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2009年6月19日 (金)

<純粋ごっこ>!?で読了する『吉本隆明1968』

●〈熱い〉吉本ファンたち
 吉本隆明のファンは少なくないだろうが、少なくないだけにさまざまな人がいるようだ。 「吉本隆明」や「共同幻想」で検索をかけてぞろぞろ出てくるページに検索語以外の共通点はないような気もするし、<吉本オタク>とくくれるワケでもない。レスポンスには大学の研究室があったり、地方の出版社や書店があったり、医者がいたり、ファッションの関係者がいたりする。この雑多な<吉本ファン>のページやBLOGを見て、そこから何か共通点を探すのは相当に困難だろう。科学は無数の対象から共通点を抽出することが基本作業だが、吉本隆明を科学するのは難しいのかもしれない…。

 だが一つだけ確かそうなことがある。
 みな〈熱い〉のではないか? すべての執筆物を網羅しようとしているWEBがあり、吉本理論から新しい何かを発見しつつあるらしい思索があり、吉本邸を訪れてにこやかなショットを撮っているページがあり、吉本理論をベースに医療に臨んでいるらしいサイトがある…。吉本を読んだが「わからん」、わからんが惹かれる…当然だろうがそんな恋愛じみた感想を1、2行記しているだけのものも少なくないかもしれない。
 太平洋戦争に協力させられてしまった宗教者がその反省から吉本に講演を頼んだり、患者に臨む現場から講演を必要とされたり、全集に掲載された遺書のように一読者として最期の言葉を吉本へ向けたり、それら確かに熱くせき立てられたようなさまざまな吉本の必要性?を体現するデキゴトが、人の数あるいは書店で本と出会った数だけ、あるのだろう。

 吉本隆明の倫理の究極のものとして〈面々にはからえ〉という親鸞の言葉がある。著者の評価はそれ以前にあるのだが、吉本思想(とその読者)がもっとも決別しなければいけないスタンスこそが、この著者が共感したという、そのことそのもののハズだ。
 やがてcompleteする〈純粋ごっこ〉がホントの読了だろうし、吉本隆明はひたすら別れについて語ってきたのではないだろうか。本書『吉本隆明1968』の著者鹿島茂氏は何よりも素晴らしかった吉本隆明との出会いについて語っているのだ。

2009年5月12日 (火)

自信のあらわれとしての『詩人・評論家・作家のための言語論』

自推の言葉が「ぼくの自信のあらわれです」という、何ごとにも控えめな著者のめずらしい宣伝?が興味を引く、いろいろな面で興味ぶかい本です。

吉本理論が圧縮されてコンパクトにまとめられたパンフレット用のような一冊で、ほぼ全ページにわたって均等に吉本理論がガイドされています。簡明なガイドですが比較的に難しいコトまで紹介されているのでヘビー級の読者にも読み応えのあるものになっています。3部作(『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論序説』をはじめムズカシイ?著作が多く、そのスタートや興味の持ちようで理解が大きくシフトしてしまうことが少なくはない吉本理論にアプローチするにはベストかもしれません。

「詩人・評論家・作家のための」とコピーされているとおりで、その実用性?の高さも魅力でしょう。表現(しようと)する者にも、批評(あるいは理解)しようとする者にも、そのスキルを高めてくれる内容は理論書には珍しく、また同時に理論の深さもあるという特異な一冊になっています。

胎児からスタートし最後には構造主義文学理論まで解説されるページ構成は、ほぼ人間の発達段階に沿って展開されていて、それが吉本理論を読解するための基本的な助けになっています。

 

  文学作品は要するに
  韻律・撰択・転換・喩の四つの使い方で決定される…。
  主題でも何でもありません。
(P161「言語論からみた作品の世界」)

  ふつうの文学理論を読むと、
  撰択などは芸術性のなかに入ってきません。
  考えも及ばないわけです。
  …
  ある場面、ある対象を選んで書いたということは、
  もうすでに芸術性なのです。
(P162)

 

表現(者)としても比評(者)としても大変に勉強になるコメントですが、認識(方法)に場所的限定を勘案しているところが日本的(柳田民俗学、西田哲学)であり、マルクス的でもあり、普遍的です。場所を捨象し言語だけの構築に意味を見出そうとするデリダ的な(あるいは西欧的な)認識を超えています。

さらには「韻律・撰択・転換・喩の四つ」に加えて現代のテクノロジーだからこそ可能になったファクターとして<パラ・イメージ>が紹介されます。ここでも『ハイ・イメージ論』の現代的な意義が確認できるでしょう。

 

  生まれたばかりのネコをイヌが育てたら、
  ネコの子はイヌを親だとおもいます。
  …
  それは母親が全世界で、
  ほかとの関係がないからです。
(P29「言葉以前のこと」)

 

こんなに簡単に心的現象の初源の意味が説明されてしまいます。ある意味すさまじい破壊力でもある思想の片鱗が簡明な言葉となって全ページに見出せる一冊でもあるでしょう。

2009年4月26日 (日)

3つのエポックメーク『世界認識の方法』の問題

 3つのある種エポックメークな(大きな)問題?があるのが本書。
 1つは本書をキッカケに対幻想や共同幻想という言葉とともに吉本理論が注目をあびたこと。理由は簡単で<対幻想><共同幻想>といったある種キャッチなタームがシンプルに説明されたことです。
 2つめはそのタームの紹介が簡明過ぎたこと。ヘーゲル-マルクスという王道をベースとした質疑応答による説明のために〝序説的なもの〟は捨象されています。逆にいえば『心的現象論本論』が刊行されるまで『心的現象論序説』で示された原理論は顕在化せず、ハイイメージ論などの個別具体的な批評においてバックボーンとなる概念として作動するのみでした。
 3つめがフーコーとの対話です。賛否両論あるものの対談のテープの紛失などの事故?は別としても実りは大きかったと思います。フーコー自身は『言葉と物』など自らの方法についての懐疑ももちはじめていて非常にスリリングで価値のある内容になっています。

