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2019年6月 8日 (土)

#キャラウエイ

たった一人の詩人を読者に書かれたのが「さようなら、ギャングたち」
ギャングたちはたぶん批評を殺し、思想を盛り上げ、読者を生き返らせた。
そんな風に覚えてる、「さようなら、ギャングたち」


キャラウエイはそのかわいい登場人物だ。
スズやカンナよりかわいい、キャラウエイ。
こゆびをみどりいろにしてしまってコマッテイルらしい。

函のなかにいるというので、探しに出かけた。
みつけられずにいると、JR SKISKI 2017みたいなメイドが声をかけてきた。
「お困りですね! 案内しましょう!」

建物にはいるとほらあそこです、と鍵をわたしてくれた。
函がしまってある、大きな引き出しの鍵だ。


こゆびをみどりいろにしたキャラウエイがいう。
おいたをしたからだわ。

おはなし、きいてる…?
キャラウエイはゆびやてを見つめながら、さびしそうにしている。

ひとり言はいつも聞いているよ。
いつも聞いている。
離れていたって聞こえるよ。
それがぼくだって、キャラウエイは知っている。

泣きだしたり、たわむれたり、はねたり食べたり、なんでもくり返すすがたを
思いだして、こっちまでさみしくなりそうだった。


キャラウエイ、またくるからね。

かおまでみどりいろにして、函のなかでじっとしているキャラウエイ。
うなずくような気がしたので、ぼくはそっと引き出しを閉めた。

いくつかの引き出しをながめながら、
はじめに案内してくれたメイドのところへ鍵を返しに戻った。
「わたしたち、巫女もかねているんですよ!」
じゃあ、シャーマンは?
「それも企画しているところです!」

ボクは笑い顔をメイドの方へ向けながらが建物を出た。

キャラウエイ、資本主義は、またぼくたちを会わせてくれるよ。

函が、コトリと音をたてたような気がした。


いつも一緒にいるのに、部屋で姿を見たことがないキャラウエイ。
ガールフレンドなんだか、いとこなんだか、幼なじみなんだか、もう覚えていない。
覚えているのはふたりともウチがないことぐらいだ。

ひとりで川をわたったり、ひとりで列車にのったり。
電話でアマゾンとかジャングルとかいいながらラテン語ではなしていたこともあるキャラウエイ。
キャッツクローならあなたにも効く、といいだしてぼくに何か飲ませたり。

ひとりのときに、ひとりじゃないと思ってるキャラウエイ。
その夢からさめないようにぼくを呼ぶ。

またきっと会える。

 

2018年12月25日 (火)

熱くても冷たく、冷たくても熱い、その理由

「38℃の日は暑いのに38℃の風呂に入ると熱くないのはなぜか」というシゼコン(自然科学観察コンクール)入賞の中学生の研究があります。とても大事な疑問で、人間が生きていくための最もラジカルで重要な問題がここにあります。専門家?にとっても、それは最大のテーマでありムズカシイもの。いままでちゃんと解明されたことがないような大きく深いテーマです…。―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<脳−身体−環境>の<来歴>が認識を左右している…錯誤というものはない…!

 

 

モノクロがカラーに見える現象があります。その理由を丁寧に解説している本は、自分が探した範囲内では『心的現象論本論』(他に概念装置を解説した『…序説』があります)という本だけでした。そこではモノクロがカラーに見えるのは錯覚ではなく、そう見えるようになっている…その仕組がクールに説明されています。

心的現象論は膨大な量の精神疾患やLSDの服用実験などのエグザンプルを取り上げ、それを解説しています。思想や哲学の文脈で読まれることが多いようですが、うつ病や統合失調症への分析など、緻密な考察と一貫した観点が圧倒的な印象の本です。数学者野口宏のトポロジカルなニューロンによる頭脳モデルやデビッド・ボームによる量子力学的なホログラフィック仮説など、具体的な症例から理論物理学的なものまでノンジャンルで心理=心的現象についての解析が2段組500ページ以上も続きます。

本書『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』は、その心的現象論のエビデンスとして読みました。ナゼなら、まったく同じことが書かれているからです。フロイトやビンスワンガー、ヤスペルスといった精神病医学の古典的巨匠からMポンティやサルトル、ベルグソンといった知覚や感覚についての深い考察、フッサールなど言語への関係やヘーゲルやレヴィ=ストロースなど社会との関係、フランス現代思想のドゥルーズ=ガタリなどのスキゾ分析、そしてジャック・ラカンなど…以上の他にも多数の言説と実験論文なども参照しながらノンジャンルでとにかく心的現象への深い探究がされている心的現象論。それと本書はまったく同じことが指摘され同じことが主張されていたのです。異なっているのはタームだけといってもいいかもしれません。この発見は驚きでしたが、新たな可能性や期待をもつことができウレシクなりました。なんといっても心的現象論の思想的哲学的なタームで難しく記述されているものが、『「意識」とは何だろうか』では簡明に説明されているからです。

本書『「意識」とは何だろうか』では、「意識」を可能とする「地」として「無意識」をはじめとするさまざまなものがフォーカスされています。そしてその「地」を知ることで「意識」が拡大され、コントロールの可能性が向上することが示唆されています。それこそが本書の目標であり目的であるのかもしれませんが…。だとすれば、それはますます心的現象論と同じ主旨であることにもなりそうです。個人の「自由」といった認識(この逆が障害観など)も、これまで哲学的なアプローチはありましたが、心理学的なものは本書や心的現象論でしか読んだことがありません。逆に自由を抑制する社会や宗教、国家といったものについての言説は哲学から思想までたくさんあるようですが、どれも人間の心理については言及できていないものばかり。そこには社会科学や人文分野が説得力を失ってきた原因そのものがあるのではとも思われます。ようやく最近では行動経済学のようなダイレクトに人間の心理を起因とする社会科学的なアプローチもでてきましたが…。

心的現象論が思想的哲学的なアプローチをスタートとしているとすれば、本書は心理学からはじまり、両書は同じ結論にたどりついた…ということが言えるかもしれません。たとえば本書の最大のキーワードであるであろう「来歴」という言葉は、<本源的蓄積>や<「五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である」>というマルクスや資本論の認識ともイコールになります。

本書はプロザックのような向精神薬も含めて、人間の意識との関係をマクロに考察するとともにミクロや分子レベル(代謝など)での因果をもエビデンスとして取り上げています。そのスタンスは一見心理学の分野に見えますが、社会科学全体を見わたせるもので、古代ギリシャの哲学フィロソフィアが本来心理学であったことを思い出させるようなトーナリティのあるものです。

最終章では人工と自然の対立といったものから還流する意識までが取り上げられ、もっともリアルで現在的なものとしてベイトソン的な自己言及を社会全般へのものとしてフォーカスしています。…なのでやはり本書は心理学を超えた社会全般についての本なのでしょう。少なくとも著者のスタンスはそういったものであるようです。

