OnePush!お願いしまーす!

無料ブログはココログ
2023年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

とれまがブログランキング

2023年4月17日 (月)

キャラウエイ10 「お待ちしてました!」 ハーブや紅茶のお店みたいに

「お待ちしてました!」

「こちらのエレベータで、どうぞ」

フロア表示が無いけど、降りられます…
ていうか…着きます。

「スイマセン、ワタシもなんだかなれてなくって」

フロアが無いなんて不思議ですよね…
ていうか…フロアの表示がない、だけなんです。
だったかな…
ゴメンナサイ、なれてなくって、このビル…


「お客さま、すぐわかりましたよ」
前に来た方だなって、2年くらい前だったかしら…

前みたいに、何が探されてるような気がしたので、
お声をかけました。そしたら、アタリっ!
巫女が仕事なので、得意なんです、当てるの。

ハズレることは、ありませんね。
ハズレてたら、こうやって案内してないし。

 

 

ハーブ紅茶のお店みたいに

2023年4月15日 (土)

キャラウエイ9 220922 Mポルナレフは気がつくと

昼眠のしすぎなのか、ずっと眠ったままだったのか、
回数か長さか不明のまま、気がつくとキャラウエイがいるみたいな気がした。


1回で3ヶ月、回数も長さも関係ないわ。
Mポルナレフは気がつくと季節が変わっていたの。

ツゥツゥ、プマシェリー、マッシェリー ~


キャラウエイが古いヒット曲を口ずさんでいた。

引き出しの函にいるキャラウエイに会ってから
2年と10ヶ月ほどたっていた。

「ウソをつくとキャラウエイに会えなくなるな…」
そんな心配をして暮らしていたから、眠たままだったのかもしれない。
眠ていればウソをつかなくていいし、何より楽だから…。


楽をしすぎると、年を取るの。
若く見えても二度童
クスクス


キャラウエイに笑われてるのかな…

ちゃんと目が覚めたのかどうか、わからないまま、
ぼくは、起きた。
誰もいない…

2年と10ヶ月ほどたっていた。

キャラウエイに会いに行かなくちゃ。
洗面台の鏡を見て、寝グセを指で引っ張ると、
出かける用意をした。
スマフォ、Suica、ハンカチをポケットに入れると、
ようやく目が覚めてきた気がした。

だけど、問題が一つ。
メイドから声をかけてくれないと、どこだかわからない。
キャラウエイがいる建物がわからないのだ。

困っていると、メイドが声をかけてくる…
そんなことの繰り返しだったような気がする。


気がするだけ
気がするだけだよ
ダイジョーブ


今日のキャラウエイは陽気だな。
何かあったのかな、
ウチが決まったのかな、
函から出たのかな。

とにかく出かけよう


ゆっくりでいいよ
ころばないように
間違えないように

 

2023年4月12日 (水)

キャラウエイ8 *ディラックのうみ

ディラックのうみ

キャラウエイの姿がかすむときに聴いた言葉だ

こゆびのみどりいろはできごとのはじまりだったが、
うすれてかすむのはおわりのはじまりだということは、
たいていのだれもがしっている。

ディラックのうみがみちてくる時だからだ

 


キャラウエイはじぶんの手のひらごしに景色を見ている

てのひらをかさねてみたところにもどってこれるのだという

たったひとつのディラックのおきてなのだ


キャラウエイは、
ぼくにむかって手のひらを突き出すとニコッと大きく笑った。

会えるのは資本主義のおかげじゃないのよ
おきてをまもるかどうかなの

 


ぼくはかすむと風に乗れることをはじめて知った。
ぼくの最初の知識だった。
それから風の歌を聴くようになった。

2023年4月10日 (月)

キャラウエイ7 *ストロベリーファーム

とおくに見えるのがストロベリーファーム

キャラウエイのお城だ
ウチのないキャラウエイはストロベリーファームに住んでいる
ウチのないぼくもストロベリーファームにあこがれていた


ストロベリーファーム

ルート20にも、トトロへの道にもある。
どっちがほんもの?
たどり着いた方がほんもの、たぶん

いつもそんな会話をしていたが、たどり着いたことはなかった気がする。
ふりかえるととおりすぎていたナツカシイところ

ベルエアガーデン
それがストロベリーファームだった。

 