 サルトルポンティとともに吉本さんがよく参照し検討する思想家ですが、『方法の問題』という非常にラジカルなテーマの本を出しています。科学というものはその方法(論)によってはじめから規定されてしまうワケですが、サルトルのマルクス主義批判はそういった科学批判そのものであり、あらゆる認識が免れない批判でもあったワケです。それはポパーの反証可能性よりも徹底した批判です。
 本書ももっともラジカルな意味で方法を問う内容になっています。吉本理論の全体像を俯瞰しながらの総括的な説明と、フーコーへの根源的な問いは、それぞれに大きな問題提起ともなっていてスリリングなのです。

 

  吉本さんのお話は、私にとって本当に有益なものでした。
  というのは、一つには、
  自分のいままでの仕事の限界だとか、
  それから

  まだ充分に考えがまとまらずに欠けている部分などを、
  吉本さんが、問題の提起のしかたそのものによって、
  はっきりと示して下さったからです。

  そして特に吉本さんの意志論という形での問題ですね、
  それが私にとっては、ことのほか興味深く、
  多くの問題を進展させる有意義な契機となると

  確信致しました。(P47)

 

 最後にフーコーは以上のように述べ、国家に対する経済や制度や文化などへの分析では「どうしても考えられないような、ある謎の部分につきあたってしまいました」とまとめています。だから「吉本さんの書物が、フランス語なり、あるいは英語なりに紹介されますよう」「強く希望いたします…」となったのでしょう。

 フーコーに併せる形で中心的な課題が<意志論>となっていますが、問題の根源は〝人が共同性を求めてしまうのはナゼか?〟ということに収斂しており、むしろフーコーの言葉どおりの問いとして考えた方がダイレクトなルートが見いだせるハズです。

 

     国家の成立に関しては、
     …
     どうにもわからない大きな愛というか
     意志みたいなものがあったとしか
     いいようがないのです。
(P48)

 

本書は自らの指示表出をできる限り忠実に伝えようとする吉本隆明と、自らの思想を明白な自己表出として衒いなく語るフーコーの、互いに相手の方法論に乗っ取ったかのようなやり取りで構成されています。吉本理論の解説においても同様で、この製序された吉本理論(の解説)には賛否両論があるのではないでしょうか。ただ間違いなく吉本理論の全体像が自身によってほぼ初めて俯瞰されており、その方法に自覚的である限りとても有用でコンパクトな一冊です。フーコー研究の分野の周辺では本書は除外されているようなので、まさしくその可能性の中心はドーナツの穴のようにカラッぽなのかもしれません…。

2009年4月10日 (金)

<対象a>は剰余価値から―『生き延びるためのラカン』

『生き延びるためのラカン』(斎藤環・木星叢書)

 心的現象のトリガーが〝去勢〟(抑圧=疎外)であることは用語やそれが示す党派?に関係なく真理です。原生的疎外からはじまって純粋疎外(の<ベクトル変容>)が遠隔化し、再帰性がそれを冪上化しながら増幅する過程は吉本理論でもラカンでもその主張のベースになっています。
 この去勢が生んだ欧米文化の豊饒さを評価するとともに『ハイ・エディプス論 個体幻想のゆくえ』などでラカンの鏡像段階とパラノイア理論についてのラジカルな考察がされています。ラカンの有名な三界(想像界・象徴界・現実界)(論)が対幻想の領域に入ることを認めながら、用語をコンバートした論理の展開を考えるのも面白いでしょう。ラカン(orフロイト)のサイドから吉本理論との共通項を探る楽しさというものも含めて読める本です。ラカン派の中では異端だと自称されていますが、ジジェクなどマルキストへの読解も深い著者のものとして、また大変に読みやすい一冊として貴重です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ラカンに転移してしまった著者が「日本一わかりやすいラカン入門」を目指して6年の月日をかけ、中学生にも読めるように書いたのが本書。

 サブカル論議や精神分析、心理学フェチなら当然知っているレベルの用語だけで見事にラカンが解説されている。難解な専門用語が排除されているわけで、そこに<父の排除>を察する読者からは反発もあるけど、それこそこの本が成功してる証だとすればOK。

 吉本に転移している自分からすると、本書はフロイトへの深い理解のためかより一層吉本理論との近似が気になる。吉本や著者への自分の転移は当然として、他者からはどう読めるのだろうか?という新たな知への欲望がさらに喚起され、もちろん必読の一冊として触れ回りたくなる欲望はこの書評を書く衝動を喚起し。。。。

 タレントでも著者でも、その人を気に入ったらその人の作品を複数手に入れるのは当たり前。好きな役者の出演するTVや映画はいくつも見るし、著者なら何冊も読むでしょ。好きなミュージシャンのCDやアナログレコードだってたくさん持ってたりするもの。
 そんな訳で、斎藤環や吉本隆明の本はたくさん持っている。そのなかでも専門用語を並べた専門書より解りやすく深くて、読んでいて面白い、この『生き延びるためのラカン』はランキングが高い。

 漢字は<表象・表音・表意>の三位一体になっていて複雑。記号論で対象になる言語の文字としての<表象・意味>や言葉としての<表音・意味>とは複雑さのレベルが違う。漢字という書文字はそれだけで絵と記号の両方の機能をもっている。そのために〝シニフィアン〟〝シニフィエ〟みたいな意味ありげな用語をいくつ並べても漢字が人間にどう享受されるかは説明できない。同じようなことをラカンの限界として指摘したのが斎藤環の『文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ』で本書でも同書を参照するよう勧められている。

 入門書にしてはラカンの重要概念の由来まで説明されているのもGOOD。<対象a>がマルクスの<剰余価値>をヒントにしているなど、マルクスやヘーゲルからラカンがどのような影響を受けているかという説明は参考になるでしょ。それだけでも西洋思想という文脈の中でのラカンの確かな位置づけが可能。ヘーゲルやマルクスを除外しては現代思想の文脈が成り立たない事実を再認識しないと、日本の論者のこれ以上のフラット化、動物化が避けられないもんね。