「錯誤」を含めて「イリュージョン」が本書のポイントであり、そのイリュージョンは「来歴」によって生成する…という認識は心的現象論そのものなので、興味のある人は両書を読み比べてみると面白いかもしれません。

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』(下條信輔:講談社現代新書)のレビューから(2014年5月14日

2018年7月28日 (土)

S字曲線と呼ばれるグラフで示されるもの…

     ある生存に適した有限の生態系の中に放たれた生命種が
     その環境内で増殖を続けた場合にたどる変異を示すグラフに、
     生物学でロジスティック曲線と呼ぶS字型生命曲線がある。

     (『人類が永遠に続くのではないとしたら』(加藤典洋・新潮社)P190)

           
人類が永遠に続くのではないとしたら

著:加藤 典洋 , 他
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ある生物種と、その種が生きていく環境とのもっとも基本的な関係を現したS字曲線(シグモイド曲線)。一定環境での個体群の増加などに見られる典型的な関数の形…そこから何を読み取り、何を発想できるのでしょうか…?

S字曲線と呼ばれるグラフで示される、とは…Sという文字の上辺?と下辺?に当たる部分が水平に近いわずかな傾斜で右上がり、上下を結ぶ真ん中の線が垂直に立ち上がある形を示しているもの。上下の辺は両方ともわずかな傾斜で右上がりになっているが、トレンドがまったく異なり、下辺はだんだん立ち上がっていき、上辺はだんだん立ち上がりの傾斜がフラットになっていくもの。

自らの生きる環境が有限であり、その閉鎖系内で生産と消費を繰り返す…というシンプルな事実。それを認識しているかいないか…。自らの生きる環境の状態を知るには、あるいは自らの環界の限界=有限であることを知るには、環境からの情報のフィードバックとその情報を理解できる認識能力が必要です。


 世界を東西に二分した冷戦よりもよりリアルに資本主義国を直撃した石油ショック。
 重要であるとともに有限なエネルギー源である石油を利用したすさまじいコンフリクト…。しかしそれより以前に、この地球が有限なマテリアルであるという当然で自然な、そしてラジカルな研究をしたのがマサチューセッツ工科大学でした。
 その成果は『成長の限界』として公表され、東西陣営を問わず全世界に衝撃を与えました。特に西側=資本主義世界では重化学工業の急成長から一般消費へのシフトがはじまりつつあり、『成長の限界』は想定外あるいは論外といった反応をも招きました。誰も<限界>など感じてはいなかったし、そんなものは<あり得ない>はずのことでした…。

 この<あり得ない>ことが、次から次へと起こってしまう事実を直視したのが、「リスク社会」のウルリヒ・ベックです。
 ベックが指摘するリスク社会とは、リスクテイクすることが生産コストより大きくなるような事象に満ちた社会です。たとえば原子力発電…原子力発電所の建設費より、その寿命が来て安全に解体処理する費用のほうがはるかに大きくなってしまいます。もちろん運行途中の事故はマネーゲームのバブル崩壊のように、常に想定外という言い訳がされてきました…。


           
現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

著:見田 宗介
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 加藤典洋氏は見田宗介氏に「リスク社会」のウルリヒ・ベックには無い可能性を見出していきます。それは<世界視線>の有無ともいえるもの。リスクを解決すべき課題として捉えるベックは再帰性をベースにしながらもリスクを解決すべき問題として対象化しています。見田は世界の有限性への認識から、内在する関係性へと旋回することによってリスクをヘッジする経路を見出そうとします。これは科学と宗教ともいえる面をも内包したものといえるもの…。

 吉本隆明的に言えば、先験的理性であるかのように見えるものへの絶え間ない問いかけ…。科学が蓋然性でしか無く、数理概念さえ自然認知に従うことをベースにした、終わりのない思索…。

 そんな思索に、とりあえず設定された目標?について吉本隆明は語っています。



     「日本人とは何か」という問題意識と、
     「現代社会はどこへ行くか」という問題意識を
     同じ方法でやらなければいけないとも思っています。

     さもなければ、進歩と保守とか、
     歴史学と未来学というような対立になってしまいますから…

     そのとき、見田さんの社会論なんかを
     取っ掛かりにできればと思っているんです。

     (『中央公論特別編集 吉本隆明の世界』
          「吉本隆明+見田宗介 世紀末を解く」P77)

2017年7月31日 (月)

現在はナゼ不可視なのか?…ハイイメージ論

 共同幻想論の現在版であるハイイメージ論は、現在はナゼ不可視なのか?という問いからスタートします。

 「高度情報化」の社会像の像価値は・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・それはわたしたちが、社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、わたしたちを安堵させているからだ。
 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                 (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりから」P31,32)

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりから」P24)


 フランス最高の知性といわれ左翼政権の最高顧問として登場したジャック・アタリの著作『情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具 (1983年)』。それを思わせ、そしてはるかにそれを超えるのがハイ・イメージ論Ⅰのスタートを切るこの30頁ほどの論考、「映像の終わりから」。すべては、現在が不可視であることを確認するところからはじまります…。

 産業構造の進展を時空間とその構造の差異の変容から説明しながら、わたしたちがいかにして不可視であるかを解いていく論考は、あの共同幻想論の現代版として思索されてきたもの…。「情念」や「倫理」を排したクールな思索と探究は情報理論なども踏まえて展開されています。

           
ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

著:吉本 隆明
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情報とエネルギーの人間科学―言葉と道具 (1983年)

翻訳:平田 清明 , 他
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改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明 , 他
参考価格:¥ 778
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 共同幻想論は人はなぜ、どうしてどのように共同幻想を見てしまうかが探究されていますが、このハイ・イメージ論では問いが逆転し、なぜ見えないのか?が問われていきます。不可視であることの理由…。安堵し覚醒をさまたげるものとの永続的な闘い…詩人であり思想家である吉本隆明のノンジャンル、ノンリミットの思索がハイイメージ論に溢れています。


 安堵し覚醒をさまたげられている現代人へ、遠野物語の序文の「之を語りて平地人を戦慄せしめよ」というアプローチがハイ・イメージ論が書かれた動機のひとつでもあることは間違いないでしょう。

 国内の山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人の伝説あるべし。
 願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陣勝呉広のみ。

                          (『遠野物語』「序文」 柳田國男」)

           
新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺 柳田国男コレクション (角川ソフィア文庫)

著:柳田 国男 , 他
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2017年6月30日 (金)

「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?(再掲)

フラット化する社会についての思索、共同幻想の最後の論考となったのが『ハイ・イメージ論Ⅲ』でした。過去の歴史と比べて、現代を「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」と断じたエビデンスは『資本論』の正統な解読から導かれたもの。その過程ではボードリヤールなどのありがちな資本主義批判も否定されていきます…。

  わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。

                   (『ハイ・イメージ論Ⅲ』「消費論」P288)