高い天井とパティオみたいな屋内。
モノトーンタイルの床、打ちっぱなしの壁面
下10数センチが空いているトイレのドア。

大好きな、やまもりのドライカレー、アーモンドチップがのっている。
コージーコーナーのナポレオンがデフォルトになったようなケーキたち。

なんでもあった!
キャラウエイが声をはしゃがせた

 


それからパロット、ブロンズパロット

ブロスとブロンズがあるパロットだけど、その区別はナゾだった。

ちがいはいろだかテカリだかのビミョウな差らしい
どちらかによく行ったが、どちらに行ったかはナゾだった

思った方がそれなのよ、それ
キャラウエイがおませな言い方で説明した

 

*230410修正

2023年3月31日 (金)

キャラウエイ番外

構築することへの過剰な羞恥心のために壊している見掛けをなくさないで、
ひそかに(構築)する方法がさようなら、ギャングたちからはじまるこの作家の特質をつくってきた。

たった一人の読者からこう批評された作家の気持ちはどんなものだろう?
それはすべての批評を無力感に叩き込んだ作家が真っ赤になって彼女の感想を聞くようなものかもしれない。

 

たった一人の詩人を読者に書かれたのが「さようなら、ギャングたち」
ギャングたちはたぶん批評を殺し、思想を盛り上げ、読者を生き返らせた。
そんな風に覚えてる、「さようなら、ギャングたち」

 

『さようなら、ギャングたち』…Amazonのたくさんのレビューから可視化されているものが興味深い。要は自分にとって分からないものには否定的というありがちなスタンスと、理解できなくても感性的に受容できたらそこからスタートというもの。後者が世界の解決であることは当然。村上春樹大衆レベルでの流行とそれを理解も支持もしない知識人とのギャップというアジアでの問題は、日本でもこの作品でも露呈しているということが意味しているものは…

 

 

-------------------------------------

個を自然過程として組み込んでいく共同幻想への対峙をうながす、詩人吉本隆明の<直接性がここにあります。

消費社会の不安こそ、その根源そのものを直接に証すものであり、それは受動的な消費者だからこそ可能だというビジョン。これがハイイメージ論で示される、現代だけに可能になった未来への期待です。


象徴交換の神話と死で消費資本主義を激しく批判する ボードリヤールにテッテー的な反論を加えながら、現代だけに可能になった未来への期待が示されています。そして、その立場は<弱者>というもの…。つまり 受動的な一般大衆=消費者のことです。


本 書には<動物>という言葉以外に<幼童>や<子ども>、<女の子><><>などの概念が幾度も登場し、グリム童話やアンデルセン、高橋源一郎や村上龍 などもサンプリングされています。カットアップされるのは子どもが登場したり幼稚性を示した場面…。そこで解析されるのは瞬間や反復、常同、面白いもの、 残酷、無倫理…です。

動物と幼童が等質等価であるのはヘーゲル以来の認識であり、消費=生産も資本論の範疇です。本書の内容はじつはオーソドック。それらの現況である終わりなき日常の反復にこそ未来の可能性を発見した、巨大な思想家の優しい視線を感じることができます。<大衆の原像>に可能性を見いだそうとする視線が、そこにはあります。

 

「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?
http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2017/06/post-5d8a.html

-------------------------------------

 

 

2023年3月28日 (火)

キャラウエイ6 *また来てくださいね!

キャラウエイ
起きてる?

メイドが声をかけてくれたので建物にいる。
函のなかのキャラウエイはみどりいろのまぶたをひらひらさせてうなずいるみたいだった。

みどりのかおでも心配ない

ぜんしんみどりになってもマッサージするとなおるんでしたっけ?
たしか「さようなら、ギャングたち」に書いてあったけど

「あちらは小説!こちらは事実!」
メイドはきっぱりという。

「お客さま!」
巫女のメニューもありますよ!」
「このまえいいましたっけ…」
「ですよね! ごめんさい!」

それからメイドは声を小さくしてすまなそうにいった。
イタコはまだなのだ。

 


だいじょうぶですよ、キャラウエイさま、ハコヌケがトクイだから
メイドはニコッとわらうとちいさな聖歌を口ずさんだ
お客さまのシワセワはわれらがテンジョウ…
そんな意味のうたをハミングしながらモップをかけはじめる

また来てくださいね!

