=共同性

  共同性≧システム

....などと考えていました。このソリッドな認識はヒジョーにCommunism的だしDG的で、いわゆる社会科学ではOKでしょー。

 ただ、自分が興味を持っている、もーひとつの面は、共同幻想や共同性という認識が個人の内面において、どー生成するのか?ということです。共同幻想が社会的ジャッジとなる契機は宮台真司さんの『権力の予期理論―了解を媒介にした作動形式』などで鮮やかにあっけなく分析されていますが。もともと受胎してから系統発生をフォローしつつ発達していくなかで神経的≦心的システムはどーゆー風に生成するのか、そもそもどーゆーものなのかとゆーことです。どのよーにどーして共同性や共同幻想は生成するんでしょーか?
 

▲自己幻想の中にある共同幻想

 共同性だろーが個人的妄想だろーが、それを認識してるのは個人(幻想=自己幻想≧妄想)です。
 そーすると、個人の認識の中に共同性の根拠もあるワケですね。個人幻想の中に共同幻想の場があるとゆーコト。あたりまえのコトですが。

 マテリアルとしては、個人の幻想の中のどこかに共同幻想のエリアがあるワケで、まずそのエリアを見つければいいということになります。
 ちなみに、このエリアを見た?人の話しが吉本隆明さんの『心的現象論序説』に引用されてて、それへの吉本さんの解説がサイコーでした。もちろん患者さんです。それは、白くて丸~いオバケを思わせるよーな「空白」だそうです。どこでもいつでもついてくるという....。コワイけど、カワイかったりするかもしれません、ね。
 

▲共同性とゆーのは恣意性じゃないとゆーこと

 共同幻想への理解のポイントで重要なのは、共同幻想は個人の恣意性で介入できないものだよ、とゆーことです。
 逆にいえば個人的なジャッジで左右できないからこそ、それが共同性を表わしてる(代理してる?)ワケです。

 人間はナニゴトも個人的にしか認識できません。つまり、主観だけ。だのに共同(幻想)性とは個人的な認識では左右できないものです。
 個人の認識の中にしか存在しないけど個人の認識ではどーしよーもないものが共同幻想、とゆーことですね。
 

▲自己言及&コントロールできないところ

 共同幻想とは個人幻想の中にありながら個人の恣意ではアンタッチャブルな領域。つまり、個人幻想の中にある非個人幻想なエリアなワケです。
 個人の観念の中にありながら個人の観念がおよばないあるいは個人の観念で左右できない部分で、自己言及&自己コントロールできない部分。それはゲーデル的決定不能性そのものである世界ですね。
 すなわち論理ではない世界。リアル、とか、現実。力の場。ロゴスじゃなくパロールの世界です。
 実をゆーとリアルとゆーものが外部(性≧他者性≧共同性)からやってくるとゆーコトとも大きく関係しています。
 

▲指示決定を生成するところ

 カンタンに、もーちょっとクワシクいえば、個人の思念で左右できない概念構築のエリアです。

 このエリアで生成する概念で言語として表出したものの代表が名詞。名詞の認識の前提となるのはその表象の承認だけであり、個人的な思考や観念が必要とされるワケではありません。名詞がコンスタティブに流通する理由がそこにあります。そしてそれは同時に指示表出の特徴でもあるんですね。
 

▲ブンレツの可能性としての指示空間

 人間が対象を認識する時に、意識が対象へ向かいます。志向性ですね。
 対象へ向かった志向性のうち、自分自身ではどーにもできないものが共同性として認識されます。

 この志向性は対象へ投射された自己(関係)意識として、対他関係(意識)の要素やトリガーになり、概念構築の前提になる指示空間や均質空間を形成します。
 この点で対象との関係性が均質空間化されている視覚や聴覚との照応性や親和性が高く、これが分裂症において幻覚や幻聴が多いこととも関係してるワケですね。
 また、純粋な思念によるイメージと感覚の運動性による主観的視覚的直観象との類似性も同じ理由でしょー。

 問題は概念と視聴覚、イメージと直観象それぞれの親和性や類似性にかかわらず各々はまったく別物だとゆーこと。
 観念と感性は違うし、想像力と視覚の運動性も全然違います。

(2001/7/26,2009/03/30)

―――――――――――――――――――――――――――――

共同体についての簡明な解説が404 Blog Not Found「縁と円」にあります。池田信夫 blog「部族社会と大きな社会」を受けたもので、小飼さんの方は共同体に所属するコストと動機を池田さんはハイエク(&マルクス)の問題提起について、とてもわかりやすく説明されています。

(2009/2/3)

2007年1月15日 (月)

逆立ちする幻想

たとえば....