クールなハイイメージ論は、最初の章「映像の終わりから」で以下のような宣言がされてスタートします。臨死体験の自己客体視やコンピューター・グラフィックスによる映像をメタフォアに、<現代(以降)>あるいは未来を探るための概念装置として<世界視線>が語られていきます…。情念や倫理によってではない認識を可能にしてくれるものとしての世界視線です。

 情念によって作りだされた反動や意味づけは、
 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
 社会像の転換にはなにも寄与しない。

          (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P24)

世界視線をもってしても認識を妨げるもの…。それは私たち自身に内在し、私たち自身が気がつかないもの…それを初期3部作のポテンシャルをもってブレークスルーしようするのがハイイメージ論であることが示されていきます…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

                     (『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)

「マクロ像」「ミクロ像」という言葉に象徴される、幻想のそれぞれ。
「世界方向のパラメーター」に「無意識」を「包括されてしまう」「わたしたちの視座」…。
個を自然過程として組み込んでいく共同幻想への対峙をうながす、詩人吉本隆明の<直接性>がここにあります。

消費社会の不安こそ、その根源そのものを直接に証すものであり、それは受動的な消費者だからこそ可能だというビジョン。これがハイイメージ論で示される、現代だけに可能になった未来への期待です。

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みんなの不安の根源を解き明かし、ラジカルな勇気をくれる一冊!
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現代が<終わってる>ことを宣言してくれた正直な名著! そして社会は動物化?した… だからみんなで何かを探しに行こう! 2014/4/22

By タマ73

現代の日本が大きなオワコンであることが指摘されて、この本は終わります。
いちばん最後の文章が以下です。

  「わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、
  すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、
  過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。
  ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。」

マ ルクスの理論から消費が生産でもあることを示し、日本が高度消費資本主義社会であると説明されます。これはGDPの半分以上が選択消費になる先進国の共通 の具体的な経済状態です。そしてこの状態こそが動物化した資本主義といえるものだと指摘されます。それは動物は意図的な生産はしないで消費だけをするから です…。

動物化するニッポン…。でも著者は悲観しているのではありません。逆です。象徴交換の神話と死で消費資本主義を激しく批判する ボードリヤールにテッテー的な反論を加えながら、現代だけに可能になった未来への期待が示されています。そして、その立場は<弱者>というもの…。つまり 受動的な一般大衆=消費者のことです。

  「弱者(一般大衆)が受動的である社会が、
  どうして否定的な画像で描かれなくてはならないのか、
  どうしてみくだされなくてはならないのか、
  わたしにはさっぱりわからない。」

必 要なのは現在に通用する倫理がないことをクールに認識することであって、現在を否定することではないからです。現在の大きな<不安>は通用する倫理が無い から…という指摘は、次のステップを示してくれています。現在の不安を解消するのは古びた愛国や平等といったものではないのは当然だからです。

本書は、日常生活の中で、弱者(みんな)が、ちょっとづつ何か(倫理でも何でも)を探しながら生きていくことを全面的に肯定してくれた一冊といえるでしょう。

本 書には<動物>という言葉以外に<幼童>や<子ども>、<女の子><弟><妹>などの概念が幾度も登場し、グリム童話やアンデルセン、高橋源一郎や村上龍 などもサンプリングされています。カットアップされるのは子どもが登場したり幼稚性を示した場面…。そこで解析されるのは瞬間や反復、常同、面白いもの、 残酷、無倫理…です。

動物と幼童が等質等価であるのはヘーゲル以来の認識であり、消費=生産も資本論の範疇です。本書の内容はじつはオーソドック。それらの現況である終わりなき日常の反復にこそ未来の可能性を発見した、巨大な思想家の優しい視線を感じることができます。<大衆の原像>可能性を見いだそうとする視線が、そこにはあります。

    ハイ・イメージ論〈3〉

著:吉本 隆明
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2017年5月28日 (日)

<貧弱な共同社会>が生む共同幻想

   共同的な幻想もまた入眠とおなじように、
   現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、
   たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。
   そしてこの状態のほんとうの生み手は、貧弱な共同社会そのものである。

                      (『共同幻想論』禁制論P64)


 共同幻想の「ほんとうの生み手は、貧弱な社会そのものだとすれば、探究すべきは「貧弱な社会そのもの」になります。
 マルクスは資本論で下部構造=モノを媒介とした関係を思索しましたが、下部構造の上部構造への影響を絶対とはしていません。ある頃からは上下の構造のカップリングとしてみることも一案にすぎないとしているようです。(「共同幻想論」では共同幻想はマルクスの上部構造のことだと説明されていますが・・・)


  では、この<貧弱な社会>とはどのようなものなのでしょう。
  何が<貧弱>なのでしょうか?
  この<社会>は上部構造なのでしょうか?
  それともモノを媒介とした社会として下部構造的なものなのでしょうか?


 社会はモノを媒介とした関係ですが、モノを認知するのも関係を認識するのも個人の心であることには変わりありません。そして認識において規範となるものや反復されるものはモノと同じように感受されます。簡単にいえば、人間が働きかけて変化させない限りは不変のものとして感受される(モノは規範であり反復されるものであり)ということであり、現実には感受している実感さえない(象徴界のように)ものです。
 <モノ>にはそういった意味合いが込められています。人間はそれらを意識することなくそれらに支配されている…といえるものです。



 <モノ>が意味するのは<不変>の関係になります。
 逆にいえば不変の関係=変わらない関係はモノであり、モノとの関係と同じだといえます。その都度認識する必要のない、いつも変わらない関係です。

 感覚は絶えず機能していて、時間の経過とともに変化する環界を感受しています。環界の急激な変化に個体が気がつかない場合、大きな危険にさらされる可能性があるからです。
 逆に変化のない関係であれば、いつも同じような関係に対して同じような対応をすればいいコトになます。この同じような対応の仕方を固定させたものが<規範>です。

 さまざまな経験による認識は<概念>としてストックされ、反復する認識は<規範>として認識のフレームを形成します。
 この概念と規範が同致したものにつけられたタグが<言語>になります。

 規範が優位なままに生成する認識のクラスターやレイヤーは共同性といえるかもしれません。あるいは規範に無意識のまま組み込まれるものに共同性としてのニュアンスがあるのかもしれません。 意識できないもの、あるいは意識を規定してしまうものとしての共同性や象徴界的なもの…。

2017年4月24日 (月)

<共同幻想>を生む禁制と自己言及

 共同幻想は何らかの禁制(Tabu)を前提としますが、禁制の対象は個体の意識のなかで措定されているハズです。
 この措定する意識も自己の意識なので、対象化するということそれ自体で意識×意識(自己言及性)が前提となっています。心的現象論序説で示唆されているように<観念のべき乗化>です。共同幻想は自己言及や再帰性を前提として生成するものです。