 『ヨシモトで読むラカン』という本が一冊書けそうなほど、いろいろなヒントやネタが散りばめられた一冊だ。

       -       -       -

(追記予定です)

2009年4月 8日 (水)

人間のすべてが語られる『超恋愛論』

 『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ 』に続く思想や理論ではない軽い談話のような本。しかし、ここにはどのハードな吉本本にもなかった問題がクローズアップされています。個人幻想からひきこもり、そして淡い恋から情熱的な人間関係、約束、掟、法律と国家や宗教の関係、家庭内暴力、三角関係、そして表現-指示表出までが展開する吉本ワールドがそこにあります。

 いままで<対幻想>を根底においてきた吉本さんが、ここでは<三角関係>を取り上げて、社会が成立した以降の三角関係ならではの観念の動きについて考察しています。恋愛からファシズムまで、そしていまだナゾの心の動き…。日常的な言葉で、しかし吉本理論の臨界ともいうべき困難な問題を、どのように困難かが語られています。

 対幻想の究極と三角関係の不思議を考察しながら、そこに恋愛の極限と日本の後進性を見出しています。

 対幻想(家族関係)から観念が遠隔化していく階程を解き明かしたのが吉本理論のメインでした。この観念の遠隔化を遡行した時に、どこまで遡行可能なのか?というのは一つの大きな問題ですが、フロイトを援用する形では<エス(→自我)>がひとつのゴールだと考えられます。『心的現象論序説』に示されているように自己が自己を対象化した時点で〝幻想対〟といえるからです。
 エスから生成・離脱しようとする主体化志向の動きと、その動きの作用によって必然的に形成される反作用としてのエス化志向(非主体化)?の動き、この2つのベクトルがあるワケです。<主体を確立しようとするコト><エスへ戻ろうとするコト>ですね。

 三角関係の考察で異性愛に同性愛(友情)が拮抗してしまった、あるいは超えてしまったことにフォーカスした鋭い考察がなされます。異性(愛)に拮抗するものが多種多様に存在するのが現在であり、それは<n個の性>として、あるいは「多重見当識」『戦闘美少女の精神分析 』(ちくま文庫)斎藤環)としてもあるでしょう。

 <恋愛>と<結婚>の違いも、日本におけるその歴史から考察されています。<恋愛>は対幻想の世界ですが、<結婚>はそれを<共同幻想>から認知されなければいけないという点が大きく構造が違います。また共同幻想は第三者でもあり、それを回避しようとする心性は近代日本の特徴でもあるという指摘がされます。

 吉本は1人の男性が友人にも女性にも気持ちを<話せない>で内向していくのが三角関係のベースにあると分析します。問題はその男性が気持ちを話せないことです。するとこの問題は<ひきこもり>や誰もが通過するであろう孤独の焦燥と同質であることがわかります。

 「ぼくが恋愛論の本を出すなんて、初めてのことです」ということですが、結局、人間の原理のすべてに関して書かれています。思想や哲学といった専門用語の羅列とは違ったフィールドで、どの思想や哲学よりも人間の根本を語ってしまっている著者がここにいます。〝人間の人間に対する関係の全てが男の女に対する関係の中にある〟という若きマルクスと同じ認識がここにあります。(彼女のために決闘してこめかみに傷を負ったマルクスの武勇伝は、どこか吉本さんに通じるものがありますね…)

 個別的現存でしかない個人が人類となる契機を一対の男女に見出したマルクス『経済学・哲学草稿』の提起した問題は共同(幻想)化という展開を経て現実を規定していきます。吉本理論がその解のキーであることは読者が確認することでしょう。

2009年3月28日 (土)

エピソードな原点『幼年論 21世紀の対幻想について』

 芹沢俊介がインタビューする形になっていますが『ハイ・エディプス論』と同様でしっかりした理論的な内容になっています。しかも他の本では触れられていない<幼年>にフォーカスしたもので、人間が発達していく階程においていちばん大切なパートでもある<幼年期>への貴重な考察です。必然的に<対幻想>が人間の発達の階程でどのように変遷するか、そのバリエーションが語られ、共同幻想との関係や時代ごとの家族のカタチが明らかにされます。

 理論的な問題を導くためのサンプルは吉本隆明自身の幼年時からの体験や小説、柳田国夫や「古事記」「日本書記」です。「軒遊び」への考察から「ひきこもり」を、「甘え」からは暴力が導きだされます。ベイトソンやDG(ドゥルーズ=ガタリ)などと照応されるところもあり吉本読者ではなくてもポイントは理解しやすいでしょう。

 <親-子>という状況からも倫理からも子供のことは「100パーセント親のせい」という結論は当然のことですが、親自身がまずそれを回避する現在、それだけでもますます貴重な一冊だといえます。医学的に障害や病の原因が遺伝子や器質に由来すると明らかになるにつれ〝親のせいではない〟という現代的な倫理?が喧伝されるほど<情況>を顕わにしているものはないでしょう。

 成長するに従って<対幻想>が遠隔化していく、つまり観念のパースペクティブの拡張がありますが、それは物理的な距離としても(指示)表出します。ポイントは<認識上の空間性>と<物理的な空間>との差異とその組み合わせ=カップリング。遠隔化された観念と現実の行動はタイミングがズレますが、成長の階程では一つのカップリングされた状態として把握できます。歴史の階程におけるマルクスの<上部構造-下部構造>というカップリングのように「家遊び」「軒遊び」「外遊び」というカップリングが<親-子>の関係を、つまり<対幻想>の表出として考察できます。

 

 「家遊び」は親の保護下での遊び。
 親が認めたものを、親のコントロール下で遊びます。

 「軒遊び」は親の視界内での遊び。
 親の眺めのなか、親の手の届く範囲内で遊びます。

 「外遊び」は親の視線も手も届かないところでの遊び。
 親がいないところで、親の知らない遊びを(も)します。

 