見つけてくれないと来れないのは言いそびれてしまった。

くすっとキャラウエイが笑った気がした

2023年3月20日 (月)

キャラウエイ5 *ウチがない *らっこ *カンバン、カンバン

記憶は遠くにあってだんだん消えていく。

関係は目のまえのデキゴトなので憶える必要もなく続く。

いつもいっしょのキャラウエイはいつもいっしょの関係だ。
ガールフレンドなんだか、いとこなんだか、幼なじみなんだか、とにかくそこにいる。

そこがふたりのスタートだった。
ふたりともウチがないということだけが共通の思い出だった。
いつもいっしょにいるのが毎日だった。

ある日、それが変わりはじめた。

キャラウエイはぼくに心配させないようにつぶやいた。

くり返しなんだわ、なんでも、かんでも
ぐるっともとのところへもどってくるもの

 


目のまえの問題は建物のあるところをぼくが知らないことだ。
メイドがぼくを見つけてくれないとキャラウエイのところへいけない。

ぼくは下をむいて黙っていた。
そういうときキャラウエイはかたあしでジャンプする
ひとさしゆびでカンバンをゆびさししながら。

けんけん
まみやきょうだいみたいだわ、これ
あなたはらっこねするし

夕焼けをあびてキャラウエイの顔はオレンジ色だ
こゆびもまだみどりじゃなかった。

 


しんかんせん

キャラウエイはけんけんしながらくり返す。
しんかんせん
カンバン、カンバン

夕焼けでオレンジのキャラウエイはまだみどりじゃない。

しんかんせん
カンバン、カンバン

名詞しかくり返さないのはちゃんと理由があるらしい。
考えなくてもわかるものが名詞なのだという。
キャラウエイはなにもかんがえない

カンバン、カンバン

キャラウエイは大きなカンバンをゆびさして
ひとさしゆびでつっつくまねをした
大きなカンバン、「J」(ジェイ)。

キャラウエイはおなかがすいているのだろう。


キュートなかおをしてふりむく、キャラウエイ
まだみどりじゃなかった

 

2023年2月21日 (火)

キャラウエイ4 *ハグボックス *未保護者救済制度

函の英語名は知ってる?
ハグボックスっていうの
もともと家畜用の鎮静装置なんだわ

はじめから静かだとなじみすぎてしまうらしいの
きっと函と一体になってしまうのよ

そしたらウチに帰れない

キャラウエイはさみしそうにいった
みどりになればいいんだわ、きっと
いっぱいいたずらをして

こゆびだけでもウチにかえるの

キャラウエイはカンバンのほうへカオをむけながら、
ひとさしゆびでつっつくまねをした

「J」(ジェイ)、大きなカンバンだ。

 


キャラウエイの父さんがギャングがらみだとは知っている。

父さんはキャラウエイを「書類ケースのような金属の棚」へ送るはめになって反省したという人だ。
問題は2つあった。
反省してもムダ。父さんに関係ない。

この2つをクリアできない父さんは去ることになった。
消息は不明で理由は「去るものは追わず」とされているらしい。
どこかの役所のなにかの書類だとそうなのだ。

おかげでキャラウエイは未保護者救済制度が適用された。
ただ条件があって、本人が未保護者救済を訴えなくてはいけない。

キャラウエイはジャンプとゆびさしで注目されぼくと知り合い、
その過程は国家機密に属するので語ってはいけないことになっている。
都合よくふたりともなにも憶えていないのでパスした。
自由の身になったのだ…

そんな風だったな、たしか。
なんとなく懐かしいような記憶をたどってその日も過ぎた。

たしかはじめはキャラウエイの名前もなかったのだ。

誕生日も不明だわ
ときどきキャラウエイは物語を読むようにつぶやいていた。

 

2023年2月17日 (金)

キャラウエイ3 *かたあしでジャンプする *「いまハコヌケしてます」

かたあしでジャンプする
ひとさしゆびでつっつく
カンバンをみつける

キャラウエイのくせはそんなにない。
だけどキョウリョクで、印象的だ。
なぜって、どれもこれもくり返すからだ。何度もくり返す。

世界のはてまでいったらもどってくるでしょ?
ぐるっともとのところへもどってくるもの
くり返しなんだわ、なんでも、かんでも

なのでキャラウエイはこだわりがない。
ちいさな気分以外に何もない。
あるのはくり返しだけ、なのだ。

キャラウエイの友だちは16年間くり返していた、という。
なにをだかは知らない。なにかをなのだろう。

あたしもくり返すの…たぶん
いつもとちがう感じでキャラウエイはいった。

ちいさな予感は大きくなっていった。
キャラウエイは函のなかで眠ることになった…

 


キャラウエイはいますか?