   ある事象が、事物であっても、思想であっても、
   人格であっても禁制の対象であるためには、
   対象を対象として措定する意識が個体のなかになければならない。
   そして対象はかれの意識からはっきりと分離されているはずである。
   かれにとって対象は、怖れでも崇拝でも、そのふたつでもいいが、
   かれの意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている。

                      (『共同幻想論』禁制論P46)


 個体のあらゆる認識が統覚からみて自己言及である(orでしかない)ということは、入れ子構造を仮構することで安定が担保されています(この自己言及をひとつの単位とし、そのアトラクタブルな領域をひとつの入れ子構造と想定できます)。
 自己言及による不確定領域は仮に空間性を代入することで安定しますが、それは仮定(or過程)であり絶えず更新され続けています。
 この更新をせまるものが「身体組織としての生理的な自然そのもの」であり心的現象論序説でいう<身体の時間性>です。

         
改訂新版 心的現象論序説 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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   じぶんにとって、じぶんが禁制の対象であったとすれば、
   対象であるじぶんは酵母のように歪んでいるはずである。
   そしてこの状態にたえず是正をせまるものがあるとすれば、
   かれの身体組織としての生理的な自然そのものである。

              (『共同幻想論』禁制論P46~47)


           
改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

著:吉本 隆明
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 吉本式にいえば原生的疎外純粋疎外に絶えず是正を迫っているともいえるもの。
 「意識によって、対象は過小にか過大にか歪められてしまっている」ために、その歪みを是正する必要がある…のであり、同時にその是正への抵抗としても生は意味づけられていくものだと考えられます。

2017年3月31日 (金)

利他的な行為の停止からはじまる共同性

 共同性の前提とは、ある意味で、自他を分けることです。
 自分サイドの人とそうでない人を分けるのがもっとも重要なポイントで、このことそのものが自分の所属する共同体と共同体外とのボーダーにもなります。

 具体的には、利他的な行為の停止が共同性の前提となります。

 生後6~8ヶ月の乳児でも、他者を助けていたのに、それが3才くらいからケースバイケースになるのです。この時、自分にプラスのものとマイナスのものを峻別することが基本になっています。

   生後六~八か月の赤ん坊も、
   社会的行動で相手を評価している…

   (『<わたし>はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』 第5章 ソーシャルマインド P183)

   幼児は三歳を過ぎたころから、生来の利他的な行動を抑制することを覚える。
   過去に何か分けあってくれた者を優先するなど、
   手助けする相手を選別するようになるのだ。

   (同上 P182)

           
〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

原著:Michael S. Gazzaniga
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 生後6~8ヶ月の乳児でも、他者を助けるものを選ぶことがテストで確認されています。
また、他者が何かを探していると、それを指さしして教えてあげるという利他的な行為もします。

 生後6~8ヶ月の乳児が利他的だということは、人間のデフォルトが利他的であることのエビデンスになりうるもの。

 人間は元来から社会的な生き物だということでしょう。

   他者を肯定するものを肯定する…ということ。
   他者が何か求めていたら助けてあげる…ということ。

 この2つが人間の基本にあるということ、すくなくとも3才までは、利他的な行為が基本にある…。いいかえると、この2つは他者どうしが肯定しあうこと、とまとめることができるでしょう。

 これはつまり<相互に全面肯定である>という対幻想そのもの

 母子一体、自他不可分、世界=自分であるというスタート時の心の原形(時点ゼロの観念=)がそこにあるといえるでしょう。

 そして「幼児は三歳を過ぎたころから、生来の利他的な行動を抑制する」ようになり、ここから他者とともに生きていく現実に対応した社会性を身につけ、それは具体的には共同性そのものの発現として生成されるものだと考えられます。

2017年2月28日 (火)

対象との<関係そのもの>と想像するときの<根源にある枠組み>

対象をどういうように想像しようが、
想像に左右されないで不変なものがある…
それが本質直観である…

…というのが現象学の要諦だとされています。

 それは主体-客体に代表される二元(論)的な発想をブレークスルーするための画期的な方法でもあったのだと、それらについて『心的現象論本論』(P30)では「この種の現象学的な還元が、きわめて有効な遁走である」と結論しています。欧米思想にとって「有効」であり、しかもそれは「遁走」だというところに、いつもの臨界を極めていく鋭利な思索があるようです。

 考えてみると、ここには2つ以上の?があり、それそのものが「有効」であるというレベルと「遁走」であることの理由を示してもいます。

 大きな問題は「不変」が「本質」であるという誤解と、「本質」が「直観」できるという錯誤の2つ。


           
心的現象論本論

著:吉本 隆明
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 「本質」というものについてはヘーゲル以来のあるいは哲学全体の思索があり、「直観」についてはすでに『心的現象論序説』で解体されてもいます…。悟性や理性の定義をしない(できない)で論を進めている多くのナントカ学の無効が宣言される一説なのかもしれません。もちろん古典という形容で免罪されるものは吉本の思索にはないでしょう。

   心的な領域を原生的疎外の領域とみなすわたしたちのかんがえからは、
   ただ時間化度と空間化度のちがいとしてしか
   <感性>とか<理性>とかいう語が意味するものは区別されない。

   心的現象の質的な差異、たとえば精神医学でいう分裂病や躁うつ病やてんかん病は
   ただ時間化度、空間化度の量的な差異とその錯合構造にしか還元されない…

                     (『心的現象論序説』Ⅲ章「心的世界の動態化」P93)


           
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対象をどういうように想像しようが、
想像に左右されないで不変なものがある…
それが本質直観である…

「想像に左右されないで不変なもの」が「本質直観である」というのは、
「本質直観」は「想像に左右されないで不変なもの」ともいえます。
…つまり、そういったものを探せばいいワケです。



対象認識をするときに想像に左右されないものといえば、
たとえば、
対象認識をするときも想像するときも不変的もの…
それは、突き詰めれば対象との<関係そのもの>想像するときの<根源にある枠組み>
になります。

心的現象論の読者には基礎知識でしかないことですが、哲学をはじめさまざまな思索が自己言及の不可能性ゆえにアンタッチャブルのままきたものがここにあります。少なくともポストモダンやニューアカや自己言及というものがブレークスルーすべきものであることは見出していました。その後の沈黙は方法が見当たらないためであり、ターゲットが把握できなかったわけではないと思われます。

2017年1月31日 (火)

マテリアルとしての<共同幻想>

‘対象に投影された自己像の不可知性’つまり自己言及による決定不能性はゲーデルの定理やチューリングマシンの問題としても有名ですが、人間の心理現象としては強力な防衛機制?としてこれらの問題はクリアされています。不可知な部分に何かが代入されて処理されていくからです。代入されたものはマテリアルな属性をともなって意識に影響をあたえます。これが共同幻想です。
「すべては<代入される空間性>」