 『共同幻想論』をはじめ柳田国夫を参照する機会は多く、豊富なフィールドワークから価値ある考察がなされています。「軒遊び」もその一つでしょう。
 この子どもの自由な時間である<遊び>をめぐる<親-子>の関係を構造として考えると、そこに<対幻想>の具現化した状態が把握できます。やがて<兄-弟>という関係や<姉><妹>あるいは<叔父><叔母>との関係へ遠隔化していく過程と延長に<共同幻想>として<国家>や<宗教>の成立までも解き明かした吉本理論の原点があります。

2009年3月17日 (火)

概観とオリジンな『心とは何か 心的現象論入門』

 講演をまとめたものであり『心的現象論序説』『心的現象論本論』 の中間に位置するような内容になっています。収録されている8回の講演で心的現象(論)を中心とした吉本理論の全体像がほぼ網羅され把握することができ、ページ構成も人間の発達史に沿った展開でそれぞれ豊富な具体例を示しながら進められています。

 Ⅰ章では発達史の中で〝一人では生きていけない乳児期〟と〝二次性徴を抑圧する前思春期〟から人間だけに特有な過程をフォーカスするところからはじまります。この時の人間に特有の過程がその後の心的現象のすべてを左右するものだからです。そこから言語以前の表出からいわゆる〝言葉〟までが考察され、それが対応する環界との関係も示唆されます。ここまでで初期三部作の内容が凝縮され、さらにはここですでにアフリカ的段階ハイイメージ論のコアな部分が明らかにされてきているともいえます。

 またⅠ章の「異常の分散 母の物語」などは他では示されていないような心的現象を個体として包含する<物語>がどのように形成されるかが心的現象(論)に基づいて解説されています。死という最大のストレスと向き合ったときの人間のレスポンスをキューブラー・ロスの膨大な臨床データから抽出し、人間の心的現象の祖型的なものをクローズアップします。それが感情を媒介係数としてどのような認識を生じさせるのかを発達心理学的な過程における錯合から明らかにし、<概念>や<規範>との統御のバランスの結果として<病的>や<異常>が生じる機序を明かしていきます。

 心的現象からみた吉本理論の全体像が概観でき、しかも重要な面でオリジンなところがある一冊といえます。

2009年3月 9日 (月)

『ハイ・エディプス論 個体幻想のゆくえ』

 生まれてから死ぬまでの個体の歴史にそった質疑応答で構成されているのがこの『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ』 。ある種シリアスな質問に対してよりハードな応答になっていて、ハードコアな吉本思想が言明されている。

 

   党派として考えられている
    「ほんとうのこと」は全部だめだ…

                                (P55)

   …母親が「ほんとうのこと」をいうはずがない。
   それが「ほんとうのこと」ですよ。

                                (P47)

 

 いわゆる共同幻想への全否定や、共同幻想の母型になる<母親(との関係)>についてのある種ペシミスティック?な見解でもある。吉本理論の振幅においてもっとも極端な位置でもあるが、それは 共同(幻想)性が個体(幻想)にとって真理であるハズがなく、その絶対に超えられない位相を表現する方法あるいはその指示表出そのものとしての〝こういう表現〟だったと思われる。

 ラカンの鏡像段階とパラノイア理論についてのラジカルな考察と批評、バロウズ!までも取り上げたスノッブ?さも意外な面白さとなっている。質問者サイドの生真面目さにオーダー以上の応答を返す両者のやり取りがこの本の出来を左右しているともいえるだろう。

 ラカンの想像界・象徴界・現実界の三界(論)は乳児・胎児期であればその全部が対幻想の領域にはいるという指摘や、フーコーの権力(論)と視覚(像)との関係、〝ミル・プラトー〟が普遍的でありうる原始的とアジア的の境界についてなど興味がつきない豊富な内容となっている。柳田国男にヒントを得た吉本の思索で「軒遊び」や「外遊び」、「学校」と「遊び」の関係など常に新鮮でユニークでもある吉本理論の可能性があふれている。驚くのは自分の発想を現在どう考えているか?について自問自答する最後だ。ヴェイユや親鸞についての想いは吉本の自己表出であり、読者にとって本書が見事な指示表出であることの分別(の在り処)を探すのも楽しいハズだ。

 マルクスをはじめ自他の理論を縦横無尽にラジカルに語っているが、本書でのスタンスは徹底的に吉本個人の、つまり個体幻想からの語りになっている。吉本理論の全体像がいつもと違った視点から読めるのだ。

2009年3月 7日 (土)

『カール・マルクス』市民社会を解き明かす方法

 〝市民社会・法・国家〟の関係を解き明かしていくマルクスから吉本理論が何を獲得したか、吉本理論によるマルクスへの評価といったものが明らかにされています。ヘーゲル/マルクスというオーソドックス?な関連から、その読解の仕方まで、吉本理論のラジカルでベーシックな原理とスタンスが明らかになります。単なるマルクスへの批評としてもシンプルで原理的ながらすべてを押さえている深さとパースペクティヴが圧倒的です。
 社会-国家あるいは宗教における<共同幻想>の展開 が明かされていて、ヘーゲルから継続する〝観念の弁証法〟の普遍性と方法論としての確実さが明らかにされます。心的現象論的なアプローチとともにある意味で吉本読解の前提として必読の書でしょう。

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 マルクス主義のガイドやマルクスの人物伝は少なくない。しかし書き手に思い入れがあるせいかヤケに熱かったり冷笑気味だったり左右両派?のポジションの滑稽さをそのまま表明したようなものが多く、ましてや理論的な真偽や価値となれば失望さえする。
 マルクス思想の研究では構造主義以降の見解でマルクスの初期と後期では認識論的切断があるという立場が目立つ。ニューアカから全共闘のノスタルジーが漂うものまでそれは共通するようだ。構造主義は弁証法を超えた、物象化論は疎外論を超えた、関係論は存在論を超えた、経済システム分析は素朴なヒューマニズムに優先する....。
 本書では『経済学・哲学草稿』 に代表される初期マルクスと後期の『資本論』 がまったく同じテーマを同じ方法で追究していることが解き明かされていく。これほど簡明でしかも根源的なマルクス論は他にないかもしれない。おそらく稀有な一冊だろう。
 それどころか共同幻想や純粋疎外などのタームに象徴される著者の思想や理論的なスタンスがまるでマルクスのように一貫したものであることもわかる。だがアインシュタインが10代で相対性理論を発見しながら、それが表現できるようになるまでに長い月日を必要とした(に過ぎない)ことを考えてみるとそれも不思議ではない。優れた哲学者はたった一つのテーマを持つという某有名哲学者の言葉はきっと真理なのだ。
 疎外がどのように再帰し、その展開がどのように共同化するのか。本書は簡単に巨大なマルクスの思想を根源から理解できる珍しいマルクス本だといえる。いまだに諸説乱れる国家論や経済学の根本、大衆論や宗教の起源までもが驚くほど簡明に解き明かされていく一冊は読者を限定することなく必読だろうと思わせるものがある。