       -       -       -

フロイドの体系の欠点は、社会をその現実において考察し、
それを心的内容に織り込みえなかったということではなく、
社会における幻想的共同性が、
家族あるいは一対の男女における幻想対の表出と逆立ちする
ものであるということを洞察しなかったところにあった。

      『心的現象論序説』(吉本隆明/角川文庫版)P30

       -       -       -

....という重要な指摘がむずかしかったりします。

(2003/8/10)

―――――――――――――――――――――――――――――

「幻想的共同体」の最たるものはリヴァイアサン(怪物)」と言われてきた<国家>。宗教はまだその前段階であり個人の心理に依拠したもので信仰を捨ててしまえばそれまでの存在です。国家はジョージ・オーウエル『1984年』に描かれているように個人では左右できないシステムを備え、個人は知らずして自律的にそれに従っていきます。国家は<公人>と<個人>の解離・分裂を利用したシステムであり、たとえば法律はその顕在化(成文化)したものです。共同体(≧国家)を維持するシステムは歴史的に異なり原始〝アフリカ的段階〟から現代〝超高度資本主義=消費資本主義〟までバリエーションがあります。この変遷を理論化しようとしたのがヘーゲル→マルクスですね。

(2009/3/16,2009/5/18)

ケータイの幻想

●ケータイがあるので社会がわからない?

 ケータイがあって、いつでもどこでもコミュニケーションできるんで、社会がわかりませーん....とゆーコトで、よくある話し。
 ケータイは基本的に1対1のコミュニケーションのためのツール。対幻想のためのツールで、ケータイが使用可能な時空間は対幻想を現実化する時空間でもあるとゆーコト。
 ケータイそのものに関して2つポイントを取り上げると、手で使うというハンドリング、耳で聴くという聴覚....がキーかなと。

 カントだかなんだかの言葉どおり〝手は外部の脳〟であり、手でコントロールできるのは人間にとってケッコウ快感であり満足感にもなったりします。大脳皮質の理性によるハンドリングが視覚と聴覚を媒介としたレスポンスを生むというのは、観念と感覚のフィードバックで、聴覚を媒介としているのは個体=主体の原点へも遡行しうるラジカルな説得力を持つ運動でしょ。脳と身体のダイレクトなダイナミズムに脳も身体も充足感が得られるワケです。(手によるハンドリングの快感について、インターネットのスタート時に発行された『デジタル日本人』高城剛さんが指摘してたのは新鮮でした。原稿はその5年も前からコツコツと書かれていたようです)

       -       -

   ケータイがあって、
   いつでもどこでもコミュニケーションできるんで、
   社会がわかりませーん

       -       -

....というのは、文字どおり、「いつでもどこでも」「ケータイがあって」「コミュニケーションできる」から「社会がわかりませーん」とゆーことで、まあ、ダイレクトでありリアルな実感ですね!
 社会がワカラナイ理由がこんなにハッキリ、カンタンに表明されてるなんて、ワザワザ社会を分析するナントカ学者とか評論家とか、イラナイじゃないですかあ!
 ここでワカルコト、そして重要ポイントは「コミュニケーションできる」から「社会がわかりませーん」とゆーこと。逆に考えると〈コミュニケーションできない〉のなら〈社会がわかる〉とゆーこと。つまり、コミュニケーションへの抑圧が社会を意識させるとゆーことですね。しかもそれが自覚されてるという....ワケ?

 それは、ココの基本的な認識とタームから説明すれば以下のとおりです。

   対幻想への抑圧が社会を意識させる。

 あるいは、

   コミュニケーションへの抑圧が共同性を生成する。
   想像界への去勢こそが象徴界を生成せしめる。

....ということで、吉本理論とラカン理論がほとんど同じ認識をもっているということでもあります。

 では、どうしてケータイでコミュニケーションするだけで社会への非知や否認が説得力をもってしまうのか? それもカンタン。

 前後しちゃいますが、ケータイについてのポイントは上記のとおり。<ハンドリング>と<聴覚>です。この2つの運動性と体性感覚が<ケータイ>を特別なものにしてます。個別にいえば<聴覚>については音楽と同じ訴求力や受容性を持っているということであり、<ハンドリング>は自発的な運動性のクイックなレスポンスが自発性そのものを媒介とする自己言及性によって、あるいは自発性への再帰的フィードバックによって担保されるから....という理由によって、いわゆる人間にとっての魅力や価値となっているコトでしす。いわゆるアディクテッドでもあり、対幻想を体現するときの自己萌えでもあります。