共同幻想は意識がおよばないという意味ではマテリアルであり、ラカンの象徴界(「三界論と<力>と」)オーバーラップするもの。また論理的にその因果を探せば(自己言及の限界として)自己言及できない領域として抽出できます。ポスモダ的な論議の可能性はそこにありましたが、どこからも誰からも解が指し示されることはありませんでした。タームのブリコラージュだけの衒学では言及することさえ不可能だったのでしょう。構成同一性(「<思考>のはじまるところ」)が行使されない認識は思索にはなりえないという(ベイトソン的な)エビデンスそのもののようですが…。
「言葉を生むもの…とは?」

このマテリアルとしての属性は哲学的には先験的理性のようと表現されるものです。この先験的理性のようなものを<純粋疎外>とした説明が「心的現象論序説」による基礎的な定義になります。このことから理論的にあるいは論理的な帰結として共同幻想が純粋疎外に由来あるいは依拠するものであることが分かります。あるいは純粋疎外状態から生成するのが共同幻想だということになります。「共同幻想論」そのものでは入眠状態あるいは夢幻様と説明される心理状態です。「共同幻想論」での入眠時の状態あるいは夢幻様とよばれる心理状態は、別のいい方をすれば全般的な<純粋疎外>の状態であることを指しています。
「世界と<身体>とシンクロする可能性=ゼロ」



           
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入眠時あるいは夢幻様とよばれる、この睡眠と覚醒の混融した状態は、脳科学的には脳幹網様体がコントロールしているもの。脳幹網様体は機構的には感覚、意識、内分泌系の情報が相互にフィードバックする領域で意識の覚醒のレベルを決定しています。個体の心理を探究した心的現象論から、個体を母体との関係で解いていく「母型論」では大洋の概念をモチーフに思索されていくものが、これに対応するところがあると考えられます。この<大洋>でイメージされるものがフロイトにおいては羊水であることはある程度オーバーラップします。
「<大洋>がメタフォアとなるベースが明かすもの」
「時間性・リズムという科学」

脳幹網様体の機構が感覚からの情報、皮質からのフィードバック情報といった神経系の情報とともに、内分泌系からの情報が加わっていることに大きな意味があります。細胞膜やレセプターを通じた内分泌系の情報は神経のパルスより一桁も二桁も速いスピードで作用します。たとえば角田テストによると実母の声に脳幹が反応するのは10000分の1秒というスピードであり、これは細胞膜でのイオンのやり取りの速度に相当します。しかもそれは意識という自覚なしに行使され、事後的にも意識化されることはありません。
「ゴースト、デジャブ、クオリアを見る吉本隆明」

脳神経学的にいえば、胎児は羊水に浸かっていますが、脳幹網様体(そしてすべての細胞)は内分泌系の液性環境に浸かっています。そしてこの液性環境での情報のやり取りがラジカルに個体の活動をコントロールしています。神経反応どころか精神活動さえもその完全な影響下(コントロール下)にあります。これは地上の全生物とその全生命が液性環境に依拠しているという普遍的な事実そのものの象徴的なエビデンスでしょう。液性環境の均衡を気分として探究する木下清一郎の考察は斬新で大きな可能性がありそうです。液性環境での情報のやり取りにリン脂質を利用していることを人間の(脳と心の)大きな特徴として研究した木下清一郎の指摘のように、各種リン脂質であるホルモンやサイトカイン、痛み物質であるプラスタグランジン、痒み物質であるヒスタミン…の液性環境に浸かって10000分の一秒で代謝する細胞を心の原点とした論考はラジカルなもの。もちろんその対極に観念の運動としての人間活動を探究し続けた吉本隆明がいます。
「言語とイメージが探究される理由は? 2」

2016年12月31日 (土)

先験的理性のようにみえる<純粋疎外>≧共同幻想

 先験的理性のようにみえると説明されている<純粋疎外>。
 先験的であり理性的であるとしたら…そこに思考が介在することは可能でしょうか?
 あらかじめ思念することが不可能であるような印象があります。
 そして、それこそが共同幻想(が成立する)の基本的な根拠になるもの。

 逆の説明も可能です。思考できない領域だからこそ先験的理性のように感受されてしまう…ということです。
 いずれにせよ、ここに共同幻想の根拠があります。(思念や想像がおよばないものだとすれば、それはラカンの象徴界にも似ているかもしれません…)


 マルクスはこの思索しづらい領域をいっきょに把握しようとしました。それが経済分析でした。いわゆる下部構造へのアプローチです。下部構造のマテリアルとテクノロジカルな解析ができれば、その上部構造である宗教や文化や国家は把握できると考えたワケです。
 マテリアルな関係を分析できれば、それを基礎にしている関係(社会や文化、国家や宗教)は理解できる…ということ。

 ところが現実には、そうカンタンには社会や文化のさまざまな現象は理解できません。物質的基盤が同じであれば、同じような社会や文化になるか…現実にはなりません。同じ環境でも宗教や国家は異なるものになるし、習慣や風習も違っていたりします。
 そもそも人間にとっていちばん基本的な言語や家族の形態も場所が異なれば異なっている方が普通です。

 この異なっているものをサンプルの数だけ、現実の数だけ蒐集しアプローチする社会学、人類学や民俗学、あるいは歴史学のようなものがあります。ブルデュートッド阿部謹也のようなアプローチが結果として、科学や法則として社会にアプローチしたマルクスのものと近似したものでもあることは、大切なことだと考えられます。アプローチの方法論ではなく結果を考えるとき、さまざまな方法を試してみることは価値があることでしょう。開かれているスタンスでなければ、どんな問題も根源へ至ることはムズカシイでしょうから。


 マルクスがモノゴトを媒介とする関係(下部構造)に思索をめぐらせたように、関係そのものに思索をめぐらせ探究したものが心的現象論です。
 先験的理性のようにみえる…ということの原理から思索し直したのが心的現象論のアプローチです。

 <先験的>というように経験を超え、<理性のように>という思考を制する規範であるかのようなイメージ。

 これらの超越性とイメージが生成する根拠を探究すること…
 それが心的現象論のモチーフになります。



『心的現象論序説』から…


   <精神>は台座である<身体>とはちがった<自然>である現実的環界の関数で…
   この関数は、…<精神>の問題としては人間の個体とじぶん以外の他の個体、
   あるいは多数の共同存在としての人間との<関係>の関係である。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)

   人間の<関係>の総体としてのこの世界は、
   フロイドが無造作にかんがえたほど等質ではなく、
   異なった位相の世界として存在している。

                                    (「Ⅰ心的世界の叙述」P45)


   生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、
   時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、
   現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域は、
   空間性(空間化の度合)によって抽出することができる…

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P50)


   人間と人間とのあいだの直接的な関係にあらわれる心的な相互規定性は…
   生活史と精神史との歴史的な累積を、
   心的現象の時間化度と空間化度の錯合した構造としてしか保存できないし、
   この構造にしか他者に伝達可能な客観的な妥当性を見出しえない。

                               (「Ⅱ心的世界をどうとらえるか」P70)



           
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2016年11月21日 (月)

<価値>を生む、対幻想2

{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想に非肯定=否定が介入、生成して認識がはじまります。母子一体(自他不可分)の状態からの分節化であり、ここに他者、世界、自己が生まれます。


fr  2015年5月17日 (日)<内コミュニケーション>のトレードオフ

 “想像できるのは経験したことだけだ”という多少ビミョーに思われた心的現象論序説における指摘が、ここで、ラジカルな意味であったことがわかります。母子関係(直接母子交通)における経験が想像(力)をさえ拘束しているから、です。

 

リアル体験は母子関係(の経験・記憶)に照らして確定しますが、その確定のスピードと固定化の度合いは病気の重さに比例すると考えられるでしょう。

       -       -       -

 あるデキゴトがキッカケで人は病むし、狂う…という事実は何を示しているのか?