(2006/06/14)
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2009年2月24日 (火)

ベーシックな『序説』 その5

 『心的現象論序説』の最後の章であるⅦ章「心像論」です。〝心像〟には最後のパラグラフで一度だけ「イメージ」とルビがふられています。これまでの他の章と同じように精神病の具体的な症例などから緻密な解析による説明がなされています。
 共同幻想という言葉は有名かもしれませんが、その由来については誰も触れていません。吉本理論でも由来についてはこのⅦ章の数行以外には説明がありません。『共同幻想論』にはさまざまな階程(TPO)の<共同幻想>について緻密な分析が書かれています。しかし<共同幻想>が、ナゼ・ドコに生成するのか?というその由来については説明されていません。共同幻想の生成はこの序説にしか書かれていないのです。たとえばそれが最後の章の最後のパラグラフです。

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『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

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【Ⅶ心像論】

P281
…自己妄想は、対象に<投射>されたうえで
自己妄想の世界として引き寄せられるため、
自己妄想が対象と自己とのあいだをボール投げの
繰返しのように往き来することによって、
共同観念の世界の代同物の性格をもつようになる。
そしてこの共同観念に擬せられる性格をもった
自己妄想の世界が、心的な世界と現実的な世界とを
接続する媒介の世界となるとみなすことができる。

 

 Ⅶ章の最後の項目「8引き寄せの世界」の計4頁に満たないうちの2頁目に上記の文があります。これが共同幻想(の代同物)がナゼ・ドコに生成するかをダイレクトに記述した唯一の文かもしれません。
 <心的な世界>と<現実的な世界>を<接続する><媒介の世界>として<自己妄想>が説明され、それは<共同観念の世界の代同物>でもあるとされています。
 <心像>は対象を思念することで現れるが〝病者あるいは病的状態であらわれる<幻覚>〟は〝当人の意志によって左右されることはない〟と<幻覚>の<心像>の違いが説明されます。

 

 認識の位相が<心像><形像><概念>の3つに分けられ、それぞれの生成の過程と<形像><概念>にまたがって<心像>が構成されることが説明されます。あらゆる対象がこの3つの認識の位相の統御された構造として把握されて、この把握の仕方、3つの位相の統御のされ方の違いが一般的な認識であったり異常あるいは病的な認識であったりする…ことが解説されています。さらにそこに歴史的な解釈が導入されます。この認識の統御の仕方が未開人と現代人では違うこと指摘されるのです。

 序説発刊の当時、この指摘は特に理解されなかったのではないでしょうか。しかし、この未開人と現代人の認識の相異に関する指摘こそ後の『アフリカ的段階について』のベースであり、この認識の方法、つまり個体発生とその成長に応じた認識統御の変化を未開人と現代人で比較するそれは、個体発生は系統発生を繰り返すとした三木解剖学に先駆けたものであることがわかります。『心的現象論序説』の最後の章に、その後のすべてがあらかじめ結実していた事実が驚異的な吉本理論の射程と一貫性を示しています。

2009年2月20日 (金)

ベーシックな『序説』 その4

 『心的現象論序説』のⅥ章「心的現象としての夢」では<入眠>時の心的な現象である<夢>が考察されますが、それは世界にまったく比類のないオリジナルな理論になっています。
 夢に関してはたいていフロイトによる夢判断のように夢に出てきた形象で夢の意味を問うものや、夢の内容を現実の(心理の)隠喩や換喩として捉えれるものが大部分です。それ以外はないといってもいいかもしれません。しかし、吉本理論における<夢>への考察はまったく違います。変幻自在で不定形でもあるような<夢>を厳密な認識の時空間構造として把握しています。そこでは<原関係><固有関係><一般関係>や<原了解>などの基礎概念が幻想論と対応しながら展開されています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【Ⅵ心的現象としての夢】

P188
夢が形像のかたちでやってきても(上限夢)、
非形像のかたちでやってきても(下限夢)、
あらわれる夢表現に対して<入眠>時の心的な領域は
一義的な対応をもたない…

なぜならば、
対象が<身体>の外部に実在しないことから、
心的な受容の空間化度は、
それぞれの感官に固有な水準と境界をもちえないで、
無定形な空間化度にすぎなくなる…

P189
夢の形像は、ある時にある場面で実際にみた形像とは
まったく関係がない…
記憶残像が再現されるのでもない。

夢の形像は、眠りによって条件づけられた
心的な受容の空間化度が消失し、
心的な了解の時間化度が変容することから
直接に必然的にやってきたものである。
つまり、意識が対象を受容し了解するという構造を
もちえないところから、
必然的に与えられたものが夢の形像であって、
いかなる意味でも視覚像ではありえない。


 ある意味でこのⅥ章がいちばん吉本理論の典型であり、また吉本理論が解りやすいかもしれません。夢は〝対象が<身体>の外部に実在しない〟から〝無定形な空間化度にすぎなくなる〟というシンプルでストレートな定義からはじまります。

意識が対象を受容し了解するという構造をもちえないところから、必然的に与えられたものが夢の形像〟であるという説明は序説における認識論をすべて語っているようなおもむきがあります。