「先日のお客さま! ですね!」
「いまハコヌケしてます」

ハコイリの日から何日かたつと、ハコヌケするのだという。
「権利なんですよ! お出かけの」
しかしメイドにはチェックできず、気がつくとヌケているのがハコヌケなのだという。
「自然でしょ!」
メイドには職務としての責任がかからないので気が楽らしい。
「ハコヌケされると、みなさんもヨロコバレマス!」
「だってたいていは会いにいくんですもの!」
そのあとちょっと小さな声でメイドはくり返した…「たいていは、ですけど」

確率のもんだい?
「そう、そうです!」
メイドの気を楽にしてあげた自分に満足して電話を切った。
また場所をたずねられなかった。

キャラウエイは遠いな…
呼ばれてなければいいけど、呼ばれているのだったらかわいそうだ。
みどりいろがふかみどりになってしまう。
そういうときはオレンジを食べるといいらしいことは知っている。
補色なのかな…いつも疑問はこんな感じだ。


バランスなんだわ
どこかでキャラウエイの声がした気がした。

 

2019年11月17日 (日)

キャラウエイ2 *キャラウエイはいますか? *おだわらあつぎどうろ

キャラウエイはいますか?

「先日のお客さま! ですね!」
ときどき函鳴りしていたので元気だという。
具体的にたずねると、お客さまでしか鍵は使えないのでといいながら、
さっとメニューを説明しはじめた。ぼくが直接鍵を開けにいかないといけないらしい。


巫女は説明しましたっけ?」
「あ、ごめんなさい」
「お客さまのレイヤーですと、イタコですね…」
何かコマッタ雰囲気の直後、息をのみながらメイドはつぶやいた。
「ホウレイセン…」
「ホ、ホウレイセン対応がまだでして、イタコってまだなんですよ」
「ごめんなさい!」

ぼくはJR SKISKI 2017なカオを思いうかべて、許してあげた。
店内の企画会議でイタコは大きなテーマなのだがホウレイセン対応のめどがつかず保留…
ホウレイセンにトライするメイドがいないので未定なのだという。
「ごめんなさい!」
明るくくり返すと来店の予定をたずねられた。

ちょっといまは無理といいながら場所を忘れたことをとぼけて通話を切った。

先日のようにメイドから声をかけてくれないと建物はわからない。
大きな駅には似たような建物はたくさんあるし、いつも考えごとをしてるので通過地点には詳しくない。

キャラウエイは元気かな…
ウソをつくとキャラウエイに会えなくなるな…

函の音がしたような気がした。

 


おだわらあつぎどうろだわ。

みどりいろになるまえ、キャラウエイとでかけた場所がそうだった。
なにかの小説にでてくる道路で、まえから知っているという。

やはらの交差点もそうだ。
なにかに出てくるところで、たいへん重要な場所らしい。

2つの場所の共通点は、たぶん世界のはてだというところ。
はてではなくともはじ程度ではあるだろう。ぼくも本で読んだ。
キャラウエイの知識はいつもふしぎで、感心している。

どうして知っているのかきくと、住むところだかららしいのだ。
いつ住むのかきくと、だまってしまった。
知らないのではなくて、言いたくないようなので、ぼくは深入りしなかった。

函よりウチがいい…
たしかにキャラウエイはそんなことをいっていた。

 

*230216修正

2019年6月 8日 (土)

#キャラウエイ *「さようなら、ギャングたち」 *キャラウエイ、またくるからね。

たった一人の詩人を読者に書かれたのが「さようなら、ギャングたち」
ギャングたちはたぶん批評を殺し、思想を盛り上げ、読者を生き返らせた
そんな風に覚えてる、「さようなら、ギャングたち」

 

 

キャラウエイはそのかわいい登場人物だ。
スズやカンナよりかわいい、キャラウエイ。
こゆびをみどりいろにしてしまってコマッテイルらしい。

函のなかにいるというので、探しに出かけた。
みつけられずにいると、JR SKISKI 2017みたいなメイドが声をかけてきた。
「お困りですね! 案内しましょう!」