 さまざまな出来事に遭遇し、多くの人に出会う…。人はその過程で心を病むし発病する。あるいは不安感や恐怖感を持ち続けてしまう。

 ここでの論考として当初から掲げていた対幻想の内容からの演繹がその解にもなります。それは対幻想の内容としての「相互に全面的に肯定されるハズ」という幻想です。

   

相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
   一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。

   

{相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては
   母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。


       -       -       -

fr  2016年4月 2日 (土)<世界心情>…可視化する対幻想2.0

 この{(対幻想への否定)の否定}…としての対幻想は対幻想2.0ともいうべきもの。<世界心情>とはそういうものとしての心情=対幻想2.0の可視化したものというべきものです。相互に全面肯定されるハズ…という幻想は対の関係を規定するもっとも基本的なもの。この関係が抑圧され否定される時、それへの反作用が起きるのは自然なことでしょう。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。

(*『共同幻想論』・対幻想論から考える・*予期理論やラカン…から・*<内コミュニケーション>のトレードオフ

 問題はそれを不可視にしているものは何なのか?ということ…。

 「高度情報化」の社会像の像価値は、
 ・・・映像の内在的な像価値のように、一見すると究極の社会像が暗示される高度なものにみえない・・・
 それはわたしたちが、
 社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、
 わたしたちを安堵させているからだ。

 社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、
 わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
 そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。

(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりについて」P31,32)(*「イメージ論2.0」のはじまり…現代が<終わってる>ので!?


fr  2016年5月 6日 (金)認知哲学の最重要テーマ、イリューヅョン=幻想

 

自分の「意識を持つ存在」としてのあり方を保証し…とういうのは対幻想のいちばんの基本である<相互に全面肯定されるハズ>という幻想を保証するものそのもの。それは、別のいい方をすれば自分を<図>とすれば<グランド>になるもの、自分の認識を支えてくれるバックグラウンドそのものとなるものです。具体的に簡明にいってしまえば子(胎児)にとっての母(母胎=大洋)ということになります。すくなくとも人間はそういう時期を10ヶ月以上不可避に生きる過程とし、その後も個の意識が確立するまで十数年あるいは数十年を基本的に、あるいは不可視のうちにそのような構造のなかを生きていきます。それが徹頭徹尾自分と対峙する存在として立ち現れる、そういう他者…であるのは具体的な存在である母という個別的現存のことでもあり、そこにはエディプス的な父性の存在も含意されています。

見させる・聴こえさせる・感じさせるもの…グランド

<大洋>からはじまる言葉と意味…『母型論』

 

「他者の心」の存在というこのイリューヅョンこそが、意識の成立に決定的に関与する…というとき、自己の存在を問うことだけでも臨界であるかのような思想や哲学が超えられています。ここでは人間は先験的に類であり、他者はその別の表現でしかないからです。(先験的に類であることは、共同幻想が自己幻想に先立つことの生物的な側面であり、宗教というものの必然にとってのエビデンスになるもの)

 もちろん個体の心理現象から解いていく心的現象論的な観点からは、以下の様にいえます。

   他者に反映された自己像の空隙に規定されていくもの、
   あるいは代入されていく空間性としての共同(幻想)性…

共同幻想≦ブラックホール?

すべては<代入される空間性>


fr  2016年5月20日 (金)<共同幻想>という有名な言葉…創作・伝達

 共同幻想という有名な言葉が示すものは、ラカンの象徴界ともオーバーラップして、意識できないものあるいは意識を左右するものとして把握されていきます。心身ともに自覚的に行使される意識的なものの背理として共同幻想はあるのでしょうか?
 共同幻想と対幻想は、よくあるコンピュータのオプションのように、相互に排他的なもの。
 一方が作動しているとき、他方は作動できず、両価的であり双数性である2つの幻想はシーソーのようにバランスしながら作動します。

 心的現象論序説には共同幻想そのものの生成にかかわる説明はわずか1、2行だけ。対象認識時に対象に投影された自己像(の不可知性ゆえ)に代入されるものが共同観念の代同物…というものです。この‘対象に投影された自己像の不可知性’というのは、論理的にはニューアカ当時に流行ったゲーデル問題であり自己言及ゆえの決定不能性といわれた問題と同じもの。ニューアカではなくともギリシャ哲学以来の論理的な問題として‘クレタ島人のウソつき’というパラドックスとして有名です。クレタ島人はウソつきだとクレタ島人が言ったとすれば、その真偽は決定不能…という問題。禅問答風でもあるけど、この決定不能性の問題はゲーデルやチューリングマシンの問題として知られています(経済(学)で合成の誤謬として解決不能とされている問題も根本は同様のもの)。この決定不能の領域に仮に代入されるものが「共同観念の代同物」(=共同幻想)なのです。代入は心理的(心的現象の)な安定のために行われます。

2016年10月29日 (土)

<価値>を生む、対幻想

対幻想は<個別的現存>でしかない人間が<人類>であることを可能にするもの。シンプルにいえば人間にとっての根源的な価値を産出するもの。そして認識の初源になるものです。認識は対幻想から遠隔対称化する…と考えてきた過去のものを並べてみました。


fr  物語の生まれとはじまり

●母との物語はいくつかのパターンに分けることができます。

●そのパターン化する以前、分岐する前の基本となる認識(感情、気持ち、思考などの原点となるもの。数学でいえばゼロの状態に相当するものです)があります。

●このゼロの状態が減算され微分されてパターン化し分岐します。
 自分が全面肯定される(ハズだ)という<対幻想>=<時点ゼロの双数性>が否定されることによって拡散するわけです。