 このアディクテッドというか自発性による身体性の魅力や価値が、観念に依拠する社会性や共同性を超えるのは当然です。
 これは<動物化>のある側面でもあり、その阻止のため社会や共同体への帰属を不可避に刻印するという社会的儀礼や通過儀礼が用意されます。象徴界的な刻印をその身体にするワケで、共同体の成員化は<動物化>の阻止や防止でもあるんですね。もちろんそれは別の動物化です。

 ここにポストモダン保守が勃興する?理由なんかもあります。

 でも、マルクス『資本論』で指摘した「動物化」やそれを理論的な突破口にしようとした吉本さんの『ハイ・イメージ論』における「動物」概念はもっとラジカルな問題提起....消費(者)という受動性に社会の決定権を見出す試みです。

       -       -       -

池田blog「社会をつくる自由―反コミュニティのデモクラシー」にラジカルでリアルな指摘があります。

集合住宅のまわりに高いフェンスを張りめぐらしてセキュリティを守る「ゲーテッド・コミュニティ」が増え、日本でも都市のマンションの住人は隣の世帯と会話もしない。世界的に、社会がモナド化する傾向が強まっているのだ。

こういう問題の一番最初の解としてオタキング『ぼくたちの洗脳社会』(オタクをテーマにした初の社会学の本)があったと思います。人々は楽しいことを結節点とした複数の共同体(性)に所属するようになって家族でさえ日常的に会っているわけではなくなる…というものでしたが…。

           
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(2004/12/28,2009/5/2)

大衆の一人の吉本さん

 

   大衆の側からすれば、
   吉本さんはもう一人の大衆にすぎないから、
   もはや読まなくてもいいし、
   評価しなくてもいいし、
   注目しなくてもいい。

       -       -       -

 コレは橋爪大三郎さんの永遠の吉本隆明でのラジカルな指摘です。

 そーなの?とか思いながら、もう一つ気になる以下のようなスルドイ指摘もあって、いろいろ考えちゃいます。
 まあ、考え、なんてその程度なんで、あとはヤルかどうかだけ。
 もうチビチビヤッてきてるんだしー、と思いながら、blogやココにチョット書きはじめちゃいました。

 実際には吉本さんの読者は新しい層ができつつあるようです。
 『ひきこもれ』『中学生のための社会科』『13歳は二度あるかなどはとても若い人に読まれ、悪人正機』『家族のゆくえでは幅広い読者をインスパイアし、幼年論』『時代病では現在の異常や病の原因まで語っています。
 著作や対談はとても多いと思いますが、橋爪さんの以下の指摘も重大なコトなんじゃないでしょか?

       -       -       -

   大衆社会が高度化し、消費社会とも呼びにくい、
   ハイパーな状況に突入している。

   吉本さんならこのハイパーな状況を記述できる、
   と思うのですが、ただ、
   社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?

       -       -       -

 こりゃスゴイ問題提起です。

 吉本さんが現在を分析し記述しようとしたのがマス・イメージ論ハイ・イメージ論。その重要タームの<世界視線>はケッコウ有名かもしれません。初期の3理論書で有名なタームといえば<共同幻想>とか<指示表出>とかいろいろありますが、この世界視線も対幻想も、理解されていないのでは?という点では同じなのかもしれません。
 吉本さんの理論は一貫していてずーっと継続してきているものなので、基礎となるタームがわからないと誤解しやすいものなんですが、大学の教授までが<純粋疎外><遠隔対称性>を説明できないどころか否定している言説を見つけたりすると、現実がよーく解ったりもします。

           
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(2004/7/12)

誰でもはじめは赤ちゃん

▲誰でも赤ちゃんだった!

人間は誰でも赤ちゃんだったことがある。

たぶんどこかにいるカモしれないクローン人間でさえ、赤ちゃんだったことがあるし、タンクの中で漂う無数の綾波レイだって、赤ちゃんだった過程を通ってきてるんだろーし。

赤ちゃんというのは人間の原点。
そこには、すべての認識の原点もあるハズです。

母子一体あるいは自他不可分な認識

▲赤ちゃんとは何か?

器官なき身体なんつータームもあるのかもしれないけど、
まず、全てが未分化な存在が、赤ちゃんでしょ。

羊水に浮かぶ赤ちゃんは胎盤を通して栄養の供給を受けます。
これは分子レベルでの欲求と充足。
このレベルでは欲求と供給はプラスマイナス・ゼロな自然な均衡状態で、必然的に自動的に行なわれてます。

▲4歳以下の記憶では?