建物にはいるとほらあそこです、と鍵をわたしてくれた。
函がしまってある、大きな引き出しの鍵だ。


こゆびをみどりいろにしたキャラウエイがいう。
おいたをしたからだわ。

おはなし、きいてる…?
キャラウエイはゆびやてを見つめながら、さびしそうにしている。

ひとり言はいつも聞いているよ。
いつも聞いている。
離れていたって聞こえるよ。
それがぼくだって、キャラウエイは知っている。

泣きだしたり、たわむれたり、はねたり食べたり、なんでもくり返すすがたを
思いだして、こっちまでさみしくなりそうだった。


キャラウエイ、またくるからね。

かおまでみどりいろにして、函のなかでじっとしているキャラウエイ。
うなずくような気がしたので、ぼくはそっと引き出しを閉めた。

いくつかの引き出しをながめながら、
はじめに案内してくれたメイドのところへ鍵を返しに戻った。
「わたしたち、巫女もかねているんですよ!」
じゃあ、シャーマンは?
「それも企画しているところです!」

ボクは笑い顔をメイドの方へ向けながらが建物を出た。

キャラウエイ、資本主義は、またぼくたちを会わせてくれるよ

函が、コトリと音をたてたような気がした。

 


いつも一緒にいるのに、部屋で姿を見たことがないキャラウエイ。
ガールフレンドなんだか、いとこなんだか、幼なじみなんだか、もう覚えていない。
覚えているのはふたりともウチがないことぐらいだ。

ひとりで川をわたったり、ひとりで列車にのったり。
電話でアマゾンとかジャングルとかいいながらラテン語ではなしていたこともあるキャラウエイ。
キャッツクローならあなたにも効く、といいだしてぼくに何か飲ませたり。

ひとりのときに、ひとりじゃないと思ってるキャラウエイ。
その夢からさめないようにぼくを呼ぶ。

またきっと会える。

 

2018年12月25日 (火)

熱くても冷たく、冷たくても熱い、その理由

「38℃の日は暑いのに38℃の風呂に入ると熱くないのはなぜか」というシゼコン(自然科学観察コンクール)入賞の中学生の研究があります。とても大事な疑問で、人間が生きていくための最もラジカルで重要な問題がここにあります。専門家?にとっても、それは最大のテーマでありムズカシイもの。いままでちゃんと解明されたことがないような大きく深いテーマです…。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<脳−身体−環境>の<来歴>が認識を左右している…錯誤というものはない…!

 

モノクロがカラーに見える現象があります。その理由を丁寧に解説している本は、自分が探した範囲内では『心的現象論本論』(他に概念装置を解説した『…序説』があります)という本だけでした。そこではモノクロがカラーに見えるのは錯覚ではなく、そう見えるようになっている…その仕組がクールに説明されています。

心的現象論は膨大な量の精神疾患やLSDの服用実験などのエグザンプルを取り上げ、それを解説しています。思想や哲学の文脈で読まれることが多いようですが、うつ病や統合失調症への分析など、緻密な考察と一貫した観点が圧倒的な印象の本です。数学者野口宏のトポロジカルなニューロンによる頭脳モデルやデビッド・ボームによる量子力学的なホログラフィック仮説など、具体的な症例から理論物理学的なものまでノンジャンルで心理=心的現象についての解析が2段組500ページ以上も続きます。

本書『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』は、その心的現象論のエビデンスとして読みました。ナゼなら、まったく同じことが書かれているからです。フロイトやビンスワンガー、ヤスペルスといった精神病医学の古典的巨匠からMポンティやサルトル、ベルグソンといった知覚や感覚についての深い考察、フッサールなど言語への関係やヘーゲルやレヴィ=ストロースなど社会との関係、フランス現代思想のドゥルーズ=ガタリなどのスキゾ分析、そしてジャック・ラカンなど…以上の他にも多数の言説と実験論文なども参照しながらノンジャンルでとにかく心的現象への深い探究がされている心的現象論。それと本書はまったく同じことが指摘され同じことが主張されていたのです。異なっているのはタームだけといってもいいかもしれません。この発見は驚きでしたが、新たな可能性や期待をもつことができウレシクなりました。なんといっても心的現象論の思想的哲学的なタームで難しく記述されているものが、『「意識」とは何だろうか』では簡明に説明されているからです。