 〝対象〟を〝受容〟し〝了解〟するのが基本的な認識の〝構造〟で、そのすべての段階に<時空間構造>があり、そして認識の順番と過程そのものにも時空間構造がある…というのが『心的現象論序説』で示されてきたことそのものです。それが感官(感覚器官)が対象を認識する構造です。感官は常にこの構造において環界を認識しています。
 ところが夢では〝対象が<身体>の外部に実在しない〟つまり感官が受容する対象というものが存在しません。感官が機能する段階である環界との接触がないわけです。夢では感官レベルでの認識はないことになります。夢はいきなり〝了解する〟ところ(対象外・意識外のもの)からはじまるわけです。
 了解のレベルには了解の時空間構造があります。夢では(感官の)対象がなく対象のレベルの時空間構造がないために、この了解の時空間構造がその代わりになります。それが<夢>の属性です。〝無定形な空間化度〟による〝形象〟になるわけです。

 

 夢の形象が〝対象〟ではなく了解の時空間構造そのものによるということは、夢という認識は認識の再帰性(自己言及性)に負うものであることがわかります。
 そのために〝いかなる意味でも視覚像ではありえない〟のであり、よくある夢への解釈や想像や直観、イメージというものへのアバウトが見解が、ほとんどすべて無効であることがわかります。吉本理論のすさまじい破壊力がここにあります。

 いきなり共同幻想との関係でいえば、共同幻想が自己言及できない部分をカバーする(タネにする)認識だとすると、夢は自己言及そのものである、といえるかもしれません。

2009年2月17日 (火)

ベーシックな『序説』 その3

 吉本理論の基礎概念である<原生的疎外>や<純粋疎外>と同じように『心的現象論序説』のⅤ章「心的現象としての発語および失語」でもベースとなるオリジナルな概念が設定されています。それは<自己表出>と<指示表出>のもととなる<自己抽象><自己関係>などです。原理的であるとともに原生的疎外や対幻想といったものよりわかりやすいかもしれません。その点でもこの『心的現象論序説』を読んでから他の理論へ向かった方が吉本理論全般が理解しやすいと考えられます。

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『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

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【Ⅴ心的現象としての発語および失語】

P151
言語はふたつの構成的な因子をもっていると
かんがえることができる。
ひとつは表現としての言語、
もうひとつは規範としての言語である。

表現として言語をみれば、
話され書かれないかぎり言語は存在しない。

規範として言語をみることはまったくべつのことを意味する。
…民族語に固有の音韻、韻律、文法などが抽出できる

ような共通性のうえにのみ存在し、…人間の発語自体に
たいして規範としての作用を発揮するようになる。

P152
…表現としての言語と規範としての言語は

<逆立>しようとする志向性をもっている。

 

 「規範としての言語」というのは<指示表出>のこと。この『心的現象論序説』で言語についての基本的な考察を知っておくと『言語にとって美とはなにか』がとても理解しやすくなります。<指示表出>は外部からやってきて、<自己表出>は自身の内部の言語。
 〝はじめて言葉をしゃべれるようになった幼児〟は〝<父>や<母>〟から〝教育によって、あるいは自然な模倣によって規範をうけとっている〟ということで「規範としての言語」は〝幼児にとって、すでに予め存在する〟ワケです。このことから「規範としての言語」=<指示表出>はいちばん心的な<環界>だと考えられます。この環界である<指示表出>を超高度資本主義の全生産(物品・サービス)=文化全般にまで拡張して考察していく『ハイ・イメージ論』の原点がここにあるともいえます。イメージ論においてこの序説の<純粋概念>が最重要ポイントになってくることからも吉本理論にはまったくブレがなく、また起点がこの序説であることがわかります。

 「表現としての言語」は〝ただ対自性そのものを空間化度に転化〟したものでありこの〝<概念>の空間化度はまったく恣意的でありうる〟と説明されます。現象学、実存主義、言語論、心理学、資本主義にいたるまでの原理がシンプルに示されてしまう吉本理論の原点とその表出論(言語論)がここにあります。

 <規範>としての言語の形成は〝<関係>意識にかかわってくる〟もので、〝<関係>(作用)そのものが心的な<規範>の対象〟であることが説明されます。これが<指示表出>であり、<指示表出>と<自己表出>または<規範>と<概念>は<自己関係>と<自己抽象>を初源として生成し構造化することが把握されます。

 この<関係>意識は<共同幻想>の起点(≧自己関係の背理として)で(も)あり、<規範>としての<指示表出>が大量に生産される超高度資本主義の分析に吉本理論が向かったのは必然であることがわかります。また自己言及の不可能性として表出する場合の<規範>はラカンの象徴界とオーバーラップするものと考えられます。

 これらは精神病における失語をはじめとする現象を解析する形で説明されています。言語が心的現象から解剖されていくスリリングでラジカルなⅤ章です。

2009年2月15日 (日)

ベーシックな『序説』 その2

 『心的現象論序説』のⅢ章「心的世界の動態化」Ⅳ章「心的現象としての感情」では基礎となる概念構築、了解作用の遠隔化とその動因が考察されています。吉本理論の原理論であり現象学やフロイトへの厳密な考察から理論が生成していく瞬間でもあるでしょう。
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『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか
 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情

 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

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【Ⅲ心的世界の動態化】

P93
心的な領域を原生的疎外の領域とみなす
わたしたちのかんがえからは、
ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
<感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは

区別されない。

心的現象の質的な差異、
たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
ただ時間化度、空間化度の量的な差異と

その錯合構造にしか還元されない…

 

 時空間概念という理系文系を超えた究極の概念を駆使した心的現象へのアプローチが宣言され、ヘーゲル小論理学のような明解でゆるぎない理論の基礎づけを目指した論考であることがわかります。〝個体の幻想性についての一般理論が確定されれば、個々の具体的な人間がしめす心的現象を了解し、予見しうるはずだ、という観点にたっている〟この『序説』の可能性はすさまじい破壊力をともなって展開されることになります。

 <原生的疎外>とその<ベクトル変容>である<純粋疎外>というオリジナルで基本的な原理と概念が示されます。純粋疎外の時空間化度として<固有時間性><固有空間性>が設定され、現象学的還元が排除するものの背理として〝現実的環界の対象も、自然体としての<身体>もけっして排除しない〟時空間の〝錯合という異質化した構造〟である<純粋疎外>が提出されます。ここでは現象学の〝超越者〟への指向(嗜好?)は消滅しています。