4歳以下の子供にインタビューすると
出産時の記憶があったり、子宮の中でのデキゴトを憶えていたりするらしい。

しかも、早く外へ出たかったという気持ちを持っていた子も少なくないみたい。
帝王切開では手術されてメスが体内に入ってくるのを憶えている子供もいるくらいです。
恐かったという子もいたとか。

▲分離不安はホントか?

ところで、出産にともなう<分離不安>というのはホンモノか?
という疑問があります。

フロイトやキルケゴールは、人間の不安の根源的な根拠を出産・分娩にともなう分離不安として取り上げてるけど。現実の出産時の記憶では「生まれるのはイヤだった」という子はいないようで、その逆に「早く生まれたい」という記憶があるケースはあるみたい。

すると出産にともなう<不安>というのは?
吉本さんは、それを、新しい現実に出会う不安だといいます。
自らの原生的疎外に新しい現実が組み込まれていく過程だという説明です。

(2004/9/2,2011/7/16)

<物語>のもとになる7つの反応

 大塚英志さんは『物語消滅論―キャラクター化する「私」イデオロギー化する「物語」』という本ですべてを物語論で説明しようとしています。たしかに神話が世界すべてを説明するように物語論でほとんどのモノゴトの説明が可能かもしれません。

 大塚さんはプロップの形態論、ロシアフォルマリズムなどの論考をもとに物語論を展開し、アニメも、事件も、ウヨサヨ問題も納得できる分析や批判がされています。このイデオロギーから物語への移行というパースペクティブは、それこそ世界観そのものの解析であってイデオロギーそのものに代わる世界観を提示するという新たな、ラジカルな、いい意味でのイデオロギーそのものだといえるかもしれません。

 ところで、その根本にある「物語」、分析の根拠になっている「物語」、認識のパースペクティブになっている「物語」....その<物語>そのもの....は....いったい何なんでしょう? 参考になりそうなドキュメントを以前NHKでやっていました。キューブラー・ロスへのインタビューです。

 キューブラー・ロスは臨終を迎える患者が安らぎを得られるように研究しホスピスを指導した心理学者で医者です。○○千人ものやがて臨終を迎える患者にインタビューとカウンセリングを繰り返し、あるコトを発見します。それは〝死〟という不可避の、最大のストレスを迎える患者の反応パターンが一定していることでした。
 パターンの内容は7種類前後。つまり人間は〝死〟に対して7種類の反応をするということです。そして、その反応の順番もほぼ決まっていました。A反応の次はB反応、その次はC反応というように時系列で生成する反応の順番がほとんど固定しているのです。

 <物語>というのは、あるデキゴトに対する反応とその連続性のことであり、その集積です。キューブラー・ロスが人間にとっての究極のデキゴトである〝死〟に関してその反応を探究したというコトは、物語の究極を考察したコトになります。
 ロスは普遍的な7つ程の反応内容とその順序を知ったワケです。

 このロスの研究成果なども取り入れて展開されているのが吉本隆明さんの理論(『母型論』など)です。

 反応の両極をワンセットにして捉えると、すべての反応は両極の中間のどこかにあるものとして把握できます。

 人間が生きていくことの反応や価値の両極は〝生〟そのものと〝死〟です。
 どんなエライ人の人生も、ヒッキーの生活も、ダメな分だけシブトイ人の生き様も、秋葉原でマグネシウム色のノトパソをキラキラさせてメイド喫茶で無表情に盛り上がってるオタクも、<生>と<死>という両極の中間を生きているだけです。

 みんな同じです。
 例外は、ゼロ。

 そのなかで人間がいちばん強い反応を示すのが<死>に向かうときです。この時の反応=価値判断は強固なものです。
 強い反応とは強度の表出の度合いのことで、もっと別のいい方をすると象徴界がムキダシになる度合いでもあり、それが変成される度合いでもあります。
 さらに別の表現をすると想像界が自由を失う度合いでもあります。

 ハイデガーが指摘するとおり、資本主義ではすべてが交換可能ですが〝死〟だけは交換できません。この交換できない最大のイベントである〝死〟に関して生成する反応も交換できないものと考えられます。そこには揺るぎない価値判断、個別的現存としてラジカルなジャッジがあるとも考えられます。

 この交換可能というのは<共同幻想>と質的に同定できるものになります。資本主義の末端、消費者が感覚的に感受できるものとしては<商品>に代表されます。

(2005/1/14,2009/4/19)

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