本書『「意識」とは何だろうか』では、「意識」を可能とする「地」として「無意識」をはじめとするさまざまなものがフォーカスされています。そしてその「地」を知ることで「意識」が拡大され、コントロールの可能性が向上することが示唆されています。それこそが本書の目標であり目的であるのかもしれませんが…。だとすれば、それはますます心的現象論と同じ主旨であることにもなりそうです。個人の「自由」といった認識(この逆が障害観など)も、これまで哲学的なアプローチはありましたが、心理学的なものは本書や心的現象論でしか読んだことがありません。逆に自由を抑制する社会や宗教、国家といったものについての言説は哲学から思想までたくさんあるようですが、どれも人間の心理については言及できていないものばかり。そこには社会科学や人文分野が説得力を失ってきた原因そのものがあるのではとも思われます。ようやく最近では行動経済学のようなダイレクトに人間の心理を起因とする社会科学的なアプローチもでてきましたが…。

心的現象論が思想的哲学的なアプローチをスタートとしているとすれば、本書は心理学からはじまり、両書は同じ結論にたどりついた…ということが言えるかもしれません。たとえば本書の最大のキーワードであるであろう「来歴」という言葉は、<本源的蓄積>や<「五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である」>というマルクスや資本論の認識ともイコールになります。

本書はプロザックのような向精神薬も含めて、人間の意識との関係をマクロに考察するとともにミクロや分子レベル(代謝など)での因果をもエビデンスとして取り上げています。そのスタンスは一見心理学の分野に見えますが、社会科学全体を見わたせるもので、古代ギリシャの哲学フィロソフィアが本来心理学であったことを思い出させるようなトーナリティのあるものです。

最終章では人工と自然の対立といったものから還流する意識までが取り上げられ、もっともリアルで現在的なものとしてベイトソン的な自己言及を社会全般へのものとしてフォーカスしています。…なのでやはり本書は心理学を超えた社会全般についての本なのでしょう。少なくとも著者のスタンスはそういったものであるようです。

「錯誤」を含めて「イリュージョン」が本書のポイントであり、そのイリュージョンは「来歴」によって生成する…という認識は心的現象論そのものなので、興味のある人は両書を読み比べてみると面白いかもしれません。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』(下條信輔:講談社現代新書)のレビューから(2014年5月14日

2018年7月28日 (土)

S字曲線と呼ばれるグラフで示されるもの…

     ある生存に適した有限の生態系の中に放たれた生命種が
     その環境内で増殖を続けた場合にたどる変異を示すグラフに、
     生物学でロジスティック曲線と呼ぶS字型生命曲線がある。

     (『人類が永遠に続くのではないとしたら』(加藤典洋・新潮社)P190)

           
人類が永遠に続くのではないとしたら

著:加藤 典洋 , 他
参考価格:¥2,484
価格:¥888
OFF : ¥1,596 (64%)
   

ある生物種と、その種が生きていく環境とのもっとも基本的な関係を現したS字曲線(シグモイド曲線)。一定環境での個体群の増加などに見られる典型的な関数の形…そこから何を読み取り、何を発想できるのでしょうか…?

S字曲線と呼ばれるグラフで示される、とは…Sという文字の上辺?と下辺?に当たる部分が水平に近いわずかな傾斜で右上がり、上下を結ぶ真ん中の線が垂直に立ち上がある形を示しているもの。上下の辺は両方ともわずかな傾斜で右上がりになっているが、トレンドがまったく異なり、下辺はだんだん立ち上がっていき、上辺はだんだん立ち上がりの傾斜がフラットになっていくもの。

自らの生きる環境が有限であり、その閉鎖系内で生産と消費を繰り返す…というシンプルな事実。それを認識しているかいないか…。自らの生きる環境の状態を知るには、あるいは自らの環界の限界=有限であることを知るには、環境からの情報のフィードバックとその情報を理解できる認識能力が必要です。


 世界を東西に二分した冷戦よりもよりリアルに資本主義国を直撃した石油ショック。
 重要であるとともに有限なエネルギー源である石油を利用したすさまじいコンフリクト…。しかしそれより以前に、この地球が有限なマテリアルであるという当然で自然な、そしてラジカルな研究をしたのがマサチューセッツ工科大学でした。
 その成果は『成長の限界』として公表され、東西陣営を問わず全世界に衝撃を与えました。特に西側=資本主義世界では重化学工業の急成長から一般消費へのシフトがはじまりつつあり、『成長の限界』は想定外あるいは論外といった反応をも招きました。誰も<限界>など感じてはいなかったし、そんなものは<あり得ない>はずのことでした…。