●対象に投映された<自己が全面肯定される(ハズの)志向性>が、否定(去勢)されることによって拡散します。

●(自己)肯定のイメージが微分されるワケですが、この時絶対に微分されない拡散されない領域があります。前述にもどれば否定(去勢)されない領域があります。
 それは自己の観念からいえば対象に投映された時に自覚できない領域です。自覚できないために否定されることもありません。(否定を自覚できない)
この領域に対する否定は身体的な否定に相当し、それは観念にとって依拠する環境そのものの否定になります。


fr  『心的現象論序説』 P30

自己観察によって確かめられる部分でさえも、
自己が自己に対置されるという幻想的な一対一の分化が、
観察の前提をなしている。


fr  『心は遺伝子をこえるか』(木下清一郎・東京大学出版会)
  第5章 脳と心  1―構造としての階層  (4)前頭葉  P153

脳の最終の統合領域である連合野が脳のなかに一つではなく、
いくつか同時にあらわれたことは重要である。
なぜかといえば、
連合野どうしのあいだに想念のやりとりがおこなわれうる基礎ができたからである。
考えることの本質は、自分が自分に問いかけ、これに答えるところにあるならば、
ここにはじめて脳は考えることのできる存在となったわけである。
観念の対話があって、はじめて認知や判断といったいわゆる知能とよべるはたらきが
生まれてくるのであろう。


fr  2007年2月17日 (土)独解=<ゼロ>の発見

 人間は個別的現存でしかないのになぜ人類が成り立つか?という若きマルクスの疑問に、吉本さんは<対幻想>という根拠を示しました。ニューアカに影響された自分は、それを<時点ゼロの双数性>とニューアカ風に表現してみました。相互に全面肯定=絶対認知される(ハズ)という幻想と、非肯定性による対幻想(全面肯定性)の非対幻想化(遠隔化)が考えられます。遠隔化された結果として共同幻想や個人幻想の属性を措定する吉本理論のスゴサは驚くばかりです。アルチュセールが毛沢東の矛盾論からインスパイアされたように、フーコーなどもこういった(理論化された)論理的な機序を知りたかったのではないでしょうか。


fr  2011年3月25日 (金)『共同幻想論』・祭儀論から考える

P139
…<死>では、ただ喪失の過程であらわれるにすぎなかった対幻想の問題が、
<生誕>では、本質的な意味で登場してくる。
ここでは<共同幻想>が、社会の共同幻想と<家族>の対幻想という
ふたつの意味でとわれなければならない。

 ここに対幻想と共同幻想が逆立する契機があります。
 <生誕>をめぐる村落の共同幻想(公的関係)と対幻想(親和的関係)は相互に移行可能であることが指摘されています。家族は親族や部族に遠隔化しやがて民族や国家まで至る可能性もあるとともに、一対の男女はそのすべての起源たりうるからです。


fr  2011年7月15日 (金)『共同幻想論』・対幻想論から考える

P176
…<対なる幻想>はそれ自体の構造をもっており、
いちどその構造のうちにふみこんでゆけば、
集団の共同的な体制と独立しているといってよい。

共同体とそのなかの<家族>とが、まったくちがった水準に分離したとき、
はじめて対なる心(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題が
おおきく登場するようになったのである。 
もちろんそれは近代以降の<家族>の問題である。

 対幻想は集団からは「独立している」という断定はわかりやすく、多くの読者が共有する対幻想への理解がここにあります。それはまた同時に共同幻想そのもの(への理解)を難しくしているものでもあるでしょう。親(子)に対する対幻想(家族)と男女間の対幻想(性)は異なりますが、それは時間への関係性の違いです。

 {相互に全面肯定である(はず)}という対幻想の臨界は心的現象論としては母子一体(自他不可分)の認識からはじまりますが、共同幻想論では関係の初源としてはじまります。
 対幻想と共同幻想との緊張をともなう差異(齟齬・軋轢)から自己幻想が析出するという示唆は、歴史(観)と現存在(個人)の関係を探り、(人)類と個(人)を考え抜いたからこその結論ではないでしょうか。またフーコーを世界視線からみたようなイメージもあります。


fr  2011年9月 8日 (木)『共同幻想論』・罪責論から2

P214~215
<父>はじぶんが自然的に衰えることでしか
<子>の<家族>内での独立性をみとめられない。
また<子>は<父>が衰えることでしか
<性>的にじぶんを成熟させることができない。
こういった<父>と<子>の関係は、
絶対に相容れない<対幻想>をむすぶほかありえないのである。

 ルソーからフロイトまで欧米思想に散見するエディプス・コンプレックスの解と(も)なる認識でしょう。
 「絶対に相容れない<対幻想>」の設定が吉本理論らしい原理と圧倒的な何かを示しています。{相容れない<度合い>}(あるいは{相互に肯定される(ハズの)<度合い>})をバリアブルなものとして設定すれば遠隔化の度合いを示すものとなり、その究極に共同幻想の極点が想定できます。
 この父子相伝の西欧的に表象しがちな関係ですが、神話からアニメまで多くの物語がベタにこの構造をそのまま展開させています。またリアルな権力(者)のヒエラルカルな構造(関係)も同様なものとして考えることが可能かもしれません。


2016年9月17日 (土)

エディプス・コンプレックスが届かない無意識の<核>

 母から生まれ、母に育てられる人間の存在のあり方と比べて、子にとって父が意味をもってくるのは社会化し始めるころから。吉本的あるいは母型論的には外コミュニケーション以降だと考えられます。それ以前の、胎内から言語以前までのコミュニケーションは代謝なども含む内コミュニケーションとして最重要のもの。この内コミュニケーションこそ無意識とその核を生成し形成するステージでありレイヤーであり、<大洋>という言葉で表された状態になります。


   問題児を抱えた家族から委嘱されれば、
   非常に厳しい訓練を課して、
   父親代理人となって立ちふさがる…
   …
   それで解けるのは、たぶん心の表面層と中間層のあいだくらいまでだと思います。

                                                                                      (『人生とは何か』P61)


 ファザコンからアプローチしても、その分析は深くならず「無意識の核」までは届かない…把握でき解決できるのは「表面層と中間層のあいだくらい」まで…。このシンプルですが、とても大きな意味のある指摘は、吉本隆明が無意識についての思索を巡らせた90年前後のものと思われ、まだ中途のもののようです。一時期流行ったスパルタ式の教育や訓練セミナー的なものについての論評の一部。



 ファザーコンプレックスは有名な言葉であり概念ですが、現実にどのような意味を持って心理や精神医療の世界で使われているのでしょうか。

 日本のポスモダ、ニューアカでもファザーコンプレックスは重要な概念でした。資本主義のパラノドライブをドゥルーズ=ガタリを手がかりエディプスコンプレックスで説明してみせたニューアカのスタートは、バブルへ突入する時代を素直に反映した上部構造現象ともいえます。日本初のラカンの解説でもあった『構造と力』がニューアカの聖典なのだから当たり前かもしれませんが(同書の時点ですでに浅田彰氏はラカンの限界を指摘しているのは、さすがの才だと思われます。しかし、それに注目した論者がいないというのも日本のリアルなのでしょう)、人気のある何名かのラカニアンによる仕事も貴重だと思います。システム論との融合のような試みもあったようで、その元気さは思索を遊ぶ人たちにスノビッシュな刺激となりました。ウオール街の占拠デモを計画した共産主義者のジジェクも日本ではラカニアンとしても人気があります。