 感覚作用を〝それぞれに固有の空間化度〟と〝生理体としての<身体>の時間化度〟による受容とみなし、それが微分されます。そして<一次対応>という<了解>の基礎が設定され、そこからの離脱(の度合)が異常や病気(のスケール)となることが説明されます。これらはハイデガーやベルグソンの時間や空間への概念設定とも比較検討されていきますが、後半の具体的な症例への分析をとおして例証されていく過程は現在まで続くスタイルでもあり説得力があります。

 

【Ⅳ心的現象としての感情】

P131
たんに眼のまえの存在にたいしてだけではなく、
遠隔の対象についても<感情>をもつことができる
にもかかわらず<感情>の対象は、

遠隔性でありえないことは、
<感情>にとってもっとも本来的な性質である。

 

 心理学でも哲学でも脳神経学でももっとも困難な<感情>(の定義)というものが、もっとも吉本理論らしく時空間概念によってクールに解析され提示されています。
 心的現象の中で感情が特別なのは、感覚には〝対象そのものを指す志向性〟がありますが、感情は〝対象についての心的な状態を、本来の対象とする〟からです。つまり感情は再帰(性)や自己言及(性)の典型でありループしている心的現象そのものといえるもの。

 しかも〝<感情>の作用は、対象自体がどういうものかとはかかわらない〟ということで、たとえば<好き・きらい>のような判断さえ両価性でしかなく、〝<感情>は〟〝心的な時間性の<空間>化〟という〝中性〟の〝強度に転化する〟ことが〝本質〟だとされます。
 また〝了解作用〟が〝<時間性>が介在すべきであるにもかかわらず〟〝心的空間性の領域としてだけやってくる〟〝本来的な矛盾〟とも定義されています。(これらの感情についての思索は時間(性)以前の状態である<エス>を念頭においたものではないかと考えられます。)

 後半で分裂病の少女ルネなど感情の障害をともなう症例への考察があり、〝<接触>の構造〟が問題とされます。ベースに〝臨界的である〟〝人間と人間との<接触>〟を置き、そこから遠隔化していく動因として(の)<感情>(の必然)が考察されます。
 ここで<臨界的な接触>というのは後に有名になる<対幻想>の属性のこと。この数ページに<共同幻想>から<アフリカ的段階>までの機序と必然が、はじめて現れます。それは〝<異常>あるいは<病的>とみなされる精神の働き〟への考察から生まれたものだといえます。

2009年2月13日 (金)

ベーシックな『序説』 その1

 『心的現象論序説』のⅠ章Ⅱ章は考察の基本的な方法とスタイルで、Ⅲ章「心的世界の動態化」Ⅳ章「心的現象としての感情」は吉本理論の根幹をなす部分です。Ⅴ章「心的現象としての発語および失語」Ⅶ章「心像論」はそれぞれ『言語にとって美とはなにか』と『共同幻想論』の基礎づけになっています。

 『心的現象論序説』には「対幻想」も「共同幻想」もでてきません。代わりに<幻想対>や<幻想的共同性><共同観念><一般了解>という言葉がでてきます。また「自己表出」「指示表出」という言葉もでてきません。<自己表現としての言語><規範としての言語>など説明文が多く登場しています。
 『共同幻想』『言語美』は具体的な題材を解剖するかたちで理論が構築されていきますが、この『序説』では基礎概念のレベルで徹底的な考察と解説がされており〝言語〟も〝共同性〟もラジカルに理解できるように書かれています。『心的現象論本論』ではさらに多くの個別的な題材から微細な解剖をとおして原理が示されていきます。『序説』は理念的に完結しうるもとして完成度が高いものです。

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『心的現象論序説』(改訂新版・1982年・角川文庫版)

 Ⅰ 心的世界の叙述
 Ⅱ 心的世界をどうとらえるか

 Ⅲ 心的世界の動態化
 Ⅳ 心的現象としての感情
 Ⅴ 心的現象としての発語および失語
 Ⅵ 心的現象としての夢
 Ⅶ 心像論

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【Ⅰ心的世界の叙述】

P10)
わたしのかんがえでは
マルクスの知見のうちもっともすぐれており、
もっとも貴重なのはかれがその体系のうちに
観念の運動についての
弁証法を保存していることにある。

 

 心理学や哲学、現象学というジャンルを超えて心について考察することが宣言がされています。心は身体や環界に依拠しますが絶対にそこに還元はできません。この困難で複雑な状態を自明のものとして心的現象への探究がはじまります。

 〝わたしが<視る>とき、それは<構造>としてみており、対象はその個体に固有の<構造(時空間構造)>に変えられて受容される〟…という意味の説明(P13)があります。

 この{個体に固有の<構造>}というのは人間にはそれぞれ個体ごとにその人固有の認識構造(認識の仕方)があり、各人で少しづつ異なっていて、それが個人の特徴(個性)になっていることを示しています。
 この<個体ごとの特徴>や、<個体と個体の差異>あるいは<個体と公準(共同体の)の差異>にフォーカスして心的現象論は展開されています。この<差異>こそが<性格>をはじめとして<異常><病気>まで包含するものであり、吉本理論の言語論としてであれば<自己表出>に対応するものです。もし、たとえば個体相互にまったく差異がなく同じ(ような)属性であるとすれば、それはコンピュータや動物が並んでいるようなもので全面的な指示表出(だけ)の世界となります。

 

【Ⅱ心的世界をどうとらえるか】

P46)
もし量子生物学の発展が、生理的なメカニスムを
すべて微視的にとらえうるようになったとき、
心的現象は生理的現象によって了解可能となるか?
もちろんこれにたいする答えは<否>である。
ただし、不可知論的な否ではなく構造的に否である。

 