 この<あり得ない>ことが、次から次へと起こってしまう事実を直視したのが、「リスク社会」のウルリヒ・ベックです。
 ベックが指摘するリスク社会とは、リスクテイクすることが生産コストより大きくなるような事象に満ちた社会です。たとえば原子力発電…原子力発電所の建設費より、その寿命が来て安全に解体処理する費用のほうがはるかに大きくなってしまいます。もちろん運行途中の事故はマネーゲームのバブル崩壊のように、常に想定外という言い訳がされてきました…。


           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

著:見田 宗介
参考価格:¥778
価格:¥778

   

 加藤典洋氏は見田宗介氏に「リスク社会」のウルリヒ・ベックには無い可能性を見出していきます。それは<世界視線>の有無ともいえるもの。リスクを解決すべき課題として捉えるベックは再帰性をベースにしながらもリスクを解決すべき問題として対象化しています。見田は世界の有限性への認識から、内在する関係性へと旋回することによってリスクをヘッジする経路を見出そうとします。これは科学と宗教ともいえる面をも内包したものといえるもの…。

 吉本隆明的に言えば、先験的理性であるかのように見えるものへの絶え間ない問いかけ…。科学が蓋然性でしか無く、数理概念さえ自然認知に従うことをベースにした、終わりのない思索…。

 そんな思索に、とりあえず設定された目標?について吉本隆明は語っています。



     「日本人とは何か」という問題意識と、
     「現代社会はどこへ行くか」という問題意識を
     同じ方法でやらなければいけないとも思っています。

     さもなければ、進歩と保守とか、
     歴史学と未来学というような対立になってしまいますから…

     そのとき、見田さんの社会論なんかを
     取っ掛かりにできればと思っているんです。

     (『中央公論特別編集 吉本隆明の世界』
          「吉本隆明+見田宗介 世紀末を解く」P77)

2017年7月31日 (月)

現在はナゼ不可視なのか?…ハイイメージ論

 共同幻想論の現在版であるハイイメージ論は、現在はナゼ不可視なのか?という問いからスタートします。

 「高度情報化」の社会像の像価値は・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・それはわたしたちが、社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、わたしたちを安堵させているからだ。
 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                 (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりから」P31,32)

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりから」P24)


 フランス最高の知性といわれ左翼政権の最高顧問として登場したジャック・アタリの著作『情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具 (1983年)』。それを思わせ、そしてはるかにそれを超えるのがハイ・イメージ論Ⅰのスタートを切るこの30頁ほどの論考、「映像の終わりから」。すべては、現在が不可視であることを確認するところからはじまります…。

 産業構造の進展を時空間とその構造の差異の変容から説明しながら、わたしたちがいかにして不可視であるかを解いていく論考は、あの共同幻想論の現代版として思索されてきたもの…。「情念」や「倫理」を排したクールな思索と探究は情報理論なども踏まえて展開されています。

           
ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,404
価格:¥1,404
OFF :  ()
   
           
情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具 (1983年)

翻訳:平田 清明 , 他
参考価格:¥ 1,255
価格:¥ 1,255
OFF :  ()
   
           
改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明 , 他
参考価格:¥ 778
価格:¥778
OFF :  ()
   

 共同幻想論は人はなぜ、どうしてどのように共同幻想を見てしまうかが探究されていますが、このハイ・イメージ論では問いが逆転し、なぜ見えないのか?が問われていきます。不可視であることの理由…。安堵し覚醒をさまたげるものとの永続的な闘い…詩人であり思想家である吉本隆明のノンジャンル、ノンリミットの思索がハイイメージ論に溢れています。


 安堵し覚醒をさまたげられている現代人へ、遠野物語の序文の「之を語りて平地人を戦慄せしめよ」というアプローチがハイ・イメージ論が書かれた動機のひとつでもあることは間違いないでしょう。

 国内の山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人の伝説あるべし。
 願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陣勝呉広のみ。

                          (『遠野物語』「序文」 柳田國男」)

           
新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺 柳田国男コレクション (角川ソフィア文庫)

著:柳田 国男 , 他
参考価格:¥ 562
価格:¥562
OFF :  ()
   

2017年6月30日 (金)

「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?(再掲)