           
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   フロイト的に云うと、無意識の世界、あるいは前意識の世界でもいいんですけど、
   それを3つの層に分けるのがとても分かりやすいと考えています。
   つまり、1つは表面層、1つは中間層、もう1つは核です.
   非常に奥深くこしらえられたその人の無意識の核というものがあります。

                                                                                     (『人生とは何か』P25)


 ラカンは無意識は構造化されているとしていますが、どう構造化されているのか説明がされていないようです。吉本隆明=心的現象論的には、『人生とは何か』『心とは何か』などで無意識を3つの層に分けた思索がされています。ある意味で汎用的な思索の枠組を当てはめた試論ですが、それだけに、思索の方法に長けている吉本らしく間違いのない展開がなされています。

 無意識の領域と現実界の間に境界領域を設定し、現実界側に意識の領域が設定されています。無意識の領域には現実界に接したところから順に表面層中間層が設定されています。現実界側に意識の領域が設定されているのは現実を認識しているものとしての意識という意味でありラカン的な意味での現実界ではないということなのでしょう。

 ファザーを対象化した場合の分析と解決への経路の限界は、当然ですが全ての人間とファザーより先験的ではるかに質的に深い関係であるマザーとの関係への探究によって解(説)かれていきます。 『人生とは何か』『心とは何か 心的現象論入門』『母型論』では母子関係からの分離、大洋からの析出が言語の獲得をはじめ人間が人間であることのエビデンスであること、その困難さそのものから描かれていきます。



           
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2016年8月18日 (木)

現代という作家を明かす…『村上春樹は、むずかしい』

気鋭の批評家東浩紀氏が「吉本(隆明)派」と呼んだのが加藤典洋氏。一般には早くから村上春樹の研究家として知られている有名な文芸評論家です。

   …言語を概念化すると、中央部に言語が来て、
   両端に音楽(自己表出100、指示表出ゼロ)と、
   絵画(自己表出ゼロ、指示表出100)がくる図が得られます。

   音楽、絵画は、そういう言語的にいえば「極端な本質」を
   逆手に取った表現メディアなんだと思った。
   そこから中也の詩の音楽性ということなども考えさせられた。
   以前は、野暮だなんて思ったのに、
   実はブリリアントな頭脳、非常にスマートな考え方だったんです(笑)。
   …
   で、いま出ている角川文庫版の『定本・言語にとって美とはなにか』の
   第一巻解説は、実は僕が書いているんですよ。

               文藝別冊『さよなら吉本隆明』P94
               加藤典洋「吉本隆明―戦後を受け取り、未来から考えるために」

指示表出と自己表出の位相の設定が本来の意味とは異なっていますが、静態的に見るためのあるレイヤーだとすれば大変わかりやすいものかもしれません。
「指示表出と自己表出の可能性」から

 吉本隆明の読者であればアレ?と思うかもしれません。たしかに、ちょっとヘンですが間違ってはいません。指示表出と自己表出という『言語にとって美とはなにか』の代表的な概念装置からすると足りないもの?がありますが、機能分析的に使うならOKなのではないでしょうか?

ジル・ドゥルーズの直弟子でもあった宇野邦一氏は、吉本隆明の幻想論を根本から認めないという立場ながら、多くの問題意識を共有するために、以下のように吉本のファンクショナルな意義と可能性を指摘しています。

     たとえば自己表出を強度として、
     指示表出を外延として、
     考えてみることができないだろうか。

      『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』P196「Ⅲ <美>と<信>をめぐって」
      (『外のエティカ』(宇野邦一)からの孫引き)

機能分析の方便として心的現象論序説でGradeの概念が導入されているように、自己表出を強度とし、指示表出を外延として考えるのは有用な指摘でしょう。
「指示表出と自己表出の可能性」から


 加藤典洋氏がまるで吉本隆明のように村上春樹を批評しているのが『村上春樹は、むずかしい』だとすれば、吉本隆明がまるで文芸批評そのもののように春樹ワールドを分析してるのは『ハイイメージ論』で読むことができます。

 文芸ジャンルのプロからはdisられシカトされたのが村上春樹の初期でした。デビュー時に春樹ワールドに魅了され、その文体をマネしたり分析したりしていたのはコピーライターやサブカル系のジャンルのマガジンであって、文芸ジャンルではありません。サブカルの領域では“エヴァンゲリオンの登場で文芸は終わった”という説得力のある言説が流れいて、当然だと思っていた人は少なくないでしょう。事実、当然です。

 明治以来の12音階への洗脳教育のなかで登場したTK=小室哲哉の登場でもそうでした。小室氏も著名な音楽家や作曲家から激しくdisられたのです。それは“音楽の理論にあっていない”という爆笑ものの非難に象徴されていました。自らの依って立つ12音階理論だけが正しいのだというのでしょう。そこには―あらゆる理論は現実から抽象されるもの―という科学の初歩がありません。ただ自分にだけ都合のいい狭量な宗教になってしまっています。


           
村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

著:加藤 典洋
参考価格:¥864
価格:¥864
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 加藤典洋氏はきっぱりと入り口で宣言しています。

     世の村上好きの愛読者たちには嫌がられるかもしれないが、
     彼は、そういうファン以上に、彼に無関心なあなた方隣国の知識層にとってこそ、
     大事な存在なのだと知らしめたい。
(『村上春樹は、むずかしい』「はじめに」P13)

 これは本書で繰り返し指摘されるある事態を示しています。
 それは東アジアで村上春樹が読まれているにもかかわらず、その東アジアの知識層には春樹もそのワールドも支持されていない、評価されていない…という事態です。

 この指摘は“左右両翼から十字砲火にあった四面楚歌の評論家”と自称する加藤氏ならではの分析であり批評だからこそ可能なもの。そして加藤氏と同じ知識層に対して自覚を促すクリティカルとなっています。エヴァンゲリオン以降の世代であればシカトしておけばイイような相手を丁寧に導こうとする氏の真面目なスタンスは、常に自らを振り返りつつ思索している氏ならではのものからかもしれません。

 大衆と知識層の乖離は吉本隆明にあっては大前提であり、社会を見るときの基本となるものであることは吉本の読者には常識でしょう。資本主義のすべてのプロダクトを指示表出として批評したハイイメージ論では、すでに知が無効であること倫理がないこと…が基本的なモチーフであるとともに結語でした。それは商品という指示決定に対して自己確定するとはどういうことなのか?それは可能なのか?それは正常に行われているのか?その最適解はあるのか?という高度資本主義の圧倒的なボリュームの環界をめぐる思索でした。それが知識層が誰もタッチできず言及することさえできなかったエビデンスなのでしょう。

 そこには大衆の指示表出を自己確定できない知識層の姿があります。

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