 その理由として〝生物体としての人間が、細胞の確率的な動きのメカニスムを把握しうるとき、心的な存在としての人間は、すでに<把握しうる>ことをも把握しうる冪乗(累乗)された心的領域を累加している〟という構造にあることを指摘。

 この〝構造的に否である〟は定理としては<自己言及のパラッドクス>や<ゲーデルの不完全性定理><チューリングの停止性問題>(の示すもの)と同じす。(こういった見解を示せる可能性がニューアカ以降にありましたが誰も何も示せませんでした。)

 これは個体という<入れ子>構造における<再帰(性)>が人間だけのものであることを示しています。あるいは<再帰(性)>を<入れ子>構造の前提と(して定義)したともいえます。

 〝観念の働き〟は〝人間の<身体>と現実的な環界〟〝この二つの関数〟(P49)であり、その〝心的な領域をささえる基軸〟として<身体>と<環界>の両方から疎外された<構造>であることが仮説として提出されます。イデオロギーへのアンチとして登場した身体論や身体図といったものや後の三木解剖学の前段といえる思索がここにあります。

2009年2月 6日 (金)

現在とガチンコする『ハイ・イメージ論』

<p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p><p>欧米の思想とガチンコできた唯一人の思索者?</p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p></p>

 コムデギャルソンからカフカ、高層ビル、村上龍、シュンペ-ター、Aスミス、Jケージ、ブレードランナー、ソシュール、マルクス、そして〝ライプニッツにおける神〟まで取り上げている『ハイ・イメージ論』はまるで〝現在そのもの〟をターゲットにした批評理論です。しかし、その理論的根拠が語られたことはあまりありません。

 

   言語の概念をイメージの概念に変換することによって
   三部作に分離していたものを総合的に扱いたい。

 

 大和書房の全撰集7・『イメージ論』には以上のような説明があります。「イメージという概念に固有な理論、その根拠をつくりあげる」ことを目指し、哲学や現象学が定義しきれないできた<イメージ>について問い、それを根拠に現在を把握していこうとする作業です。

 〝何でもアリ〟といえる〝現在〟というものは、何の規定も制約もない状況であり、その〝ワクのなさ〟はツカミどころのない茫漠としたもの。対象も、主体も、方法さえも、自由でありフリーハンドであることの困難はほとんど全ての科学が直面してきた問題でもあるでしょう。時代をリアルに反映するサブカル文芸では内容や意味、何らかの価値さえ感じさせないものすらあります。しかし、いずれも〝商品〟としての価値を問われる(機会はある)ものでもあり、絶えず社会の中での位置づけと、個体との関係と、それらを俯瞰するハイイメージとの関係から解析されます。この『ハイ・イメージ論』では三部作を通底し、いよいよ全面的に行使される立脚点として<純粋概念>がポイントとなってきますが、もちろん<純粋○○>というタームはほとんど(全然ではない)登場しません。表象的には原理的なタームと立脚点さえ消失したかのようななかで〝現在〟が探究されていくワケです。

  無限に増殖する指示表出=モノゴトに対して<純粋概念>を対置するハイ・イメージ論。この作業に並行して、有限な遡行であることの確信のもとに自己表出=個体への探究が『ハイ・エディプス論』『母型論』 として刊行されました。そして指示表出と自己表出、この二つへの探究が本来ひとつのものであり、しかも歴史的な(現実の)ものであることを証明するかのように『アフリカ的段階について』が発表されました。この自己幻想が共同幻想となりえた時代への考察はヘーゲルが〝歴史外〟としたそのものを〝歴史の初源〟として再把握するというものです。現在、共同化しうる自己幻想はアートや文芸として表出し、それはハイ・イメージ論のように把握されますが、自己幻想の表出が政治や権力たりえた時代への考察はプリミティブな世界への探究として刊行されたワケです。そしてもう一度自己幻想が自己表出のサイドから問われるものとして『芸術言語論』が発表され、1月4日放送のETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~ともなりました。

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 このイメージ論(マス&ハイ・イメージ論)で有名?になったタームが「世界視線」。吉本さんの思想で「共同幻想」「対幻想」につぐヒツト?となった言葉でしょう。でも内容的には、このイメージ論以降、激しく反発され否定されたようです。おそらく、その理由はカンタンで、視覚情報をメインとした現代のカルチャー論議の中で、自分たちのフィールドを侵犯されると怯えた評論家やインテリさんたちの必死な反発があったということでしょうか。
 問題なのは「世界視線」の定義も理解もできていないレベルの批判がほとんどだったこと。吉本さんの全思想の大前提になっている心的現象論の基本概念である「原生的疎外」や「純粋疎外」への理解がアヤフヤなのと同じで、この「世界視線」への理解も?でした。理論的にいえば「純粋疎外」の延長線上に「世界視線」は成立するものですが、本書ではそれが臨床的な事実に即してわかりやすく解説されています。

 臨死という生命の弱化は、簡単に説明すれば心身の統合されたシステム維持能力の低下です。この心身の統合が低下し、システムのバランスが崩れるというのは、肯定的に表現すれば心身の各能力の変成であって、そこには通常では考えられない認識や受容性が生じます。そこで仮構された認識のある位相を「純粋疎外」と借定するわけですが、「世界視線」は比較的に日常でも遭遇しやすい「認識」として説明されています。
 さらには、その「日常」のレベルこそ超高度資本主義の成果であるとして、ハイ・イメージ論は驚異的な広がりと射程をもつ論考として展開されていきます。「世界視線」を可能にする変成は統合失調症そのものであり、基盤となる日常のレベルというものは経済状況と個人の観念の弁証法的な統一である特定の「階程」であり、あらゆる文芸は「世界視線」の表出という意義を持っている....。コム・デ・ギャルソンにJ・ケージ、精神病から高橋源一郎、村上龍、ブレード・ランナーやランドサット....縦横無尽の探究の中、コアとなる部分でヘーゲル、マルクスがシビアに検討されていきます。本質的に、欧米の思想とガチンコできた唯一人の思索者かもしれないと思わせる迫力が、そこにはあります。

(2006/05/15)

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«<世界視線>という指示表出-人工の視線

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