フラット化する社会についての思索、共同幻想の最後の論考となったのが『ハイ・イメージ論Ⅲ』でした。過去の歴史と比べて、現代を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」と断じたエビデンスは『資本論』の正統な解読から導かれたもの。その過程ではボードリヤールなどのありがちな資本主義批判も否定されていきます…。

  わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。

                   (『ハイ・イメージ論Ⅲ』「消費論」P288)

クールなハイイメージ論は、最初の章「映像の終わりから」で以下のような宣言がされてスタートします。臨死体験の自己客体視やコンピューター・グラフィックスによる映像をメタフォアに、<現代(以降)>あるいは未来を探るための概念装置として<世界視線>が語られていきます…。情念や倫理によってではない認識を可能にしてくれるものとしての世界視線です。

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P24)

世界視線をもってしても認識を妨げるもの…。それは私たち自身に内在し、私たち自身が気がつかないもの…それを初期3部作のポテンシャルをもってブレークスルーしようするのがハイイメージ論であることが示されていきます…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                     (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)

「マクロ像」「ミクロ像」という言葉に象徴される、幻想のそれぞれ。
「世界方向のパラメーター」に「無意識」を「包括されてしまう」「わたしたちの視座」…。
個を自然過程として組み込んでいく共同幻想への対峙をうながす、詩人吉本隆明の<直接性>がここにあります。

消費社会の不安こそ、その根源そのものを直接に証すものであり、それは受動的な消費者だからこそ可能だというビジョン。これがハイイメージ論で示される、現代だけに可能になった未来への期待です。

----------------------------------------------
みんなの不安の根源を解き明かし、ラジカルな勇気をくれる一冊!
----------------------------------------------
現代が<終わってる>ことを宣言してくれた正直な名著! そして社会は動物化?した… だからみんなで何かを探しに行こう! 2014/4/22

By タマ73

現代の日本が大きなオワコンであることが指摘されて、この本は終わります。
いちばん最後の文章が以下です。

  「わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。」

マ ルクスの理論から消費が生産でもあることを示し、日本が高度消費資本主義社会であると説明されます。これはGDPの半分以上が選択消費になる先進国の共通 の具体的な経済状態です。そしてこの状態こそが動物化した資本主義といえるものだと指摘されます。それは動物は意図的な生産はしないで消費だけをするから です…。

動物化するニッポン…。でも著者は悲観しているのではありません。逆です。象徴交換の神話と死で消費資本主義を激しく批判する ボードリヤールにテッテー的な反論を加えながら、現代だけに可能になった未来への期待が示されています。そして、その立場は<弱者>というもの…。つまり 受動的な一般大衆=消費者のことです。

  「弱者(一般大衆)が受動的である社会が、
  どうして否定的な画像で描かれなくてはならないのか、
  どうしてみくだされなくてはならないのか、
  わたしにはさっぱりわからない。」

必 要なのは現在に通用する倫理がないことをクールに認識することであって、現在を否定することではないからです。現在の大きな<不安>は通用する倫理が無い から…という指摘は、次のステップを示してくれています。現在の不安を解消するのは古びた愛国や平等といったものではないのは当然だからです。

本書は、日常生活の中で、弱者(みんな)が、ちょっとづつ何か(倫理でも何でも)を探しながら生きていくことを全面的に肯定してくれた一冊といえるでしょう。

本 書には<動物>という言葉以外に<幼童>や<子ども>、<女の子><弟><妹>などの概念が幾度も登場し、グリム童話やアンデルセン、高橋源一郎や村上龍 などもサンプリングされています。カットアップされるのは子どもが登場したり幼稚性を示した場面…。そこで解析されるのは瞬間や反復、常同、面白いもの、 残酷、無倫理…です。

動物と幼童が等質等価であるのはヘーゲル以来の認識であり、消費=生産も資本論の範疇です。本書の内容はじつはオーソドック。それらの現況である終わりなき日常の反復にこそ未来の可能性を発見した、巨大な思想家の優しい視線を感じることができます。<大衆の原像>可能性を見いだそうとする視線が、そこにはあります。

    ハイ・イメージ論〈3〉

著:吉本 隆明
参考価格:¥ 1,677
価格:¥ 1,677

   

---------------------------------------

«<貧弱な共同社会>が生む共同幻想

にほんブログ村

ネタ本 アザーコア

オススメ DOYO